「離婚後の共同親権とは何か」を読む(1)
1.はじめに
本稿は、「離婚後の共同親権とは何か」という書籍の批判的書評である。しかしながら、単に批判的書評にとどめず、本書の内容をできるだけ正確に紹介しつつ、その論理や思考方法にどのような問題があるのかを、できるだけ分かりやすく書いたつもりである。
離婚後の共同親権導入に賛成する人も、また、反対する人にとっても、その思考の一助となれば幸いである。
(なお、本書からの引用は「」で括って表記し、要旨を私がまとめたものについては【】で括って表記した。なお、引用部以外では、敬称はすべて省略した。)
2.「第1章 共同親権は何を引き起こすのか?
―映画『ジュリアン』を手掛かりにして 千田有紀」
千田は、冒頭で「共同親権が法制審議会入りするかもしれないという。欧米ではたしかに共同親権の制度をとっている国も多い。しかし、1980年代多くの国で共同親権が導入された結果、離婚後の暴力や虐待にどう対応すべきかをめぐっての苦慮がある。」と、共同親権に対する危惧感をあらわにする。しかし、千田の指摘する「苦慮」は本稿を最後まで読んでも、その具体的な論拠は示されない。この章の副題に示されるとおり、「ジュリアン」という映画に示されたフィクションに基づく千田の主観的な危惧感が延々と述べられるに過ぎない。
また、千田は「この共同親権の導入に関しては、これまでの法改正とは異なり、大きな相違点があるように考えられる。それは、立法事実が不明な点である。」とする。そして、記事を引用した上で、【親権と子どもの交流は必ずしもイコールで結ばれる関係ではなく、離婚後の両親の関係が良好ならば自由な交流ができる】と主張する。一見、もっともらしく感じられる主張であるが、実は、ここに離婚後の共同親権に反対する議論の最大の陥穽がひそんでいる。離婚後の両親の関係が良好であるか、否かを決するのは、離婚後に親権を得た一方の親の意思にすべてかかっているという点である。このことは、面会交流に関して「場合によっては、面会交流をしなければ話すつもりのなかった離婚の事情や、非監護親の本当の姿を、面会交流によって『子どもを傷つけないために』、前もって話さざるを得なくなるだろう」という千田の言葉に端的に示される。ここで、千田の言う「離婚の事情」や「非監護親の本当の姿」とは、親権者の主観によって作られたものに過ぎないからだ。この考え方は、後述する千田の司法に対する不信感にも結び付く。千田にあっては、『立場性に基づく真実』こそが唯一の真実であり、異なる立場からの『真実』など一顧だに値しないということなのだろう。
離婚後に両親の関係が悪く、親権を失った親が子に会えないのは、その人が婚姻中に配偶者や子にひどい仕打ちをしたからだ、という偏見がすでに社会的に存在する。しかし、実際にはそのような行為を全く行っていない親や、むしろ反対に親権者となった親が不貞やDVなどを行っていたというケースすらある。家族の関係は百人百様、このようなステレオタイプの決めつけは家族法という制度を考える上では、極めて有害なものであると言わねばならない。
さらに、千田は「裁判所が原則面会交流の方針をとっているために、多くの『ひずみ』が可視化されてきており、深刻な問題が生み出されている。2017年には、面会交流中の殺人事件が、少なくとも2件起きた。司法は親子の関係に踏み込むべきなのだろうか。そして、『離婚後の親子のあり方の理想』に基づいて、特定の家族像を立法によって実現させることは本当に理にかなっているのだろうか。」と、立法及び司法に対する不信感をあらわにする。
しかし、現在の日本では離婚をすれば母もしくは父の、いずれか一方しか親権を持つことが許されない。これは、戦前の『家』制度の名残、すなわち『家族』は一つであるべきであり、離婚によって家族が分解されるときは『親権者と子』という家族と親権を持たない、家族という枠からはみ出た『非親権者』に分解されるという、「特定の家族像」の押し付けではないのか。親と子の人間的なつながりは憲法13条ないし24条で保護される基本的人権であるという理解に立てば、このような特定の家族像の押し付けこそ、憲法に反するものであり、許されないと言わねばならない。
また、司法に対する千田の見解は実にひどいものである。千田は「裁判所の『実証主義』」という見出しをつけて、【裁判所は厳格な証拠主義、実証主義であり、口頭で述べられた証拠は軽視され、書証だけが重視される。親密な家族という領域において、実証や証明を求めることは困難であり、さらに将来起こることの証明は不可能である】として、司法作用に疑問を呈している。確かに、過去におきた出来事について正しく認知することは困難である。しかし、人類はその困難性を認識しつつ、もっとも過去の出来事を正しく認識する方法として、証拠による裁判という方法論を確立したのである。また、将来に起こりうる出来事は、過去に起きた事実や科学的知見等によって、ある程度までは立証することができる。千田の論は、司法の否定にとどまらず、民主主義の否定、人間の理性の否定と言っても過言ではないだろう。
上記以外にも、千田は映画の中の登場人物のセリフや、千田が当事者から聞いたという裁判官や調停委員の『言葉』(ただし、この言葉の裏付けは何もない。)を引いて、いかに裁判所が非情なところで、離婚後の母子が『DV加害者』である父親から逃れ難いかを叙述する。しかし、冷静に読むならば、千田の叙述はフィクションを巧みに織り交ぜた、『離婚後の共同親権』にたいする恐怖心を煽るためのプロパガンダに過ぎないことが分かる。
私が、千田論文(「論文」と呼べる代物であるかははなはだ疑問であるが)を読んで、最も強く感じた疑問は、なぜ弁護士が編者を務める法律書らしき書物で、なぜこんな非論理的で司法の機能や役割について大きな誤解を内包する論文を冒頭にもってきたのか、ということである。
私は、それは本書が『DVの恐怖』を読者に植え付けたうえで、離婚後の共同親権が導入されれば、DV加害者が「親権者」として我が物顔にふるまうという先入観を持たせるためではないかと考えているが、この点は終章までの検討をした上で、再度考察することとしたい。
(続く)