大本山 總持寺の諸堂拝観
日時:10月23日 13:00−16:00
学び・歩くかわさき50名で鶴見区の總持寺を訪問して種々のお堂を拝観した。
内部は7ヶ月目の修行をしているお坊さんが1時間半案内してくれました。
道順
待鳳館→百間廊下→衆寮→放光堂→仏殿→太祖堂→待局→紫雲臺
總持寺
曹洞宗は大本山を二つもっている。福井県にある永平寺と、横浜市にある總持寺です。ちょうど、私達が父と母の両親を持つように、道元さまの永平寺と、瑩山さまの總持寺を両大本山とお呼びします。
道元さまが正しい仏教の教えを中国より日本に伝えられ、道元さまから四代目の瑩山さまが全国に広められ、曹洞宗の礎を築かれました。
大本山總持寺は道元禅師から数えて4代目にあたる瑩山(けいざん)禅師が1321(元亨元)年、石川県にあった諸嶽寺(しょがくじ)を諸嶽山總持寺と改め、曹洞宗の礎を築いた。曹洞宗の大本山・總持寺の開祖である瑩山紹瑾禅師は、お釈迦様の教えである「正法」を全国へと広め、曹洞宗の教団発展の基礎を築きました。
1898年に七堂伽藍を焼失し、明治44年に石川県能登より鶴見ヶ丘に移転、以来、諸堂を整備し、約15万坪の広大な境内にさまざまな堂宇を建立してまいりました。
峨山韶碩禅師は曹洞宗の教えを全国に発展させた。總持寺の二祖として、「五哲(五院)」あるいは「二十五哲」と呼ばれた多くの優れた門弟を育成。
さらに、その多くの門弟が協力して、總持寺を維持し発展させるために住職を一定期間で交代させる「輪住制」を確立するなど、700年近くも前に、既に「人材育成」と「教団の将来ビジョン」に深い思いをもち、ただひたすらに總持寺の住職として42年間勤め、曹洞宗の教えを全国に展開する基盤を形成しました。
曹洞宗が、永平寺、總持寺の両大本山をはじめ、現在凡そ1万5千の寺院と2万5千人の僧侶、そして数百万人を超える檀信徒を要する国内最大の教団に至ったのは峨山禅師の功績によるものが大きいとされています。
1.なぜ鶴見に?
鶴見区文化協会の齋藤さんによれば、能登の總持寺が火災に遭ったのを機に、関連寺院から「交通の便が良い関東に移転しては」という要望が上がったそうだ。こうした声を受け、千葉や八王子などの候補地の中から、高台にあって四方を望める「鶴見ヶ丘」に白羽の矢が立ったという。
その理由としては、当時は陸路だけでなく、海路も重要な交通手段であったから。横浜港に近い鶴見は、その後に行われた移転工事に際し、資材を運ぶのに便利だったのである。関係者や参拝者の利便は、言うまでもない。
百間廊下のお掃除
なぜ180mの廊下なのか?
夜間の油火での寺の火事は非常に多かった歴史がある。そのために僧がいる場所と本堂を離して火事から守るためにこのように長い廊下を作ったといわれている。毎日磨かれている素晴らしいお掃除ぶりに感動した。(お掃除好きとしては窓枠の掃除もしたくなったが)
衆寮
多くの修行僧の方が来られて90cm畳一畳に寝泊まりして、修行を行う。多いときは30名とのこと。実際はふすまの向こう側で座禅されているとのこと
放光堂
初代の本堂、石川からお堂を運んで移設したとのこと。
放光堂は、明治44年に總持寺が能登から移転された時に、最初に法要が行われた建物です。
この堂宇は安政年間に、山形・鶴岡の龍穏寺本堂として建立されましたが、總持寺移転に際して特別に献納された由緒があります。
現在は、檀信徒のお位牌が安置されている供養の道場としての役割を果たしています。また、法事なども行われているとのことでした。
仏殿
七堂伽藍の中心である仏殿には、須弥檀の中央にご本尊である釈迦牟尼仏(お釈迦さま)をお祀りし、その脇侍として向かって右に迦葉(かしょう)尊者・左に阿難(あなん)尊者を配しており、一般に釈迦三尊と称している。須弥壇の左右の壇には、禅宗の初祖・達磨大師(だるまだいし)と、大権修利菩薩(だいげんしゅりぼさつ)を祀る。この二尊を祀ることは一般の曹洞宗寺院と同じですが、両袖に、中国の唐代の禅僧で曹洞禅の祖師・洞山悟本大師(とうざんごほんだいし)と、日本曹洞宗の開祖・道元が師事したことで知られる天童如浄禅師(てんどうにょじょうぜんじ)を安置するのは、大本山總持寺仏殿の特色。
紫雲臺
チェコの大使やラグビーワールドカップのメンバーも来てもてなしを受ける場所。
待鳳館
大本山總持寺香積台(こうしゃくだい)(総受付)の正面奥には、木彫りで日本一大きいといわれる高さ約180センチメートルの大黒尊天がお祀りされており、広く参拝者に親しまれている。
この大黒尊天とは、もともとインドの神で、古くから寺院の守護神・飲食を司る神などとされてきた。中国で台所の神となり、日本では農産、福徳の神である大国主神(おおくにぬしのみこと)と習合し温和な福の神となる。のちには開運をもたらす神々とされる「七福神」の一人として、願いを叶え福を授ける神となり、江戸時代以降お正月にこれらの神々を祀る社寺を巡拝する「七福神参り」の風習も生まれた。中でも、大黒尊天は福徳円満な顔に微笑を浮かべ、頭巾をかぶり左肩に大きな袋を背負い、右手には打出の小槌を持ち、米俵に乗るその姿で親しまれ、今日まで広く信仰されている。
正面のすりこ木とおしゃもじを始めとして食事を表す巨大なオブジェが珍しい。
精進料理の基礎を築いたのは道元禅師といわれています。總持寺では修行僧が料理を作ります。坐禅や作務(掃除)と同じように、料理を作ることも、食べることも仏道修行のひとつとされているからです。地球上のありとあらゆるものに命があり、植物にも命があります。ですから、感謝の心を持って、その「命をいただく」ことを意識しながら料理をし、食べて頂きたいと思います。
感想
總持寺は明治以降の曹洞宗の伝統と人々の願いがこめられている。多くの信者の方の寄進があったり、位牌があったり、地元の神様まで出てくる。一見、人間臭い様なものも集められている。
その中で多くの若い僧侶の方が座禅、作務、精進料理などを全て修行にし、鶴見大学が寺の中に共存している。大きな宗教都市という感覚だった。
そういう意味で国土といえる場所だと思った。
廊下を歩むときに多くの雲水の方々の願いやご苦労を回向することができた。
また、親鸞聖人は薬の例えが多かったのに対して、道元禅師が仏教と食の統合みたいなものも強く感じました。勉強になった。
合掌 三田真人