はじめてな気がしない...を積み重ねる
今日はダニエル・カーネマン(心理学者、行動経済学者)による書籍『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』より「記憶の錯覚」という一節を読みました。一部を引用してみたいと思います。
機嫌のいいときに話を聞いたり、鉛筆を横向きにくわえて「笑顔」をつくって聞いたりするだけでも、認知は容易になる。逆に、見にくい活字やかすれた印刷の説明書、あるいは難解な用語を使った文章を読んだり、機嫌が悪いとき、しかめ面をつくったときに読んだりすれば、認知負担を感じる。
錯覚と言うと、すぐに目の錯覚(錯視)が思い浮かぶことだろう。私たちはそういう絵や写真を見慣れているからだ。だが錯視は、錯覚の一部にすぎない。記憶もまた錯覚を起こしやすく、より一般的には思考も錯覚に陥る。
以前に見かけたことのある単語は、そのあとは見つけやすくなり、ぱっと見せられただけでも、あるいは騒音で聞き取りにくくても、簡単に識別できるようにいなる。また、他の単語より速く(100分の数秒程度だが)読むこともできる。要するに、前に見た単語をまた見るときには認知が大幅に容易になり、それが「なじみがある、よく知っている」という印象につながる。
「あっ、この人、どこかで会ったことがある」
「あっ、この曲、どこかで聞いたことがある」
「あっ、この絵画、どこかで見たことがある」
このような「あっ!」という感覚とともに「初めてという気がしない」感覚になったこと、誰しもがあるのではないでしょうか。これは「認知が容易」であることを意味します。自然と意識が向いてしまうとも言えるでしょう。
個人的な経験に照らすと、初めてな気がしない(=認知が容易)という感覚を覚えるとき、その何かに対して不思議と親しみを覚えたり、惹かれたり、もっと知りたい、という前向きな気持ちになることが多いように思います。
その意味で「機嫌のいいときに話を聞く」や「笑顔をつくって話を聞く」と認知が容易になる、という話は大変興味深いです。認知を容易にする状況や行動を理解して、日常の中で意識的に実践することで、生活が整うような気がしました。
一方、「難解な用語を使った文章を読んだり、機嫌が悪いとき、しかめ面をつくったときに読んだりすれば、認知負担を感じる」とあるように、「認知の負担が高い状況とどのように向き合うのか?」という問いも重要です。
まずは認知の負担を下げることで、ネガティブな印象、感情を抱かないことが重要であると思います。
「難解な用語を使った文章を読む」という場合であれば、「同じトピックスの中で平易な用語で書かれた文章を読んでみる」あるいは「最初からすべてを理解しようとしない」という2つの方法があるように思います。
前者は「自分の知識や習熟度に合ったものを選択する」であり、後者の場合は「完璧主義を捨てると言えるかもしれません。無意識でできるようになるまで基本を繰り返すというのは、認知的に理にかなっているのですね。
人間関係でも同じようなことが言えるかもしれません。
初対面の人と会うのであれば「機嫌がよい」状態で「笑顔を大事に」する。いきなり自分だけが知っている(=相手の認知負担が高い)話をするのではなく、まずは(認知が容易な)共通の話題を探してみる。もし自分が知っている話でも「それってこういうことですよね」と言葉をはさまず、ていねいに耳を傾ける。
「思いやりとは何だろう?」「伝えるのではなく伝わる、とはどういうことだろう?」という問いに対しての答えのひとつは「認知を容易にすること」ではないか、と思えてきました。
たとえば「この言葉で伝わるだろうか?」「この図表で伝わるだろうか?」と考えてみると、相手はどれぐらいの知識やリテラシーを持っているのか、どんな経験がある人なのか、など相手のことを理解した上で、適切な表現に整える。
「認知を容易にする」ためには「相手の理解」が不可欠である一方、人間は一度会っただけですべてを理解できるほど単純な存在ではありません。
相手を知る、というのは「そもそも認知の負担が高い」とすれば、ゆっくり時間をかけて下地を整えるように関係を深めていることが最も近道なのではないか。そのように思うのです。