桜木

 はてなブログにて公開していました桜木という小説をnoteにて出し直します。
2016年1月16日 阿蘇山

桜木

一 逢瀬桜
 
 鳥越主水が楠木正成に呼ばれたのはときと会った後のことだった。
 菊水紋の幕屋を張った和泉赤坂での水銀堀りの指図をしたあと千早城に呼ばれ、鎌倉方が攻めてくるということを主水は正成から知らされた。
「お館様。いよいよでございますか」
「うむ」
「相手は万を超える大軍、こちらは小勢。利が無いでござりまするな」
「こちらにあるのは地の利。攻め方を山深く誘い込み迎え撃つ」
「それしかないでござりましょうな」
「縁者との別れは済ませておけ」
「承知仕りました」
 主水は桜木の里に向かった。
 逢瀬桜の下ではときが傍らの石に腰掛けていた。
 枝には新芽が芽吹き暑くなってくる頃の風情があった。
「主水様」
「とき、待たせたな」
「お館様に呼ばれたのでございましょう。何と」
「戦さになる。おもとも身を隠せ。わしは千早の城に行かねばならぬ」
「鎌倉方の軍勢が来るとか」
「うむ」
 主水は馬を逢瀬桜につなぐとときの座っている左にある石に腰掛けた。
「久世の海岸寺がよかろう。北条も寺までは焼かんだろう」
「ととさまやかかさまには何と申しましょうか」
「軍勢が来たら食べ物を出しておけ。おもとは居なければ何も申すまい」
「寺守にはわしが話をする」
 ときは張りのある顔をしてうなずいた。
 主水はときを馬に乗せて半里ほど東の久世の里に向かった。
 逢瀬桜が遠く後ろに退いて見えなくなった。
 鳥越主水と海岸寺の寺守の円珍とはともに和泉府中で学んだ仲である。三井寺の開祖と同じ法号を持つ円珍は久世の生まれで、伏尾の入り江の生まれである主水とは生まれが隣郷ということもあり幼馴染であった。
「円珍殿」
 主水とときは海岸寺の本堂に上がり作務衣姿の円珍の向かいに座った。
「主水殿にとき様ではありませんか。随分沙汰も無く。どうしておられるかと案じておりましたが。お元気そうでなにより」
「おもとに頼みがありましてな。まかり越した次第」
「頼みとは」
「左様。ご存知かとは思いますが、鎌倉方が千早のお館様を討ち取ろうと下知を下しておりましてな。わしは千早に行かねばならなくなった。ついてはこの辺りも戦模様となるは必定。ときの身が案じられる」
「なるほど。おもとは楠木様とは主従であったのう。それは奉公の時であらしゃるのう。侍は戦さをせねばならぬからのう」
「そこでときを戦さが終わるまでおもとの所で預かってはもらえぬものであろうか。今朝方赤坂で掘り出した薬も持参したゆえ、これでなんとか」
 主水はそう言って錦織の袋を円珍の前に差し出した。
「いやいや拙僧は御仏に仕える身。おもとの御武運祈願ととき様の御身はこの円珍いくらでもお引き受けいたす。薬はかまわぬ。古い馴染みではござらぬか。ご安心召され。」
「かたじけない」
「何、かまわぬ」
 円珍はそう言って破顔した。
「とき、円珍殿のお許しがでたよってに安心するが良い。戦さが終われば迎えに来る。いざとなれば桜木まで逃げてくるから案ずるな」
 ときは涙をためて黙ってうなずいた。
「主水殿、お気をつけてな」
「かたじけない。では参る」
 主水はそう言って立ち上がり海岸寺を後にした。
 河内千早の山端には山城が築かれていた。
 攻め手の鎌倉方と守り手の楠木方の戦力比は十対一。
 一般的に山城を攻め落とすには守り手の三倍の兵力が必要とされている。
 鳥越主水は石落しを任され、攻め手が登ってきたところに石を落として被害を与えていた。ブナ林のジンガサゴケが茂る木立の合間を石に打たれた鎌倉方の兵たちが転がり落ちてゆく。
 そんな攻防が一週間、一ヶ月となると攻め方も攻めあぐね、ついには兵を引いた。
 主水は手勢を引き連れて河内赤坂まで下り、赤坂城を過ぎ、富田林から狭山を抜け、陶器山を越えて若松荘に入った。
 臨川寺の僧兵が守る若松荘は鎌倉方であったので楠木方は彼らから見れば所領を荒らす悪党ということになる。
「楠木兵衛尉が家臣鳥越主水。当地を通って和泉久世へ参る。物盗りなどせぬよってまかりとおる」
「悪党とはいえ口上を述べたによって特に認める。通られよ」
 文信という僧兵がそう返答したので主水は馬を駆って若松荘を抜けた。
 伏尾の里まで来ると家来の東尾三郎を呼んで言った。
「三郎、二、三日ほど久世の里に参るよっておもとらはここで休んでおれ」
「承知仕りました」
 主水は単身久世の海岸寺へとやってきて円珍を呼んだ。
 円珍は主水を見るとときを呼んだ。
 主水を見たときは安堵の表情をして言った。
「主水様、ご無事で」
「うむ。鎌倉方を追い返してやったわい。お館様の策のとおりに事が運んだよってに十倍の数の差も物ともせんかったわな」
 ときは主水の言い様を黙って聞いていた。
「落ち武者狩りが済んだ頃には桜木に帰られるだろうて。あと二、三日ここに居るといい。わしも骨を休めさせてもらう。円珍殿かまわぬか」
 円珍は笑ってうなずいた。
 湊川で大きな戦さになった後楠木勢は壊滅し、鳥越主水はやっとのことで戦場を逃げ出すことができた。
 三国丘を超えて和泉国に入る頃には主水と手勢数騎ばかりで、落ち武者という風情も色濃くなった。
 主水は桜木の里を目指した。
 事情を伝え聞いていた桜木のときは、和泉小阪まで主水を出迎えようと毎日主水を待った。
 
 湊川の戦いから七日後、桜木の逢瀬桜の下に落ち武者が一人、辿りついたとの知らせを聞いてときは逢瀬桜へと駆けていった。
 落ち武者はまぎれもなく主水だった。
 逢瀬桜の下でときが持参した水を一息に飲むと主水は大きく息をついた。
「主水さま」
「どうにか逃げて戻ってきた。命あったは御仏のご加護であったのう。」
「ご無事で」
「それにしても落ち武者詮議にかけられるのではございませぬか」
「痛み分けの辛勝というのが本当のところであろうからそれ程の余裕もなかろう。知らぬ振りを決め込んでおけばよかろう」
「知らぬ振りですね」
「そうじゃ」
 桜木の里の逢瀬桜の下で寄り添うようにいつも座り石に座る主水とときは傍目から見ても仲睦まじかった。
「悪党楠木正成の家来鳥越主水か」
「そのような者、知らぬわい」
「似ておるがのう」
「人違いじゃ」
「ほんにしつこい。絶対おまえさまは北朝方には渡しませぬ」
 ときはそう言って通り過ぎる北朝方の侍を睨み据えた。
 主水が桜木の里に落延びた後三日に一度はこのようなやりとりがあったがやがて一月、二月と経つうちに詮議の手も及ばなくなった。
「とき。万が一ということもあるよってにおもととは夫婦となったほうが良いかの」
「主水さまがそうなさりたいのであれば私は構いませぬ」
「まことぞ」
「まことにござります」
 
 そして主水とときが夫婦となって1年が過ぎた。
「主水さま。ややができました」
 ときがそう言って微笑むと主水は大きく目を見張って言った。
「そうか。そうか。でかしたぞ。でかしたぞとき」
 気付けば桜木の里も春の彼岸を過ぎ逢瀬桜は満開であった。

二 バス停桜

 やわらかな心、決して目立たないが誠実で優しい気持ち。何かを伝えるには言葉がそれをよく伝えることの助けとなる、そう信じる気持ち。そんなことを考えて日々を暮らしたいと峰山朋美はいつも思っていた。
 和泉小阪の坂を下りてゆく路線バスに揺られて帰る途中バスの車中から見えた桜花の散る様に朋美は涙が頬をつたっているのにも気付かずにいた。
「綺麗やねえ。桜は散り際が」
 朋美は自分が座っている座席の1つ前に座っていた老婦人がそう言うのを聞いて我に返り涙を拭った。
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 朋美は目的地への最寄りを告げる車内アナウンスに気付いて降車ボタンを押した。
 桜木の名が示す通りバス停の脇には樹齢300年のエドヒガンが今春も花をつけた。
 その花も今は散り始めていた。
「エドヒガンですね」
 バス停の前で花を散らす桜木を見ていた朋美に声をかけた老婦人はそう言って微笑んだ。
「日本原種なんですって」
「そうですね」
「ソメイヨシノはもともと1本の木だったんですって」
「お嬢さんお詳しいねえ。そうですよ」
「まあこれは友達の受け売りですけど」
 朋美がそう言って笑うと老婦人は小さくうなずいた。
「ソメイヨシノは50年から100年ぐらい生きるんだそうだけど、エドヒガンは400年は生きるんですって」
「そうですねえ。長生きですよねえ。私よりずっと。このバス停桜は」
「バス停桜って云うんですか、この桜」
「ええ。ここにバス停ができた時にはもう大木でしたのよ。この辺りの地名の元になったと言われてますね」
「桜木ですもんね」
 朋美はそう言ってふっと息を吐いた。
「お嬢さんどちらまで行かれるんですか」
「ますづか整骨院まで」
「ますづかさん…あそこの先生、お若いけどいい腕されてらしてねえ。私も時々頸とか診てもらってます」
 バス停からエドヒガンの横を過ぎて和泉小阪寄りの南北筋を1本南に入った4軒目にますづか整骨院はある。
 ドア脇には柔道整復師の組合員証や生活保護の指定施術所のプレートなどが貼ってあった。そのドアノブには診療中と書かれた札が下がっていた。
 ドアを開けると待合イスの奥に受付があって、医療事務員風の若い女性が座っていた。
「こんにちは」
「こんにちは、峰山さん」
「バス停桜、散り始めてますよ」
「そうなんですか。なら間なしに暑くなってきますね」
 峰山朋美と書かれた診察券を受け箱に入れると朋美は待合イスに座った。
「エドヒガンなんですよね、バス停桜」
「そうなんですか、私は花の名前には疎くて桜と薔薇と椿ぐらいしかわかりませんけど」
 受付嬢はそう言って笑った。
「エドヒガンは日本原種なんですって」
「へえ。楠公の座り石とかありますからこの辺りは古い土地なんでしょうね」
 受付嬢はさっぱりとした口調でそう朋美に言った。
 整骨院の中には柔道家が副業でやっている所とかもあるので、整骨院の横に柔道の道場があったりする。
 スポーツ系の学校を出てから柔道整復師の修行をした院長の経営するますづか整骨院は
院長と受付嬢の性格と良心的な診療とで客がついている様で繁盛している。
 大阪市内には柔道場と整骨院とが棟続きなっている所もある。
 ますづか整骨院は朋美が通うようになった頃はまだ開業して半年を過ぎた位だったせいもあり、活気があった。今は一応の落ち着きを持ちはじめていて、経営は軌道に乗った様である。
「峰山さん、どうぞ」
 受付嬢が診察室のドアを開けて朋美を呼んだ。
 朋美はゆっくりと立ち上がって診察室の中に入っていった。
 診察室に入るとカーテンで間仕切りされた施術床が4床あった。うち2床はカーテンが降ろされていて左脇から低周波モーターのうなる音がした。
 ますづか整骨院はマンションの1階に入居していてそれほど広くはない。
 施術床の間隔も狭いので最初に低周波治療器をあてられている時に隣で施術が行われていたりすると、その会話がよく聞こえる。
 しらんぷりをしていた方がよさそうな他人のプライバシーや院長のプライバシーもあるのだが、あまり来院患者も院長もそういう事は気にしない様である。
「今日は腰ですか」
「ええ」
「わかりました。じゃあ腰に」
 そう受付嬢が言ってパッドを4つ朋美の腰にあてて言った。
「上の方から入ります。いいところで仰ってください」
 モーターのうなる音とともに低周波の少しくすぐったい振動が伝わってきた。
 ある程度振動が強くなってきたので朋美は「もういいです。その位」と言うと、受付嬢は「じゃあ次下入ります」と言って低周波治療器を操作した。
「それじゃあしばらくそのままでいて下さい」
 受付嬢はそう言ってカーテンを引いた。
 数10分後朋美の施術が始まった。
「峰山さん、どうですか、腰のほうは」
「ええ。随分いいです。雨の日には体が重かったんですけどそれもないです」
「よかったぁ。いいカンジじゃないですか。安心しました」
 ますづか院長はそう言って腰を掌で押した。
「バス停桜、散り始めてました」
「そうですかぁ。それじゃあ暑くなってきますね」
「エドヒガンって云うんですって、あの桜」
「そうなんですか」
「今日バス停であの桜見てたらね、お年を召されたご婦人がバス停桜っておっしゃってたので」
「私も知りませんでした。バス停桜って云うんですね」
「和泉小阪からのバスが通る道にバス停が出来たときにはもう大木だったんですって」
「へぇ、そうなんですか」
 施術が終わり整骨院を出ると、朋美はバス停へと向かった。
「楠公の座り石って…楠公って楠木正成のことよね」
 そう呟きながらエドヒガン横にある2つの御影石を見た。たしかに座り石と呼ばれるだけあって頂きが平らで大人が腰をかけられそうな高さの石だった。
 朋美は座り石に座ってみた。
 座って景色を眺めると、崖上にある桜木のバス停から下の方が望め、家々が散りばめた砂粒のように見えた。
 エドヒガンが咲く頃はその名が示す通り春の彼岸の頃で、寒さも終わり暖かくなっていく頃であった。
 散りそぼるバス停桜の花びらが朋美の肩にはらはらとかかった。
「お嬢さん今お帰りですか」
 先程の老婦人が座っている朋美にそう声をかけた。
「いえ。今日は用事が済みましたので梅田にでも出ようかと」
「そうですか」
「私は角倉せつ。せつと申します」
「峰山朋美です」
 朋美がそう答え、立ち上がって会釈するとせつは会釈を返し、目を細めて微笑した。
「バス停桜と呼ばれるまではこのエドヒガン、逢瀬桜っていったんですよ」
「楠公のご家来で鳥越主水という人が千早の合戦の前にときという女の人と会ったのが
この桜の下だと言われてます。」
「桜木の里の娘だったときは鳥越主水とこの桜の下で逢瀬を重ねたと」
「ちょっと待って下さい。エドヒガンの寿命は長くて400年。楠公の時代にはなかったかこの木の先々代かが逢瀬桜じゃないんですか」
「そうなりますかねぇ。桜も生きてますから寿命もありますねぇ」
「角倉さん、鳥越主水と、ときの逢瀬桜の頃からこの辺りは桜木という地名だったんですか」
「だと言われてます」
「古い言い伝えに和泉国大鳥郡桜木郷とありますから随分古くから桜木と呼ばれてたんでしょうねぇ」
「バス停桜は崖の上に昔からあってねぇ…」
 せつはそう淡々と言って柔和な表情をした。
 
 ガンダム好きにはファースト好き、Z好きなどがいるが、2ちゃんねる用語語源のガンヲタまで行ってしまわなくても、日本のある年齢以下の男性にはガンダムは共通語になっている。バンダイの販売しているガンダムのプラモデルを作ることをガンプラ作りといったりもするが、長谷川昌幸は雑誌のインタビューで趣味を聞かれてガンプラと答えたりしている。
 ますづか院長はガンダム好きである。
「私は宇宙世紀シリーズの方が好きです。日高さんはガンダムだったら何が好きですか」
 日高真隆は施術中にますづか院長とガンダムの話になっていた。
「わたしはZZですかね。ジャンク屋のコロニーシャングリラがなんとも」
「そうですか。わたしはZですね。シリアスな人間ドラマなところが何ともね」
「今日待合で施術を待ってたらガンダムファクトファイル宅配されてきたんでひょっとしたらお好きなんじゃないかと思いましてね」
 ますづか院長は笑った。
「シャングリラって桃源郷って意味なんですよ」
「へぇー日高さんって物知りですね」
「衒学ですよ」
 真隆は股のストレッチをされながらそう言って苦笑いした。

 桜木のバス停でバスを待っている朋美の座る楠公の座り石に30過ぎの男が座った。
 朋美はエドヒガンの花を眺めていた。
「エドヒガンですね、この桜」
 男が朋美に話しかけてきた。
「バス停桜って名なんですって」
 男はやわらかく笑った。
「そうなんですか。鳥越主水とその妻ときの逢瀬桜とばかり思ってたんですけどね。日高真隆です」
「峰山朋美です」
 バス停桜の花びらが2人の肩にかかった。
「湊川の戦いで楠木正成が敗死したときに鳥越主水はこの逢瀬桜まで逃げてきてときと逢瀬をしたと言われてます。伝説ですけど。鳥越主水は和泉赤坂の水銀堀りの頭目で、そのつながりで南朝に加わったんでしょうね」
「そうなんですか」
「峰山さんはエドヒガンがお好きなんですね。さっきからずっと眺めてる」
「日本原種で樹命300年から400年、樹長は15mから25m。開花は毎年3月から4月。生育適地は本州から九州。葉の長さは6㎝から12㎝、花の長さは2.3㎝から3㎝。花びらは5枚。エドヒガンというけど江戸時代以前から日本に植わっている。正真正銘のジャパンブランド、またの名を彼岸桜」
「お詳しいですね」
「まあ、この程度なら植物図鑑に載ってます」
「エドヒガンがお好きとはまた。さくらといったらソメイヨシノをイメージする人が多いですけどねえ」
「ソメイヨシノってハイブリッドクローンなんですって」
「ハイブリッドクローンですか」
「DNAが皆1本の木のもので50年から100年の間に親木から分けるんですって。だから伝染病とかには弱いんですって」
「そうなんですか」
「友人に樹木医が居ましてね。その人とよく木の話になるんです。それで私も興味を持つようになって」
「へぇー」
 真隆がそう言った後にすぐ堺東駅前行きのバスが来た。
 2人は座り石から立ち上がりバスに乗った。
 阪和線の上野芝踏切を渡ると履中陵の北辺をかすめる。堺東方面に向かう進路では左手に堀と陵山が見え、石津丘の地名どおり石津山といった風情である。
[次は塩穴通]
「それじゃ私はここで」
 真隆はそう言って降車ボタンを押した。
「はい。お気をつけて」
 朋美はそう言って笑顔を見せた。
 バスは府道に右折し、塩穴通のバス停に停車した。
 真隆は席を立ち、バスカードを取り出すとチェッカーにくぐらせてバスを降りていった。
 
 日高真隆は杉本町駅から阪和線に乗り津久野駅に向かった。
 津久野の駅前はバスターミナルになっていて泉北方面への路線バスが数系統発着する。
 桜木までは泉ヶ丘駅までの路線バスでも行くことができるので真隆は津久野からバスに乗ることもあった。
 11系統の路線バスは泉ヶ丘駅方面のバスなのだが、そのバスの発車するバス停で真隆はバスを待っていた。
「日高さん。」
 真隆が振り向くと峰山朋美が笑って立っていた。
「ああ。峰山さん。お帰りですか」
「ええ。ますづかさんに寄ってから」
「奇遇ですねえ。私もますづかさんで肘と手首と腰を診て貰ってます」
「そうなんですか。本当、奇遇ですねえ。私は腰を」
「ますづか先生、ガンダム好きなんですよ」
 真隆の言葉に朋美は吹き出して笑った。ひとしきり笑ってから朋美は言った。
「見えないですねえそうは。でも男の人でガンダム好きな人ってけっこういますよね。長谷川昌幸とかってカープの合宿所に居たとき部屋にはガンダムのビデオだらけだったって聞いたことあります」
「広島の投手だったあの長谷川ですか。今は引退して広島で料理居酒屋を経営している」
「日高さん野球、お好きなんですか。長谷川ってそれ程有名な選手じゃないですよ」
「背番号が19のときに一度甲子園で投げているのを観たことがあります。」
「私は横浜で一度。それと沖縄キャンプを見に行ったことが」
「キャンプを。それはまた」
「前シーズン最下位で広島。だから私たちともう2組しか見学者が居なくて、友人に長谷川と2ショット撮って貰ったんですよ」
 真隆は笑って朋美の話すのを聞いていた。
「キャンプ見た後に食べたソーキそば、おいしかったです」
「我部祖河そばですか」
「そう我部祖河…沖縄、お詳しいのですか」
「コザ店で特盛り食べたんですけど、すごい量でした。かつおだしに平打ち麺、ソーキ肉が5つ。ドンっと」
 真隆がそうソーキそばのことを言うと朋美は笑った。
 バスが来たので2人はバスに乗り込み、2人掛けの座席に座ってとりとめなく話した。
 バスは発車し、家原寺の下を通って深井の町中を抜けた。
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 朋美と真隆は相次いでバスを降りた。
 バス停桜は青々とした葉をつけて木陰をつくっていた。
 
 角倉せつが桜木のバス停脇にあるエドヒガンをはじめて見たのはもう50年以上も前で、毎年彼岸の頃には良い枝ぶりの所に満開の花を咲かせる。
 林学を専攻したせつは修士号を取ると河内長野の林業会社に就職し、樹木医の受験資格が発生する実務7年目をその会社で迎える。その後年間80人しか合格者を出さない樹木医の資格を取り樹木医として方々の木々を診て周るようになった。
 桜木のエドヒガンを特に異常もないのに観に来る様になったせつは複雑な表情をして楠公の座り石に座って日々を過ごす事も多々あった。
 古来よりサクラは神が一時宿る木という伝説がある。花が散った後に葉をつけるところから山の神が田に降りてくる途中にサクラに宿るのだという。
 そのエピソードを知ったせつは感慨が深い木だと思いながらバス停のエドヒガンを見るようになった。
 樹木医をはじめる前から桜木のエドヒガンを見てきたせつはソメイヨシノの華やかさとは少し違うエドヒガンのたおやかでたくましい姿に心惹かれていた。
「バス停桜ってよばれてねえ…逢瀬桜は先代で終わりなのかしら」
 せつはそうつぶやいてエドヒガンを見上げた。
 樹齢が300年を超えているエドヒガンは人の年にすればもう老境だがまだ花をつける。
 楠公の座り石から腰を上げてせつは桜木の里へと歩みを進め、里の路地の中へと入って行き、磨き板に「桜文庫」と書かれてある店の中へと入っていった。
 中では30代後半ぐらいの芯の強そうなロイド眼鏡をかけた女性がノートPCに向かって何かしている姿があった。机の上にはまるで置物のように黒トラ猫が座って女主人の手に鼻を近付けたりしていた。店には壁に沿って書架が作り付けられていて中央にはイベント特集のように一押しの商品が並べられてあった。床の上には一袋ずつ封をされてマンガ少年の古本が無造作に箱に入れられていた。文庫本の書架には十五少年漂流記が並んでいた。反対側の壁には口語訳聖書が見えた。
 十五少年漂流記の日本語訳文庫版を手にとってせつは女主人の座っている奥の帳場へと向かった。
 帳場の床には亀のいる水槽が二つと整理中と思われる書籍が積まれ、黒トラ猫がその上
をのそのそと歩いていた。帳場のカウンター下のショーケースの中には大阪コケの会というリーフレットや学術レポートが売られてあった。
 せつは学術レポートを一部手にとって十五少年漂流記とともに女主人に渡すと、女主人はPCのキーパンチを止め手早く文庫本とレポートを桜文庫と書かれた紙袋に詰め「300円です。」と言った。
 カウンター右手の壁沿いにはやはり書架があり、丸谷才一や筒井康隆、倉橋由美子の本の並ぶ中に家畜人ヤプーの邦訳本の上巻が混ざっていた。
 桜文庫はネットで評判が良い古本屋で、とあるトレンド誌の取材を受けて紹介されてもいたので、近隣はおろか遠方からわざわざ探して来店する人々もいたりする。
「真穂さん」
 女主人はせつに名を呼ばれたのでせつを見た。
「エドヒガンの花が散っていましたよ。桜は散り際が一番綺麗やねえ」
「ああ。角倉さんは木のお医者さんをなさっているから木に目がいくんですね。コケのレポートは趣味ですか」
 真穂がそう言うとせつは顔をほころばせて笑い、言った。
「逢瀬桜の頃の本といえば太平記かしらね」
 真穂はロイド眼鏡を左手の中指で押し上げてせつを見た。
「楠公の座り石でしたっけ、バス停桜脇の二つの座り石は」
 せつはうなずいた。
「座り石でバス待ちするときにでもヴェルヌとかを読んでいますわ。十五少年漂流記の文庫本があったからねえ。桜木のバス停には1時間に4本しかバスは来ないし。」
 せつがそう言うと真穂は薄く笑ってPCに向かった。
 桜文庫でせつがたたずんでいると、戸口がカラからと開いて男女連れが中に入ってきた。
 桜文庫の狭めの店内に入ってきた男女のうち女の方がせつを見て軽く会釈をした。
「ああ。バスで一度」
 せつがそう言うと女は言った。
「峰山です。峰山朋美」
「そうそう朋美さん。エドヒガンの話をしましたよねえ」
「はい」
 男の方がそのやり取りを見ていて朋美にきいた。
「峰山さん、このご婦人とはお知り合いですか」
「ええ。一度バス停桜の話を」
「峰山さん、そちらは」
「日高さん。日高真隆さんです。ますづかさんに行きあわせて、そのまえに散歩でもと」
「この古本屋さん、シックですね」
「こちらご主人の山中真穂さん」
 ロイド眼鏡の真穂が帳場から朋美と真隆に会釈した。
「こちらのようなお店ってなかなか無いんで。ネット書店も増えたし」
「多いでしょうね。店舗を持つと経営が大変ですから」
「そうなんですか」
「貧しいですよぉ、古本屋は」
 真穂はそう言って真顔になった。
 真隆は苦笑いして利己的な遺伝子を手に取りパラパラとページをめくった。
「口語訳の聖書がありますね。あ、家畜人ヤプーだ。筒井がある。丸谷才一も」
「仕入れでハリーポッターシリーズはまだお目にはかかりませんね」
「そうなんですか」
 朋美はイラスト本を手に取っていた。せつはにこにこしていた。
「3時です。みなさんお茶にしませんか」
「いいですねえ」
「ちょっと待っててください。アールグレイがあるんで淹れますね」
 真穂がそう言って2階へと上っていった。
 数分後備前焼のマグカップが4つ盆にのって真穂の手で運ばれてきた。
「この前倉敷に行った時に買ってきたんです。今日が使い初めです」
「ここはまるでカフェアルファ並みの忙しさな時が多くて、今日は特に忙しい方です」
 真穂はそう言って笑った。
「カフェアルファですか」
「カフェアルファ…」
「芦奈野ひとしのマンガですよ、角倉さん」
 真穂たちは少しぼやけた表情のせつを見て顔を見合わせて笑った。
ますづか整骨院の午後の施術は4時からで、その20分前には待合に入ることができる。
 真隆と朋美は桜文庫からますづか整骨院までの5分程の道のりをともに歩いて来院した。
「こんにちは」
 受付嬢がそう笑顔で2人に声をかけた。
「こんにちは」
「今日はご一緒ですか」
「ええ。行きあわせまして。途中に桜文庫でお茶を頂いてきました」
 セミロングのストレートでブラックブラウンの髪を後ろで束ねてナース服を着た受付嬢は美和子という名なのだが、朋美も真隆も美和子にフルネームを知られているのに対し彼らは美和子のフルネームを知らない。ますづか院長の妻だということは通っているうちに知るようになるので、鱒塚美和子という名になるのであろうかと真隆は推測していた。
 ますづか院長の名は事務カウンター正面奥の壁に柔道整復師の免許状が額に入れられて置かれてあるのでそこから北海道鱒塚陽一という本籍地と本名とを知ることができる。
 学位記や免許状は本籍都道府県と氏名が併記される。手塚治虫の医師免許を見ると兵庫県手塚治と併記されている。
 柔道整復師はこの免許状によれば国家資格になることがわかる。
 低周波モーターの振動音と作動音が流れだし、午後の施術がはじまった。
「あの」
 朋美が何か言いたそうな顔でそう真隆に声をかけると、真隆は朋美の方を向いた。
「この後、何かご予定とかお有りですか」
「いいえ。今日は特になにも。夕食も外で摂ろうと思ってましたから、食事して家に帰るだけですけど、何か」
「よろしければ食事、ご一緒しませんか」
 真隆は笑ってうなずいて言った。
「いいですよ。エドヒガンや楠公の話以外のことも話しましょう」
「そうですね。わたしったらエドヒガンのことばっかりでしたものね」
「それじゃ施術の終わった方が待っているということで」
「そうですね」
「日高さん、どうぞ」
「なら私が待つということですね」
「そうなりますね」
 真隆はそう言って診察室に消えていった。朋美はそう返事して待合で新聞を読みはじめた。
「スマトラ島とかスリランカとかプーケット島とか…大変でしたけど。数10万人の犠牲者って」
「津波ですか」
「ええ」
「なんか気分が落ち込みますよね。」
「東北でも2万人ですからね。地震と大津波。その上原発」
 美和子が顔をしかめてそう返事をした。
「整骨院は8時までは開けてるじゃないですか」
 鱒塚陽一は真隆の腰に施術しながらそう言った。
「ええ」
「このあたりのスーパーは大抵8時には閉まっちゃうんですよ」
「そういえばそうですね」
「北花田のジャスコは11時までやってるけど、遠いですかね」
「ダイヤモンドシティのですよね。ああ今はイオンか」
「ええ」
「ちょっと遠いですね」
「越してきたマンションの近くに10時までやってるイズミヤがあるって患者さんが教えてくださったんで一度行ってみようかと」
「まあ、生活していく上で食べ物は大切ですからねえ」
「ホントそうです」
「ここの近くにスーパーありましたよね…あそこは8時までか。でも火曜日は冷凍食品安いんですよ。4割引なんです」
 朋美は美和子がそう言うので言った。
「月イチで5割引なんですよ。あのスーパー」
「そうなんですか」
「そうなんです。わたしもあのスーパーで冷凍食品まとめ買いするのは月一の火曜日にしてるんです。半額ですもの」
「半額は大きいですよね。食べ物では特に」
「そういえば桜文庫の山中さんをこの前の火曜日に見かけました」
 美和子がそう言って笑うと朋美は言った。
「桜文庫で今日お茶をよばれる前に話してたときに真顔で古本屋は貧しい生活だと意を決したようにおっしゃってましたけど、なんか印象的な方ですね、山中さん」
「寡黙な方なんですけどね。この前転んで手首を傷めたとおっしゃって来られましたけど、大丈夫なんでしょうか」
「ノートPCのキーパンチをしておられたから治られたんじゃないんですか」
「そうなんですか。そうですよね」
 美和子は安堵の表情をした。
 朋美は新聞に目をやった。

 せつは葉を落として枝木になった桜木のエドヒガンの脇にある座り石に腰掛けてバスを待っていた。十五少年漂流記をパラパラとめくって時間待ちをしていたところ、横合いから声をかけられたので本を閉じた。
「お出かけですか」
 真穂であった。
「ええ。大仙公園まで」
「お仕事ですか」
「まあまあ、そうですね」
「今日、お店はどうされたんですか」
「不定休にしてるんでお休みです。桜文庫はお天気商売ですから」
「カフェアルファですしね」
 せつと真穂は笑った。
「この桜は丈夫ですねえ。大きな病気をした跡が無いわ」
「木のお医者さんらしい台詞ですね」
 せつはまた笑った。
 そうこうしているうちに堺東行きのバスが来た。
 2人は乗車扉の開くのをたたずんで待ち、扉が開くと流れるように乗り込んだ。
「この冬は暖冬ですってねえ」
「去年の夏は記録的な猛暑でしたからこの春はスギ花粉がすごいでしょうね」
「ですかね」
 真穂は車外の風景を眺めた。
[次は旭ヶ丘]
「それでは、私はここで」
 せつはそう言って降車ボタンを押した。
 バスは履中陵の脇で停まりせつは降りていった。
 整備が始まって30年が過ぎた大仙公園は鬱蒼とした森になっている区画もある大きな
公園であった。
 もともと仁徳陵と履中陵との間の地帯を公園予定地としたため、自然発生的にできていたその地帯のいくつかの集落をまるごと立ち退かせて公園を整備する形となった。
 ブナを何本か診た後、せつはエドヒガンを診にいった。
「いい気脈だわね。原種特有の。これも大丈夫そう」
 樹齢150年ほどのエドヒガンの幹に手を触れてせつはそう独白した。
 
 バス停のエドヒガンが落葉する頃には朋美と真隆はお互いの都合をあわせて一緒に居ることが多くなっていた。
「鳥越主水とときの伝説にはどういう結末があるのですか」
「湊川の戦いの後、桜木の里でふたりは暮らすようになって、娘をもうけたという話だったと思うけれど」
「でも変なの」
「何が」
「知り合ってもう随分になるのに私ったらまだ日高さんに敬語」
「人と人との関わりは様々だから」
 エドヒガンの葉が風に吹かれてはらはらと空に舞った。
「そういえばエドヒガンの寿命は300年から400年。南北朝時代の伝説にも桜木の逢瀬桜という桜が出てくる。ということは今のバス停桜は鳥越主水とときの逢瀬桜の孫ということになる」
 真隆がそう言うと朋美はまじまじとバス停桜を見た。
 朋美はやわらかく笑うと目を細めた。
「桜って長生きね」
「そうだね」
 バス停桜は折からの西風に葉を勢いよく散らせた。
 
 角倉せつと山中真穂が桜文庫で茶を聞いていると、黒トラ猫が真穂にまとわりついてきた。
「この子、妙な子でしてね」
「へえ」
「うちに貰われてきた来た日に縁側から派手に落ちて泥々になって」
「あらまあ」
「慌ててお風呂に連れて行って洗ったときにお風呂って気持ち良いものだと思ったらしくて、それ以来お風呂、好きなんですよ。猫なのに」
 せつは含み笑った。
「飼い猫生活に強いって事でしょうね。岡山県津山市の家猫でそういう風呂好きの猫が居ますね」
 せつがそう言うと真穂は複雑な表情をした。
「ますづかさんへ行くとよく峰山さんと日高さんに会いますよ」
「あのおふたり、逢瀬桜の話とかしたりして。なんだかいい感じ」
 真穂はロイド眼鏡を中指で眉間に戻すと一息ついた。
「十五少年漂流記、読まれましたか」
「結局まだ最後までは。積読になりかけてます。ヴェルヌは手強いですね」
「じゃあ気分転換にシンガポール脱出を読まれますか。手に入ったんです」
「アリステア・マクリーンですか。十五少年漂流記読んでから考えますわ」
 桜文庫の引き戸を引く音がした。
 朋美だった。
「あら、峰山さん。いらっしゃい」
 朋美は軽く会釈した。
「今日は日高さんとご一緒じゃないんですね」
「ええまあ」
「あの方この店に来ると根が生えたみたいになるわよねえ」
「まあ」
「楠公の座り石でバス待ちしてたら立ち上がるのがなんだか惜しい気がします」
 せつは朋美がそう言うのを笑みを浮かべて聞いている。
「バス停桜って鳥越主水とときの逢瀬桜の孫ぐらいになるんですよね」
「そうなりますかね。エドヒガンの寿命からすれば」
「バス停桜、元気が無いみたい。病気かしら」
 せつは朋美の一言で笑顔をなくした。
「まだはっきりとは言えないのですけど、潮風害かも」
「潮風害ってなんですか」
「何年か前に過去最多の上陸回数ぐらいたくさん台風が上陸したでしょ。潮風害は陸に海水の塩分が上がって木とかを枯らすんですけど、それじゃないかと」
「なんともならないんですか」
「一応処置はしたんですが、木の生きる力を信じて待つより他に無いんです」
 朋美はせつの言葉に黙ってうなずいた。
 桜木のバス停桜と呼ばれているエドヒガンは彼岸桜の別名通り彼岸の頃に開花する。潮風害のために立ち枯れる木がちらほら見かけられる中でバス停桜もその害を受けたのか彼岸の頃になるというのに花をつけなかった。
「木の生きる力を信じるしかないわね」

 せつは合間を見てはバス停桜を診に行った。
 バス停桜に行くと必ずといっていいほど朋美が居た。
「元気付けると治るかもしれませんよね」
 朋美はそう言ってバス停桜の幹に手を触れた。
「そうですね。私もやってみようかしら」
 せつはそう言ってバス停桜の幹に手を触れた。
 朋美と並んで幹に手を触れているうちに3台ほどバスが通り過ぎた。
 3台目のバスから真隆が降りてきた。
「何してるんですか」
「バス停桜を励ましてるんです」
 真隆は朋美の返事をきいて黙って2人の横に並び幹に手を触れた。
「励ます人が多い方がバス停桜も嬉しいかもしれませんね」
 せつはそう言って真隆に笑いかけた。
 
 ますづか整骨院の待合で朋美と真隆が言葉を交わさずに黙っていると美和子が声をかけた。
「バス停桜の前でおふたりをよくお見かけしますけど、何なさってるんですか」
「励ましてるんです」
「励ます、ですか」
「木も生きてるから病気になったりするでしょ。看病って励ますこともそうだと思うんですよ。治療とかだけじゃなく」
「バス停桜、まだ花をつけないんですか」
 2人は首を横に振った。
 陽一が朋美を呼び朋美は診察室に入っていった。
「バス停桜を励ましてるんですってね」
 陽一は頸のマッサージしながらそう言った。
「毎日手をあててるんですけど」
 陽一は苦笑いした。
 
 真穂が帳場で売り上げをノートPCに打ち込んでいたら、引き戸が開き真隆が入ってきた。
「山中さん」
 真穂はキーパンチを止めて真隆を見た。
「何か」
「木の病気とかが出てる本とかないですか」
 真穂は考え込んだ。
「ウチは文芸書とかが専門だから多分無いでしょうね」
「そうですか」
「バス停桜のことかしら」
 真隆はうなずいた。
「角倉さんの診立てだと潮風害かもしれないんだってね」
「ええ。朋美はほぼ毎日バス停桜を励ましに行ってます」
「毎日ですか」
「朋美が言うには励ますことも看病だと」
「そうなんですか」
 真穂は眼鏡を押し上げた。

 数日後、朋美と真隆とせつ、そして真穂はバス停桜の様子を見に行った。
 バス停桜はちらほらと咲いていた。
「咲いてる」
「本当だ」
「がんばったんだなあ」
「本当にねえ」
 口々にそう言う4人の顔にも笑顔があふれた。
「乗り切ったみたいね」
 せつはそう言ってバス停桜の幹に手を触れた。
 彼岸桜の下で朋美と真隆は笑いあい、その様をせつと真穂が目を細めながら眺めていた。