空の手を、じっと見つめながら。。。
自分はプロテスタントだけど、リジューの聖テレーズが書いたものが好きで、耽読していた時期がある。ブロマイドとか、集めてたし。
でも、四谷のドンボスコ書店で売ってる聖テレーズの立体像は、さすがに買わなかったなあ。。。だってさ。。。さすがにその一線を越えたら、自分がプロテスタントじゃなくなっちゃう気がして。。。
聖テレーズの霊性(スピリチュアリティ)は、よく「小さな道」という言葉で愛称されるけど、彼女は、まったく何も持たない人に対して、聖人になれる道を大胆に指し示したところが魅力だなあ、と思う。
あの稲垣足穂(タルホさん!)が、やっぱり聖テレーズを耽読してた時期があったらしくて、飛行機大好き、大空を軽々と飛び回りたいメカ好きのタルホさんの「志向性」というのは、なれるものなら自分も聖人になって星空を飛びたいという、魂の潜在的欲求から来てたものなのかもしれない。。。
その聖テレーズの代表的な言葉が、「わたしは空の手で神の前に立つ」だ。
空の手で神の前に立つ、というのは「空手」ではないよ、と、いちおう注意を入れておかないと。。。だって、いまやニューヨークのカルメル会のシスターたちは、重そうな僧服をまとった状態で、護身術に「空手」を練習しなきゃいけないんだから。。。
聖テレーズが言った「空の手」とは、こういう意味だ。。。
自分は、内にも外にも、何も持っていないので、神の前には、ほんとうに何も持たずに出ることしかできない。そういう、心の貧しい者だ。でも、ぜんぜん心配ない。なぜなら、神=イエスさまが、命と信心にかかわるすべてのものを、ぜーんぶ与えてくれるから。。。
だから、空の手で、ひたすら、受け取るだけで、いいんだ。
この大いなる「易行」(いぎょう)は、まったくもって簡単だ。これ以上ないぐらい簡単。だって、自分は、ほんとうに何も無くて、いいんだから。
でも、べつにこれは、聖テレーズが発明した専売特許では、ない。ちゃーんと、新約聖書に書いてあることだ。マルチン・ルターが聖書と格闘して、信仰義認を発見したように、聖テレーズも聖書と格闘して、「小さな道」を発見したのだ。
今日の聖書の言葉。
主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。
ペトロの手紙二 1:3 新共同訳
わたしたちは、みんな神から呼ばれて、永遠の命の道を歩き始めている。
歩きながら、ときどき、不安になる。。。自分は、なにもできていない、なにも持っていない、なにも誇れるものがない、ないないづくしなのに、これでいいのだろうか。。。
そいうわたしたちに、「いいんだよ!」と聖テレーズは言う。さあ、わたしと一緒に、空の手で神の前に立ちましょう。永遠の命と、信心(聖なる者として生きるために自分が変えられていくこと)に必要なものは、ぜーんぶイエスさまが与えてくれるんだから。心配しないで、さあ、空の手を思いっきり開いて、イエスさまにお祈りすれば、いいのよ!
空からバラの花をふりまきながら、聖テレーズは今日もそう呼びかけている。
そうだよね。。。そうだ。。。だから、空っぽの自分を、イエスさまに差し出そう。。。
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