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父について 責任からは逃れられない
父は獣医師であるのだが、非常にもったいないと思われる人間である。
性格は真面目で、前線で実際の治療技術も高く、顧客からの評判も高い。ただ、マネージャーにはなれない。なぜならば、責任が負えないからだ。
父の口癖で1番に出てくるのが「わしは知らん」である。他の兄弟に確認しても間違いなく、同じ答えを言うくらい父は口にしている。
何か問題が起きた時に、父は報告されまいとする。今は忙しいなど言い訳を作るなどして、自分の耳に入れまいとする。そして、後で言うのだ、「わしは知らなかったから、どうにもできるわけない」と。
どうやら、父の母親が無責任な人間であり、その影響も父の性格を形作る上で大きかったようだ。前に聞いたのは、祖母(父の母親)が他人の家に軽トラックで突っ込んでしまって、田畑の柵などを壊してしまったことがあった。その時にあろうことか、祖母は父に「事故をしたから、その家に謝ってこい」と言ったようだ。本人はあっけらかんとしていたようだから、生来身近な人間の影に隠れて生きてきたのだろう。
そんな環境もあってか、責任を負う場面をいかに減らすか、そうした立ち居振る舞いを身につけてしまったのだろうか。さすれば、結婚して子どもを産むなど不可能ではないかと思うのだが、それは別問題なのだろうか。
本人は男としてのプライドを持っていることは間違いなく、それが顔を出すこともしばしばあるのだが、そんな立ち居振る舞いであれば重用されることもなく、ストレスが溜まることは間違いない。
ただ、本人としてもそれを是正することなくきてしまっており、私としてはそれを宗教が助けてしまったのではないかと思っている。つまり、宗教活動の中で自分の居場所が確保されてしまい、宗教的な価値観を追うことで、それが評価される形で無責任体質が覆い隠されるように、許されてしまったのではないかと考えている。
母も宗教組織の中で評価される父に納得してしまい、全てがうやむやなまま、家庭内はすべて母親の責任に帰結してきたのである。
子どもからしたらたまったものではない。私の子ども時代からの最大の懸念点は、私が学校内で問題を起こして父が学校に呼ばれるなどして社会に晒された時に、いかに私の父がハリボテであるかがばれ、それ以降私の後ろ盾が完全に消滅してしまうという不安である。そもそも後ろ盾がないわけではあるが、ないとばれていない状況に意味はある。私はそんな子ども時代を過ごしている。
父は血のつながった本当の父であるが、立ち居振る舞いで言えば間男である。父と一緒に暮らさないで幻想のままに生きれていれば、いかによかったか、今思ってもそうするしかなかったのだが、当時からそう言っている私の話に、耳を傾けてはもらえなかった現実だけが今につながっている。