日本は古くからある複数の権門が相互に利害調整して営んできた連邦王国で、その原型は弥生時代に出来たものだと思われる。
権門は弥生時代に渡ってきた穀物生産集団がその原型で墳丘墓などを作っていた。権門の権勢を示し治水工事の意味合いから前方後円墳は作られたとみられ、奈良時代の薄葬令で禁止されるまで作られた。天皇の陵墓も簡素になっていったが現代でも天皇の陵墓は作られ続けている。
黒田俊雄の権門体制論というのはもともと中世国家を現す概念の用語がないと指摘されて提唱されたが、敷衍すると現代日本の権力構造にも適用できる用語が権門である。
人間社会の営みというのは善悪ではなく事実と真実であり正義を標榜(ひょうぼう)すればするほど別の正義との間に抜き差しならない軋轢(あつれき)と闘争を生む。凄惨な殺戮(さつりく)が記録されている戦争では強固にある正義が主張されて別の正義の人間たちを殺戮した。
織田信長と一向宗門徒の戦いは最終的に一向宗門徒を根絶やしにしてしまいかねないような殺戮を織田信長は繰り広げ、比叡山を焼き討ちした。
権門と権門が戦争をすると織田信長と一向宗や比叡山のような様相になったのである。織田信長も明らかに権門の代表者の1人である。
江戸幕府と天草四郎一党の戦いである島原の乱の前後で島原半島に住んでいた人間たちが異なり島原の乱で人がほとんど死んだり逃げて居なくなってしまったので戦後に小豆島から移民を入植させた。島原そうめんの製法はこのとき小豆島から伝わったとみられる。人が根絶やしにされかねなくなる戦争になる時に争われる正義は宗教の場合が多い。
敷衍(ふえん)とは、1:おし広げること。「それを種にして、空想で―した愚痴」〈宇野浩二・蔵の中〉2:意味・趣旨をおし広げて説明すること。例などをあげて、くわしく説明すること。「教育問題を社会全般に―して論じる」(デジタル大辞泉)という意味である。
日本で権門がいくつも生まれて、ある権門はなくなりある権門は新しく生まれということがずっと続き、文明の利器の新たな発明で新たに財力と生産力と政治力とを持つ権門が生まれて、職能家を形成していく。
地縁血縁に立脚する社会集団をゲマインシャフト、地縁血縁によらない社会集団をゲゼルシャフトと呼ぶが、黒田俊雄の提唱した権門の3類型の公家、寺社家、武家も地縁血縁にかならずしも寄らないゲゼルシャフトの要素があり、黒田俊雄が提唱しなかった第4類型の職能家は地縁血縁にほとんど寄らないゲゼルシャフトではあるが地縁血縁に寄るゲマインシャフトの要素も多少ある。権門を決定付ける要素は地縁血縁に寄る寄らないではなく、単に財力、生産力、政治力の3要素と考えられる。
日本で穀物栽培集団が定住して財力と生産力と政治力を持って権門となっていったので長らく穀物栽培での富の集積が財力の基本だった。稲はとても米が実るので実りさえすれば食料としても財貨としても機能した。文明の利器の新たな発明がなされるとその利器により富が集積されて財力となっていく。縄文式土器はマメ栽培とも関連して利器として椰子の実の器の代わりに発明された(HindyQuest 2020年)とみられるが弥生式土器以降の利器の新たな発明のステージで権門が新たに生まれていく。鉄道、自動車、動力船、飛行機、ITなどの発明でそれぞれの利器で富を集積して権門となっていく。現代日本はそのような権門も存在する社会である。
権門は地縁血縁に寄る要素と寄らない要素とが一定のバランスを取って割合としてあり公家も寺社家も武家も職能家もその要素のバランスを取って存在する状態に変わりはない。むしろ権門を決定付けているのは財力と生産力と政治力である。財力の根拠は地縁血縁で保証される場合とされない場合とがあり生産力を維持するのも地縁血縁である場合とそうでない場合とがある。政治力を持って権力を行使する主体性を地縁血縁が持つケースと地縁血縁以外が持つケースとがある。黒田俊雄が表現した権門とはみな類型のカテゴリが「家」と表現されている。権門とは家のことであり、日本において他の家のことに意見を挟むことを戒めるのは権門である家によってルールが異なるからである。
権門の権力の淵源(もともとの原因)は治水工事などでもそうであるが、呪術的根拠と科学的根拠の一定の割合のバランスのもとで発生した力のことを言う。治水工事は宝暦治水でもそうであったが、当時の最新の土木工事技術という科学的根拠の側面で工事されながら桝屋伊兵衛という人柱を献じるという呪術的根拠の側面を持ち祭政一致の前近代ではむしろその両面が備わって全体が構成されており四大文明の治水工事でもこの本質に差はなく治水工事を行うものには権力が発生した。前方後円墳も治水工事の一環で権門を示すものである。仁徳天皇陵(大仙陵古墳)も農業用水に利用されており治水工事の一環だったという科学的根拠のことが推定できるのと同時に剣・鏡・玉という呪術的根拠の被葬品が埋まっていたとみられる。独特な意匠の美術工芸品の淵源は縄文式土器に始まり剣・鏡・玉などにも独特な意匠があるのは富雄丸山古墳の被葬品が物語っている。
ウォルフレンの言説で用語として出てくるシステムグループを黒田俊雄の提唱した権門体制論の用語である権門に翻訳することは原則として可能である。そう考えると日本社会には明確な権力機構の責任を負う中央政府が存在せず、権門(システムグループ)のバランスで国政を行ってきており今もその構造に目立った変化はないという見解が出てくる。
日本社会がこのような特質を持つ理由について梅棹忠夫が述べた文明の生態史観に以下の言説がある。
日本は日本単体で描き出されるデッサンを持つ国で、東洋とも西洋とも違う特質を持ち、中心が空の権力構造で構成される権門により国政が担われ外部には中央政府を有するという虚構を交えて交流している。
つまりウォルフレンの言説に言及のあるCDSという第三類型の国家モデルを創出したのは明治時代の日本でありいくつかの実験の末に整えられて従来の経済理論では説明のつかない経済での成功を1980年代に日本はなし得て韓国、台湾の経済発展モデルの雛形となったと理解されており、政治経済においてそのような富の享受を得たもともとの背景にはアーノルドトインビーが不十分に指摘したと梅棹忠夫が述べたような日本と日本人の姿形をデッサンしたものがあるという言説になる。梅棹忠夫が文明の生態史観を書く動機として述べられているのは以下のことである。
日本にはシステムグループたちしか存在せず中央政府は虚構であろうというウォルフレンの言及を黒田俊雄の権門論にあてはめると権門たちが利害調整して国政を運営してきた状態が日本社会であり、その本質を踏まえないと外交交渉も内政も不都合であろうというウォルフレンの言及により、想起される言説が猪瀬直樹がミカドの肖像(小学館 1987年)で述べた空虚な中心という概念である。
日本国憲法に規定のある国民統合の象徴という概念自体に内実の確からしさは実はそんなになくて、天皇も中央政府の権力機構の責任は負わない。
また自由経済市場国ですらなく様態としては進化した社会主義国家の様相を現代日本は見せておりCDSを発明してその後、資本主義とも社会主義とも違う両方の特質を兼ね備えた国家になっていったのが日本なのではなかろうか。
日本が権門というシステムグループの総合体として国家を営み虚構とウォルフレンに言及されるような中心が空のドーナツやベーグルパンのような構造の国家だとすると、天皇の存在を概念で想起すると空虚な中心で、江上波夫が騎馬民族国家で言及したように、騎馬民が大陸からやって来て国家を作ったようにも推定出来る。
騎馬民は海洋民に伴われて4つの海路を通り日本にやって来ていて、主に北方の黒竜江河口から樺太千島を伝って北海道へ南下してくる海路と沿海州から朝鮮半島東岸を海流に乗り島根半島、丹後半島、能登半島へと至る海路を通ってやってきており、ニギハヤヒ伝説が丹後半島に残っていたり、後世、京都ハリストス教会の始祖の聖ニコライがやってきた沿海州からの海路を通りやって来た騎馬民の神話に天孫降臨神話があるとみられる。
江上波夫が騎馬民族国家というのは構成員が流動的な人為的国家の要素を持つと言及している。騎馬民が日本に作った国家も梁書に記述のある文身国や扶桑国と表現されているように内からは権門でありシステムグループで中心に権力の責任者は不在の集団なのだが外からは複数の国家があるように見えたのであろう。その様子は日本の時代が後に下ってもそのような様相で朝廷と幕府がそれぞれ権門なので対外的にはどちらも王と呼ばれるというような実相をかなり長期間持ち、現代日本の基本構造も古代中世近世とほぼ変わっていないとみられる。
発表後、数多の批判に晒され、大部分は否定されているのが江上波夫の騎馬民族征服王朝説だが、1967年にまとめられて発表された騎馬民族国家の内容の示す領域や話題の全てを否定は出来ないと筆者は考えている。
騎馬民のやってきたメインルートは沿海州からの海路ではなく黒竜江河口からの海路であったろうと推定され(HindyQuest 2024年)、梁書の文身国と扶桑国のように複数の騎馬民の国家のように見える権門(システムグループ)が日本に存在したのではなかろうか。そしてその権門は有機的に増殖と消滅を経て新たな文明の利器の発明で生まれて集積された富を持って基本構造として現代日本の権力構造にはっきりと存在していると考えられる。
梅棹忠夫が人間社会とその歴史の法則を極相林などの森林の植物生態学と同じような見方ができないかと生態史観と呼ぶことにすると述べているように、人間はそれぞれ個別で民族などによって植物の樹種のようなところがあるが、人間社会全体は極相林なので樹種の別が問題になることはない。マクロな視点で人間社会とその歴史の法則を知りたいという動機を持っていた梅棹忠夫はその法則とはなにかを思考し哲学の手法を用いて著した。
筆者は日本とはどういう姿をしてきてどういう姿をしているのかという関心がずっとあり調査して思考してきた。梅棹忠夫ほどの知の巨大さではないが、一応、知とか知見とよばれるようなものをまとめておこうと思っている。
日本はその権力構造がドーナツやベーグルパンのような形をしており、中心は空で権力構造の中心にその権力の責任を負う存在はいないというカレルヴァンウォルフレンの見解に触れて長らく謎だった日本の権力構造を猪瀬直樹が空虚な中心を持つとなぜ言及しているのかの理由が認識出来た。
日本社会で問題を解決する時、権力機構の中心に話をしても何も動かずその周辺に話をすれば状況が動いていくことが多いのはドーナツやベーグルパンみたいに中心には何も存在しない空だからで周辺にはその中心の空を取り囲む実体が存在するからと考えられる。
だが中心が空だからとその中心をまるで無視するようには出来ておらず、山本七平が空気と呼んだようなものが中心を持って周辺に放射されている。(空気の研究 文藝春秋 1977年)そして多分に科学的根拠より呪術的根拠で行動しており古代から連綿と祭政一致の政治と習俗で運用されている。現代日本では建前上政教分離ということになっているが社会も経済も政治も祭政一致の頃の呪術的根拠での処断を日本は何も変えていない。
中心が空なので統合の象徴と言いあらわせて空虚な中心であると呼ばれている。
猪瀬直樹が昭和時代に空虚な中心と呼ぶ前に美濃部達吉が大正時代に天皇とは機関であるという説を発表し不敬罪に問われたが、現代日本ではそれと同じことを言説で述べても罪を問われることはない。
権門がドーナツやベーグルパンの周辺の存在として空虚な中心を取り囲み権力構造を形成しており、問題解決の話を持って行って行動に移されるのはこの権門に話を持ち込んだ場合である。
そのような国家の姿は実に古くから日本はそういう姿をしており、中心の空に何かを働きかけるのは僭越として戒められている。
目に見えないが存在しているものというものは科学的知見でもいくつも確認されており不可視光や音、電波などは見えないが存在を認知されている。だが認識される知というものをデッサンした際、日本では古くから漫画が存在するので娯楽芸術の方面で盛んに生み出されて消費されておりそれを表現する人間はとても多い。
オシロスコープが発明されて以降は音も可視化できて現代社会は可視化されて把握されている知というものが増えてそれがすべてのように錯覚されていることもある。
科学的知見と呪術的様式とは実は見かけではそのどちらかが判然としない場合があり、権力構造という形而上概念(けいじじょうがいねん 意識の上部で判断される考えのこと)は存在は空や空気みたいなものでも不都合を生じさせず、祭政一致の時代には呪術により政治が行われてきており、亀甲卜占(きっこうぼくせん)が現代日本でも行われて、それによりこの時代はいいか悪いかを占いで示したりしている。令和改元の折に宇佐八幡宮が亀甲卜占をして時代の吉兆を占っておりそのような仕事は権門の仕事なのである。
筆者注
1 梅棹忠夫の文明の生態史観の初出は1957年
である。引用には2023年出版の増補新版を用
いた。
2 HindyQuestの見解は筆者との議論で筆者が採録
したものである。