【書評】普段見過ごされている日常的な体験に目を向け、その体験を意識して味わって生きよ―飲茶著『体験の哲学』
哲学という単語が付く書物は堅苦しくて近寄りがたいイメージを伴うが、飲茶著『体験の哲学』は全くテイストが違う。哲学書でも、これでもかというくらい珍しく「実践」をひたすら推奨する書物なのだ。何を推奨しするか、それは日常生活に伴う様々な「体験」のことだ。
体験は人生を変える
たとえば、あなたが毎日同じ部屋で寝起きし、同じ通勤、通学風景、同じ職場、同じ人間関係、同じ食事メニュー、同じテレビ番組、同じ店、同じ買い物・・・なにもかもいつもと代わり映えがしないのであれば、既知の世界という定置網の中をグルグル徘徊しているだけだ。そこに刺激は一切存在しない。はたしてそれは生きていると言えるのか?
そこで作者の飲茶は次の言葉を読者に突きつける
そう、日常的な体験の中に、いかに自分の体験したことのない「体験」を挿入し、重ねていくか、それこそが人生に輝きを取り戻す大いなる秘訣だというのだ。事実、本書冒頭でこの本の効能が次のように書かれている。
同じ店しか毎日行かないのであれば、その他の店は「ただの壁」になってしまう。だが、いつも通る道をよくよく目をこらして観察してみると、行ったことがないどころか、存在を意識すらしたことがない店が、不意に興味の対象として立ち現れてきたとしたら?
そして用はなく、冷やかしであっても、勇気を振り絞ってその店のドアをこじ開け、足を踏み入れてみよう。初めての空間にドギマギしながら、並んでいる商品を一つ一つ観察し、値段体系に驚きもし、そして、新たな興味をかき立てられて家に帰ってさっそくそれらについて調べることになったとする。後日、再びその店を訪れ、常連客である同好の士と知り合いになり、次の日曜日に開催されるイベントに誘われ、新しい人間関係が形成される……そんなことが起これば、間違いなくあなたは人生が大きく変化し、豊かな日々を過ごすことができるだろう。
そんな新しいきっかけをつかむには、まずは体験することが第一歩なのだ。
人生とは体験の束だ
作者は、人生にまだ体験したことがない、そしてこんなにも体験することが膨大に存在することを知るすべとして、巻末にチェックリストを用意している。このチェックリストをチラリと見るだけでも、いかに人生でまだまだ経験していない、まだまだやり残していることが沢山ありすぎることに呆然とするに違いない。
野菜、果物、文房具や家電のような道具から、衣類、飲食店、料理、飲み物(お茶、アルコール、コーヒー・・・)etcとにかくスゴい数のチェック項目がならんでいる。
たとえば「メロン」という項目一つとっても、夕張メロンもあれば、サンセットメロン、蔓姫、ホームランメロンとか、非常に細分化された品種がならんでいる。中には聞いたこともないような、「なにそれ?」という名詞も頻出していることに気がつくはずだ。これらを意識し、埋めていくことが体験を増やしていくことになる。人生とは、「体験の束」なのだ。
体験はネットや人工知能に代替できない、人間だけの特権である
ではなぜ、作者は「体験」をそこまで重視するのだろうか?そこには、人工知能が急速に発達した昨今の時代背景がある。単に知識をインプットするだけでは、人間は機械には到底及ばない。知識を言葉で交換するだけならば、生身の人間同士でなくとも、いずれは機械で代替可能性が生じてしまうのだ。
だが、「体験」はネットやAIで置き換えることはできない。スポーツ、様々なメニューの食事を味わうこと、実際に世界各地の都市を訪れてたり、朝日や夜空の星の輝きに感動し、野原に咲く花を愛で、鳥のさえずりに耳を澄まし、芸術作品を鑑賞、制作する。こういう「体験」は人間にしか実際に味わえないことなのだ。
実際にものごとを「体験」する際には、西田幾多郎のいう「純粋体験」を推奨している。「純粋体験」は「まだ判断が加えられていない生の体験」のことをいう。これだけだとわかりにくいが、具体的には次のような域に到達することだ。
うーん、スゴい。普段当たり前に体験していることこそ、初めて味わうような、特別な意識で体験すること。これこそ、マンネリを防ぎ、人生を謳歌する有効な方法であるのは間違いない。毎日やったことがないことを取り入れると、一年で365個新しい体験を積み重ねることになる。体験を増やすことは新しい自分をアップデートし、その他大勢からの差異化を図ることに繋がるのだ。
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