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「離婚後の共同親権とは何か」を読む(2)


「第2章 離婚後共同親権と憲法 
     ―子どもの権利の観点から 木村草太」

 木村は、「はじめに」の最後の一文を「本章では、憲法学の観点から、この問題を検討してみたい。」と述べている。
 しかし、木村の論考は「憲法学の観点」は言うに及ばず、『法学』のレベルにも届いていない、お粗末極まりないものである。
 以下、詳しく検討する。
(1)  「Ⅰ 共同親権の概念」
 木村は、最初に共同親権の概念を検討し、諸外国の法制における「親権」の呼び名、日本法における親権の内容(監護権と重要事項決定権の二つから親権が成ること)を説明する。この点に、特に誤りはない。しかし、この説明に続けて、木村は以下のように述べる。
「もっとも、非親権者は子どもの重要事項決定に全く関わることができないのかというと、そんなことはない。たとえ非親権者に重要事項決定権がなかろうと、子どもや親権者が何かを決定するときに、親権をもたない親や、その他の者に相談すること、あるいは、そうした者からの提案を受け入れることは禁じられない。」と述べる。
この文の直前に法制度の内容が語られているために、法律に詳しくない人は「そうか」と簡単に騙されてしまうだろう。しかし、これがとんでもない『欺瞞』的な議論であることは注意深い人ならすぐに分かるだろう。
 権利者としてある事項に関われることと、無権利者としてある事項に単に意見を述べられるに過ぎないことの間には、法的な意味合いとしては雲泥の差があるのである。それは、NHKが「みなさまの声を番組に反映しています」というのに似ているかもしれない。テレビの受信機を設置した者はNHKとの契約を強制的に締結させられるが、契約を締結したからといってNHKの放送内容や経営にたいして何らの権利も有しない。もちろん、国民の代表者としての国会による規制はなされるが、それが実際にどのように機能しているのかは説明の労を要しないであろう。
 さらに、木村は
「では、親権が意味をもつのは、どのような場合か。」
と問題提起を行い、
「それは、両親の間で意思の不一致が起きた場合だ。例えば、子どもの大学進学について、父は反対し、母は賛成したとしよう。このとき、単独親権の場合には、親権をもたない親の意見がどうであれ、親権者の決定を貫くことができる。これに対し、共同親権の場合には、両者が合意しない限り、子どもの進路を決定できない。」
と述べる。
そして、
「現在、検討が進められている離婚後の共同親権制度とは、『離婚した父母双方に、子どもに関する決定の拒否権を持せる(ママ)制度』と理解すべきだ。」
と言うのである。
 これも、少し考えると全くおかしな話であることが分かる。木村が言うのは、いわゆる『親権のデッドロック』(親権者の意思の不一致が生じた場合に解決方法がなく、子どものために必要な行為が取れないこと)であるが、それは【離婚後に限らず、婚姻中でも起こりうる】のである。
 おそらく、木村はその場合には両親は離婚すべきというのであろう(木村のツイート参照)。しかし、大学進学、あるいは高校進学・私立中学への進学という差し迫った事情がある場合に、離婚が間に合うと本気で思っているのだろうか。むしろ、親権の行使に関して両親の意見が対立したとき、家庭裁判所のような第三者機関が仲裁を行い、子の利益に適った解決を行いえない現行法制には、重大な法の欠缺があると見るべきだろう。
 しかも、木村は親権を「拒否権」として捉える。確かに、一方の親が子の利益を考えずに親権を「拒否権」として濫用的に行使するおそれがないとは言えない。しかし、まったく同様に、離婚後の単独親権者が親権を濫用的に行使して「子の利益を害する」おそれもあるのである。親権者が子の利益を害しようとしているときに、非親権者は適時な権利=拒否権を持たないとも言える。さらに、子の利益を中心に考えるならば、離婚後に親権者が再婚したり、新しい恋人と同棲したりする場合や親権者の都合で遠方へ引っ越すような場合に、それが必ずしも「子の利益」につながるとは限らない。しかし、現行法では単独親権をもつ親は、己の一存だけで、子の代諾養子縁組(子が15歳未満の場合)もなしうるし、引越しも子の居所指定権の行使として自由になしうる。このような、子の身分や環境に大きな変化が生じる場合においても、親権を失った親には何も言う「権利」はないのである。「拒否権」どころか子の身分や環境の変化について「知る権利」すら持たない。
 木村の論考は、このようにスタートの時点から現状についての正しい認識を欠き、木村の頭の中にある、特定のモデルパターンにしかあてはまらないものなのである。

(2)  「Ⅱ 憲法と子どもの福祉」
 さて、いよいよ木村の本業である憲法論に入る。私は、その冒頭からのけぞってしまった。
「憲法には、『児童は、これを酷使してはならない』と定めた27条3項の規定があるほかには、子どもに対して特別に定められた権利規定はない。とはいえ、憲法は、子どもの権利を保障していないわけではない。当然のことながら、子どもは憲法上の権利を享有する『個人』だから、憲法第3章の規定する権利は、成年たることを保障要件とした選挙権などを除き、子どもにも保障される。」
 こんな当たり前のことを6行も割いて書かずとも、「憲法は、子どもも個人(独立した人格)として権利保障を認める。」と1行書けばこと足りる。原稿用紙のかさ増しをしたかったのだろうか。しかし、私がのけぞったのはそこではない。続く、次の一文である。
子どもの監護・養育の観点から改めて人権規定を見直してみると、個人の尊重(憲法13条)、生存権(憲法25条1項)、教育を受ける権利(26条1項)が重要な意味をもつ。
 「離婚後の共同親権」という法制度を考えるにあたって、親権の内容から考えて関連する条文を拾い上げているのだが、なぜ、憲法があるべき家族像として規定した24条2項を外したのか。念のため、条文を記す。
24条2項 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない
 「親権」が「家族に関するその他の事項」に含まれることは疑う余地はないだろう。木村が、なぜこの条文を無視したのかは書かれていない。24条2項を真面目に検討すれば、現行民法の絶対的単独親権制度を合憲と結論付けることは不可能だったからか。あるいは、単純にその存在に思い至らなかっただけか。いずれにしても、「憲法学者」と名乗る者にふさわしいふるまいではないことだけは確かだ。 
 しかも、木村が取り上げた各条文についての検討も、はっきり言って、お粗末極まりないものである。
① 「個人尊重の理念」
 木村は、「親権制度を構築するにあたっては、子どもが独立した個人として尊重されることが重要だ」と述べる。この点については、まったく異論はない。しかし、木村は同時に、「『子どもに会えないと精神を病んでしまうから、自分に共同親権や面会交流権を付与すべきだ』と主張する者もいる」として、あたかも共同親権を主張する者は『親のエゴ』の満足のためだけに主張しているかのような誤導もおこなっている。
 一方で、木村は脚注で「子どもは、自律的な個人への成長の途上にある」とも書き、また、「こうした議論は『親には、子どもに会ったり、その成長に関与したりする憲法上の権利はない』ということではない。他者と直接会い、話をしたり意見を交わしたりすることは、人間にとって幸福の源である。そうすると、親が子に会う自由、子が親に会う自由は、『自由』や『幸福追求』の権利を保障する憲法13条により保護されると解する。」とも述べている。
 この木村の論述からは、むしろ、離婚後も両親に等しく親権を認める離婚後の共同親権を肯定的に捉えるべきと読めるのであるが、木村はなぜか、そうならない。「親子が会う自由は、両者に会う意思がある場合にのみ行使できる権利である。両者の意思の合致があるにもかかわらず、公権力が面会交流を制限することは…(中略)…許されない」として、まず第一に、子どもが乳幼児である場合など自己の意思決定を十分になしえない場合を無視し、第二に、唐突に「公権力」による制限を持ち出し、単独親権者による制限(単独親権者の身勝手な理由による面会制限)を無視することで、「個人の尊重」の家族法的意義をみずから踏みにじるのである。
② 「生存権・教育を受ける権利の具体化法としての親権制度」
 まず、家族における相互扶助(扶養)という関係の中に憲法25条の「生存権」という概念を持ち込むことについては強く疑念を呈しておきたい。これは、先ごろ話題になった「自助・共助・公助」(菅首相の基本理念)を思い出させる。木村の憲法学者としての資質が強く疑われる由縁である。
 一方、憲法26条の教育を受ける権利については子どもの権利であることは疑う余地はないが、同時に憲法13条において「親権者がその子をどのように教育するかの自由を内包している」(佐藤幸治:日本国憲法論)ものであるから、一方の親から【正当な理由なく】この自由を制限することの可否も検討されねばならないものである。

(3)「Ⅲ ドイツ憲法裁判所の共同親権に関する判例」
 ドイツ憲法裁判所の判断で、最も重要な点は【例外なき単独親権は親の一方の基本的人権を侵害するもので、違憲である】  という点であろう。木村は、この最も重要な点をきわめてぼかして書いている。すなわち、「ドイツ連邦共和国基本法は、6条2項で『子どもの保護及び教育は、親の自然の権利であり、まずもって親に課せられた義務である。この義務の遂行については、国家共同体がこれを監視する。」(P.31)とドイツ憲法の規定を紹介した上で、「不適切な共同配慮合意の排除は、裁判所がそれを見抜く努力をすればよいこと、を理由に、単独配慮に一切の例外を認めないことは基本法6条2項1文に反するとした。」と述べる。(P.33)
 この書き方で、【例外なき単独親権は親の一方の基本的人権を侵害するもので違憲である】というドイツ憲法裁判所の根幹的な判断を正しく読み取れるだろうか。私には、木村が故意に分かりにくく書いたようにしか思えない。
 そして、判決の中の補足的な注意事項を取り上げて、「父母たちが自分たちの都合ではなく、子の福祉のために共同で親権を行使する合意をしており」という要件を勝手に考え出している。

(4)「Ⅳ 離婚後共同親権の是非」
 そして、前項を受けて「以上を踏まえ、日本法における離婚後共同親権を検討」するというのだが、憲法学的な検討としておかしいと言わざるを得ない。
 まず、前項でドイツ基本法と判例を紹介しておきながら、なぜ、日本国憲法で親権が憲法上保障される基本的人権か否かを検討しないのか。ドイツのみならず、アメリカ合衆国でも連邦最高裁判所は親権を幸福追求権(個人の尊厳)から導かれる基本的人権と認めている。憲法学として、離婚後共同親権を検討するならば、まず、親権がいかなる内実をもつ権利かを検討したうえで、どのような場合に(あるいはどのような制約根拠をもって)、その制限が可能かどうかを検討すべきであろう。木村は、その手順をあえて無視して、些末な議論に持ち込んで逃げようとしている。
 木村は、「共同親権制度に関する誤解」として、離婚後共同親権を求める人は同制度が導入されれば、①扶養義務の履行確保、②面会交流の促進、③同居親による虐待防止が期待できると主張すると言う。
 確かに、そのような主張がツイッター上で散見されることは否定しないが、なぜ、法律家の書いた論文等をもとに考察しないのか。
 ①扶養義務の履行確保に関して言えば、一部の論者が唱えるように未成年子のある離婚で協議離婚を廃止して全件家裁関与とすれば、適正な額の養育費が債務名義として最初から存在することとなる。また、同時に親教育もおこなうようにすれば、その後の健全な共同養育にもつなげやすいだろう。
 ②面会交流の促進は、離婚後は「父と子」「母と子」という二つの家族に分裂すると捉えれば、「面会交流」どころではなく、「共同養育」という形で、どちらの親も「親権」(親と子の関係性の権利)を全うできる。
 ③同居親の虐待防止についても、現行法制では、非親権者となった親は前述のとおり、子の環境に重大な変化が生じても、それを知る権利すら認められていない。木村は、面会交流を充実させればよいと考えるようだが、親権者が子を連れて勝手に遠方へと引っ越してしまった場合、どうすればいいと考えているのだろうか。
 上記以外にも、共同親権を求める根本的な理由として、「なぜ、親なのに子の養育に関わることを大きく制約されねばならないのか」ということがある。DVや虐待をおこなっていた親であれば、子の福祉のために、その制約には正当性が認められよう。しかし、DVも虐待も、親権不適格事由は一切なくても、片方の親は絶対に親権を失うのである。木村は、その正当性(人権制約の根拠)を何ら説明していない。

(5) まとめ
 木村は、「父母の関係が良好なら、親権の有無にかかわらず、重要事項については協力して決定しているだろう」などと述べ、『父母の関係が良好ならば共同親権などなくてもうまくやっていける』ということを強調する。
 しかし、およそ法というものは、それがないと不都合やトラブルが生じる場合にルールを決めて、公平公正な解決を示すことにその存在意義がある。共同親権がなくても共同養育ができている元夫婦がいると、問題のないところを見て共同親権は不要だなどという人間に法律家を名乗る資格はない。
 最後に、木村にはこの言葉を贈りたい。
     「理性的なものは現実的であり、
        そして現実的なものは理性的である。」(ヘーゲル)

                            以上

長文をお読みいただき、ありがとうございました。 m(__)m

2021年3月21日 加筆修正



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