情報はストレスを通じて運ばれる
今日は『反脆弱性』(著:ナシーム・ニコラス・タレブ)から「ストレスは情報である」を読みました。
反脆さとは「衝撃やストレスを成長や繁栄につなげる性質」のこと。反脆さを内包する物事は生命的である。すると、経済、感情、評判、情報など一見すると生命とは関係ないと思える物事にも反脆さがそなわっており、じつは生命的なのだと気付くことができます。
次に、生物と非生物はどのように区別されるのか。一般的に確かめるために「複雑系、非複雑系のいずれに分類されるか?」と問いかけてみればよいのでした。複雑系とは、要素同士が相互依存しあっているシステムのことで、しかも、要素同士のつながりが複雑に絡み合っている(=キレイに枝分かれしない、直線的ではない)ため、原因と結果を明確に捉えることが難しいのでした。
そうは言っても、複雑系と非複雑系を区別するのは一筋縄ではいかないように思います。どうすればよいのでしょうか。著者は「複雑系の核心とは何だろう?」と問いかけます。
「情報がストレスを通じて(ストレスを利用して)構成要素へと運ばれるということだ」
複雑系を理解する手がかりとして「情報」と「ストレス」が紹介されましたが、「情報がストレスを通じて運ばれる」という視点がとても新鮮に感じられました。
あらためて、情報とは何でしょうか?ストレスとは何でしょうか?まず、ストレス(stress)という言葉を辞書で引くと、次のように定義されています。
「情報がストレスを通じて運ばれる」という文脈では、ストレスは「物理的・心理的な変化をもたらす力」と捉えることができるでしょうか。ストレスは外から働くものであると同時に自分が感じるもの。人によって感じ方が異なりますから、ある人にとっては強いストレスと感じられることも、他の人からすると大したことがないと感じられることもある。ストレスの強さや感じ方が「情報」とつながっているのではないでしょうか。
では「情報とは何か?」という問いについては、どうでしょうか。情報という言葉は日常にあふれているますが、いざ説明しようとすると難しい言葉の一つかもしれません。
様々な分野、領域で使われる言葉ですが、私が腹落ちしている定義の一つが情報理論における「不確実性を減らすもの」というものです。何かの情報を探す、調べる状況を考えてみると、何かを決める・判断する時が多いのではないでしょうか。
たとえば、一日のスケジュールを組む際に、ある場所から別の場所への電車移動を伴うのであれば時刻表を調べると思います。特に電車の本数が少ない場所や、一度も利用したことがない路線ならなおさらでしょう。待ち時間を少なくしたい、乗り換えをスムーズにしたい。乗車時刻に関する不確実さが解消されれば、流れるようなスケジュールを組むことができるわけです。
話を元に戻して「情報がストレスを通じて運ばれる」をあらためて解釈すると、「ストレスとは外部環境から自分への働きかけであり、そこに含まれる情報を認識・活用することで、人は環境に適応しながら活動・行動することができる」と捉えました。
そう思うと、ストレスへの反応が過少(感じにくい)、過剰(敏感すぎる)のいずれであっても「不適応」になることを実感できます。前者の場合は、たとえば「孤立」という形で、後者の場合は「同調」という形で。
"反脆さ"のカギになるのは「ストレスマネジメント」だと思いましたので、あわせて以下の書籍も読んでみようと思います。
「失敗やその影響も情報になる」
失敗や影響を「ストレス」と捉えれば、先ほどの話と自然とつながります。そして、新しく登場したのは「因果の不透明性」という言葉。複雑系では、要素同士が複雑につながりあい、原因と結果を明確に決めることが難しい。たとえば、要素同士がA→B→C→Aのように循環的につながっていると、要素A, B, Cのいずれが原因、結果なのかを区別するのは容易ではありません。
予測とは直線的なもので、「ある前提を置き、その前提が正しいとすれば(満たされるとすれば)将来こうなるはずだ」と考えます。もちろん、前提に幅を持たせることで、予測結果にも幅を持たせることはできますが、原因から結果へという直線的な流れは変わりません。だからこそ、因果が不透明であると原理的に予測ができない、となります。
「予測がもっともらしい」と感じるとどこか安心してしまうのですが、因果が不透明だとすると予測しえないのですから、実際の結果が予測の範囲の中におさまったとすれば、それは「偶然」に過ぎないのかもしれません。
一方で、人類は「統計」を発達させ、確率論を用いた「不確実性の定量化」という形で不確実性との折り合いをつけてきています。統計は理論と観測の2つが下支えており、観測結果(データ)から直接的には見えない事象発生のメカニズムや、そのメカニズムの特徴を推測するものです。
現在のシステムの脆さ・反脆さに注目するのか、あるいは将来の精緻な予測を試みるのか。いずれが「因果の不透明性への向き合い方」として適切なのでしょうか。
「人間は慢性的なストレスよりも急激なストレスのほうがうまく対処できる」
いつまでも抜け出せないように感じる継続的なストレスを「文明化がもたらしたプレッシャー」と著者は表現しているわけですが、取り上げられた例を眺めてみても「たしかにそうかもしれない」と思うわけです。少なくとも、人類が誕生したばかりの時にはいずれも存在しないストレス要因ですから。
ストレスが急激なものから慢性的なものへと変容している。インターネットの普及により「"たえず"誰かとつながりあっている状態」もストレスの慢性化の一因であると思いました。自分の時間、誰かとつながる時間のバランスを取ることも「反脆さ」につながっているように思います。
他者、場所、制度など、私たちは様々な何かに囲まれて過ごしていますが、「人に本来そなわっている反脆さを活かす」という視点から、「私たちは何に囲まれて過ごすのがよいのだろうか?何を未来に残すべきだろうか?」との問いを立て、答えを具現化していかなければならないのかもしれません。