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宝暦治水

工期
自 宝暦4(1754)年2月27日
至 宝暦5(1755)年5月25日
工区 4
木曽川、長良川、伊尾(揖斐)川
4工区の所在地 面積 人員配置
一の手 石田 1670m2 幕府方17 薩摩方350 村方2,800
二の手 新田 2445m2 幕府方17 薩摩方300 村方2,400
三の手 大薮 5000m2 幕府方22 薩摩方500 村方4,000
四の手 金廻 3579m2 幕府方19 薩摩方600 村方4,800計 幕府方83 薩摩方1,750 村方14,000
工費
約30万両(推計)
(牛嶋正 宝暦治水 風媒社 2007年)
(中西達治 宝暦治水と平田靱負 あるむ 2015年)
木曽三川、木曽、長良、伊尾(揖斐)は古くは川筋が網目状で、幾度の治水工事で川筋を改修し宝暦治水で現在の川筋とほぼ同じ川筋となる。
木曽三川は伊尾(揖斐)、長良、木曽の順に標高が上がっていく地勢をしているので、大雨や台風などで水嵩が増したときまず伊尾(揖斐)の水位が上がり、次いで、長良の水位が上がり、長良から伊尾(揖斐)に水が流れこんで水位が更に上がり、そして木曽の水位が上がり、長良、伊尾(揖斐)に水が流れこんで水位が上がった。
そのため伊尾(揖斐)流域の洪水が一番長引いて水が溢れた。伊尾(揖斐)流域の大垣などが冠水したのはそういう地勢的特徴に理由がある。
井澤爲永(いざわためなが)の三川分流計画に従い薩摩義士たちも動員して宝暦治水は行なわれた。
宝暦治水では薩摩藩に御手伝普請を幕府が命じて薩摩藩は平田靱負(ひらたゆきえ)を総奉行として現地で工事に従事した。
幕府との間に意見や方針の一致を見ず工事が進行した。薩摩藩は上方や江戸での資金調達の他におそらく琉球貿易などでの収益も投じたとみられ、工事の方針の不一致に対して薩摩義士が多数抗議の切腹をして亡くなり、総奉行の平田靱負も工事が完成後に引責の切腹をして亡くなったとみられる。
平田靱負の死因については大きく2説あり、引責の切腹説と出先での病死説で、三重県桑名市の海蔵寺にあるとされる平田靱負の墓と戒名を調べると別人だとみられ、病死説では伏見で病死とありどうやら墓は京都市伏見区の大黒寺にあるという。引責の切腹説は杉本苑子の直木賞受賞作である孤愁の岸に平田靱負の切腹描写が描かれていたことからも明治時代の薩摩義士顕彰活動で切腹説の方が美談として語るのに都合がいいということだったのではという見解がある。
史実と虚構は分けて考えた方がいいのが歴史だが、だいたいにおいてつまらない不都合な事実より面白い都合のいい虚構の方が多くの人の支持を得る。
江戸時代の武士の切腹というものは罪に問われて切腹になった以外のものは切腹が知られると家名断絶となるため死んだ状況から切腹だと分かっても記録や公式には病死とされることが多かった。平田靱負の場合も治水工事の引責で切腹したのか、治水工事の心労で病死したのかのそのどちらにも一定の確からしさがある。

宝暦5(1755)年3月29日に桝屋伊兵衛(ますやいへえ)という村人が1人、工事の人柱として亡くなっている。

(牛嶋正 宝暦治水 風媒社 2007年)

問題は舛屋伊兵衛である。舛屋伊兵衛の墓は、輪之内町円楽寺に現存している。墓碑銘には、
宝暦五乙亥年
法名 釈誓終往生
三月二十九日
俗名 武州江戸神田紺屋町
舛屋伊兵衛
とあり、江戸在住で舛屋という屋号を持つ、工事が終わったころの三月二十九日に亡くなった人物である。海蔵寺に埋葬された越後屋源助は、墓石はないが埋葬証文が残されており、薩摩藩の御用商人であったことが分かる。だがこの人については墓石はあるが文書記録は残っておらず、墓に記されたこと以外は何も分からない。
この人は、犠牲者発掘を続けてきた西田喜兵衛以下、金森吉次郎、小西可東、山田貞策等の報告には宝暦治水工事の関係者としては全く登場しないし、鹿児島県教育会の特集号にももちろん出てこない。宝暦治水とは何の関係もない人物だということになる。
薩摩義士外伝の舛屋伊兵衛の部分を見てみよう。
意地の悪い幕吏の中にも高木新兵衛や高木内膳(現在岐阜県養老郡多良村高木貞元氏の祖先也)は頗る理解のある武士でした。新兵衛の家来内藤十左衛門は、薩摩藩士に余り同情を寄せたが為に、監督不行届という廉で切腹せしめられたといふ事実もあります。また内膳の家来舛屋伊兵衛に付てはこういふ悲しい物語が残っております。
宝暦四年九月廿二日、第二期工事の始まった日、大榑川洗堰普請場で、伊兵衛は、「こう度々の工事の破滅を見るといふは、何か水神の祟りがあるかも知れぬ、誰か人柱となってその祟りを除かではないか。」と云ひ出しました。多数の人々思案に余って居る処だから、それは宜からうと直に賛成いたしました。そこで各自の袴の色紙に当つてゐるものが人柱とならうといふことが決まつて、さてそれを調べて見ると、この議を持ち出し本人伊兵衛の袴に色紙が当つてゐた。「いや有りがたい神様のお思召に叶って、人柱となって死んで行くのは本望である」こう云ふて莞爾と笑ふ、物すごいやうな渦巻の中へ飛び込ん、工事の成功祈つて死んで行きました。それかあらぬか、この工事は、その後めきめきと進んで遂にめでたく完成いたしました。
口故に父は長良の人ばしら
 雉子もなかずばうたれはすまい
この俗謡は皆さんもよく御存知のことでせう。これは悲しみの余り唖者となつた伊兵衛の娘が、嫁した家から離縁されて戻る途中、雉子の鳴声を聞いて思はず口ずさんだ悲痛な告白でありました。

(中西達治 宝暦治水と平田靱負 あるむ 2015年)

宝暦治水の時代は科学的根拠での行動と呪術的根拠での行動の割合が現代と異なる。工事に参加した江戸の土木工事業者が当時の最新の工法を用いた一方で人柱を献じるという行動は呪術的根拠での行動でそれにより人が亡くなった時代とみることも出来る。
桝屋伊兵衛に関しては岐阜県安八郡輪之内町大薮にある円楽寺に岐阜県指定史跡として墓があり、岐阜県大垣市の本堂寺に顕彰碑がある。実在を疑われる意見がある一方で祭祀は行なわれているという。
宝暦治水で人柱を献じたということについて秋山昌則は捏造と断定しており事実だとすると不都合なので否定派は存在する。私はそのような事実を排除せず考えている。

舛屋伊兵衛は宝暦治水工事の際、ただ一人人柱となった人物。養老郡多良の生まれで、領主高木内膳の下人となり江戸神田紺屋町に住んでいたが、宝暦4年(1754)高木内膳が薩摩藩による治水工事の工事監督になり、伊兵衛も一緒に美濃に帰ってきた。そこで、大榑川洗堰工事の淒惨な難工事を目撃した伊兵衛は、『これは水神の怒りによるものだ。人柱となってその怒りを鎮めよう。』と濁流に身を投じた。薩摩藩は伊兵衛の死を無駄にすることなく、難工事を完成させた。円楽寺の慈賢和尚は、伊兵衛の墓を円楽寺につくり供養した。死没年月日は、幕府にはばかり工事竣工の翌日(宝暦5年3月29日)になっている。伊兵衛の顕彰碑は大垣の本堂寺にある。

(かんこう輪之内 https://kanko.washoko.or.jp/sp/detail.php?id=167)

桝屋(舛屋)伊兵衛に関しては供養している寺があり、後世の捏造で祭祀したりしないと考えられる。
祭祀や習俗というものは祀られる存在のモデルなり実在の人物が存在していて後世にフィクションが加わって伝承や神話となり祭祀される傾向がある。桝屋(舛屋)伊兵衛もそのような伝承や神話の要素がないかというとその点には実在の人物が行なったり体験したこととその体験の動機については伝承とともに神話で創作されている余地は存在する。
桝屋(舛屋)伊兵衛が人柱になった経緯が伊兵衛が袴に色紙のある者を人柱にしてはと言って自分の袴に色紙があったからという話が薩摩義士外伝にある。それなら望んで人柱になろうじゃないかと続く描写があり、動機の本当のところはどうだったのかはよくわからない。

工区は4区に分かれ、一の手、二の手、三の手、四の手と呼ばれ、総延長距離は200キロ以上に及んだ。木曽、長良、伊尾(揖斐)というどれも皆、現代では一級河川であり、この三川を渡る橋は明治時代になるまで架けられず、東海道も伊勢桑名の七里の渡しから尾張熱田の宮の渡しまでは海路であった。
木曽三川の分離工事は明治時代のヨハニス・デ・レーケによる工事により最終の帰結をみたのだが、そのもとの川筋のおおよそは宝暦治水で川筋が改修されていた。井澤爲永の三川分離計画をヨハニス・デ・レーケに語った土地の老人というのが居たと伝わっており、木曽三川を分離すると下流域の洪水はかなり軽減されるということが想定されていたようである。
昭和34年(1959年) 9月26日~9月27日にやってきた伊勢湾台風でも細かな堰は決壊したものの大規模な洪水とはならなかったので、宝暦治水とヨハネス・デ・レーケの三川分離工事とで川筋が改修された効果は伊勢湾台風の時に確かめられた。