小田原総構に学ぶ 八幡山古郭東曲輪~小峰の大堀切
日時:10月9日 13:00−16:00
学び・歩くかわさき50名で小田原城の 総構を北から西に歩いた。
道順
小田原駅→城下張出→山の神堀切→西堀→東堀→三の丸新堀土塁→小田原高校→八幡山古郭→小田原駅
総構(そうがまえ)とは
総構とは中国や西洋のお城のように、城だけでなく町を含んで堀と土塁で囲んだ城郭を作ること。
後北条家が作った小田原城の総構は北西及び南西部には丘陵地を、北東部は渋取川周辺の湿地帯、南東部は相模湾を天然の要害として利用します。
総構は周囲全長9kmも構築され、22万の兵力を有した秀吉でさえ容易に攻め入ることができませんでした。
力攻めを諦めた秀吉は心理戦として石垣山に一夜城を築く事により北条氏を驚かして降伏させます。後北条氏を滅ぼし天下統一を果たした秀吉は自らの居城大阪城に総構と障子堀を構築します。日本全国のお城でも総構が造られるようになり城郭史に大きな影響を与えました。
1.なぜ後北条家は総構えを作れたのか?
後北条の早雲は曹洞宗の古潤仁泉和尚を学問と武芸の師として仰いでいた。
総構えを作った北条氏康の政治力は祖父早雲譲りで戦国時代随一といわれる。
領国拡大よりも統治に重きを置き、無理な外征を控えて戦費を抑え他国より低い税負担を実現した。
北条領を引き継いだ徳川家康は税率引上げに苦労し、忍者の風魔小太郎(江戸幕府創設直後に処刑)や鳶沢甚内(幕府に帰順し目明し兼古着商支配役を世襲)など北条家遺臣が成した盗賊団の跳梁にも手を焼いた。
中間搾取排除で領民の負担を減らしつつ一極支配体制を固め、目安箱を設置し、凶作や飢饉の際には柔軟に税の減免を施して酷いときには徳政令を施行、それでも領主層=家臣団や豪商を手懐け得たのは政治力の成せる業であった。
北条氏康は、城下町小田原の都市開発にも鮮やかな手腕を見せた。街区や上水道(小田原早川上水)を整備し、全国から商人・職人を呼び寄せて商工業を振興、文化人・芸人を招聘して活気も演出し、清掃にも気を配り、西の山口と並び称される東国最大の都市を築き上げた。
戦国期の城郭は、松永久秀の信貴山城や斎藤道三の稲葉山城に代表される山城から経済活動に有利な平城へ移り、末期には堀と防塁で城下を囲い込む巨大要塞(総構え)へ発展したが、小田原城はその画期を為す傑作であり、攻低守高の時代にあって難攻不落を誇った。海外貿易と重商主義を成功させ兵農分離まで到達した織田信長ほど派手ではないが、北条氏康の政治手腕は封建領主としては抜群で領民にとっては最も有難い名君であった。
政治の特徴
1. お上の徴用も他の人と同じなら納得するという人間心理も利用した。
2. 所領役帳に記録するということが効果的だった。
3. 支配者自身は自責で考える、家督を次ぐ時も飢饉の責任をとって家督継承
4. 平野で石高が多い。伊豆、相模、小田原を豊かな平野を収めている
5. 筋目を通さないと天道から見放される
6. 印判状で農民と大名の契約を交わしたことでゲリラ戦に勝てる土地柄を作った。
その他には地の利がある、箱根からの早川が流れ込んで作られた豊かな平野があってかつ非常に温暖な気候でみかんも作られるような石高のお大きい土地だった。
総構の現代の様子
土地の起伏を使って天然の要塞を作る
見事な茶畑:自然の要塞
自然を使った堀は海岸まで続く
なぜ総構が可能だったのか?
後北条はほとんどのお寺が曹洞宗である。浄土真宗の寺は2−3寺しかない。
エリート意識も高く、支配層の盛り上がりで地域を見事に治めていった。
そして、後北条家は宗教、農業、人馬一体などの施策を打ちながら国造りを行った。そしてモラルの高い(ある意味システムの歯車)地域を作り出した。
歴代の城主は引退すると僧侶になっている。このようなエリートの進むべき道を宗教も含めて定めることで、地域を治める新たなシステム化を行ったといえる。
しかしながらシステムが整備され、システムに過剰に依存すると官僚化が進み、小田原評定と言われる意思決定ができないシステムとなり結局秀吉の前に屈することになった。
多様性や平等性を排除するとシステムは必ず硬直化して滅びを招く。
現代にも通じるところがある。
感想
小田原高校は小田原城の傍らにある。今もエリートを作り出す高校として知られている。小田原高校には城の中心があったという説が長くあったようであるが、戦後の発掘で城の中心ではないということもわかったという話があった。
エリート化すると歴史改ざんをするという傾向があるようだ。
後北条家も結局は占いなどに依存して方角や暦ばかりを気にして行動していたとわかっているという話もあった。
堀の角度も城主自ら厳密に設計に関わり、計測されたということだった。
一見正しそうなシステムに依存して、寸分狂わないPDCAを行う。しかしながら森羅万象は決して設計どおりには進まない。そのために、厳密であることはむしろ滅びを早くすすめてしまう。
後北条も自分たちを由緒正しいエリートとして位置づけたので秀吉に対して冷たい態度をとった。それが秀吉の怒りを買った。
多様性、平等性は生きるために大切ということがこの地域からの学びだった。 宗教もエリート化するとシステムの手先となる危険を常に持っているということを改めて確認させていただいた歩きだった。
合掌 三田真人