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サイレントヒルが、ぜんぜん、サイレントヒルじゃなかった件。。。

ホラーゲームが原作の「サイレントヒル」という映画がある。自分は怖い映画を見ると夜にトイレに行けなくなるので、観たことないんだけど。。。

観たことないんだけども、その惨劇の舞台となる架空の町「サイレントヒル」がアメリカ・アパラチア山脈のウェストヴァージニアに置かれていることに心が痛むんだ。

なぜウェストヴァージニアなのか? なぜアパラチア山脈なのか?


隔絶された舞台

ホラー映画は社会から隔絶された環境を「舞台」に選ぶことが多い。

スプラッター映画の元祖とされる1977年の「サランドラ」(The Hills Have Eyes)では、砂漠をドライブしていた一行が軍の立ち入り禁止区域に迷い込んで怪人一家に襲われ、孤立無援の中次々と食われていくというストーリーだ。

こんな怪人一家が都会にいたら、ただちに警察、消防、公衆衛生局、連邦捜査局、麻薬タバコ銃取締局、スワット、沿岸警備隊、連邦緊急事態庁、CIA、国家安全保障局、合衆国陸海空軍、宇宙軍が出動して、あらゆる手段を使って鎮圧し社会の秩序を回復することになる。

これでは映画は5分で終わりだ。

なので、悲劇の主人公たちは「南極基地」(宇宙からの物体X)や「外洋航海船」(ザ・グリード)や「恒星間輸送船ノストロモ号」(エイリアン)や「ウェストヴァージニアの森の中」(クライモリ)など、必ず社会から隔絶した場所に居合わせなければならない。

もちろん、通信機は壊れ、電話線は切れ、携帯電話は圏外でなければならない。これらは「お約束」だ。もし信号銃を打ち上げたら、たまたま近傍を通過中の王立第95ライフル連隊が救援にかけつけて、指揮官の号令一下ライフル銃をぶっ放し怪物を殲滅した。。。というのでは、やっぱり映画は5分で終わりだもん。

問題は、5分で終わる話を1時間20分に引き伸ばすため、アメリカのホラー映画の系譜にアパラチア山脈を「社会から隔絶した惨劇の舞台」に選ぶという「サブカルチャー」が存在することだ。

なるほど、南極基地や外洋航海船や恒星間輸送船といった大道具にお金がかかる設定を避けて、少ない資金で撮影したいのであれば、「森の中」は手っ取り早い。でも、普通の森では駄目なのであって、いかにも奇人変人が棲んでいそうな「イメージ」を持って見られる森でなくてはならない。

そうなると引っ張り出されるのがアパラチア山脈なのだ。

アパラチア文化

山岳地帯で囲まれたアパラチアは、アングロサクソンから遅れて米国に移民して来たスコットランド人やドイツ人やアイルランド人が、すでにアングロサクソンで占拠されている大西洋沿岸の平らな地域を通り抜けて内陸へ前進し、行く手を阻む山々にわけ行って、そちらの峰ここかしこの谷に散在し、小集落を築き、定住した場所だ。

悪路が連なる厳しい土地だから「陸の孤島」と化すことしばし。このため、外の世界が変化しても、アパラチアには18世紀の移民文化がタイムカプセルみたいに温存されて「アパラチア文化」と呼ばれるようになったんだ。

下界の「進歩」した住人たちは山の住人たちを「ヒルビリー」とか「オザーク」とか呼んで奇異の目を向けた。下界と山上と何が違うかと言えば、下界はその後の社会の発展によってインフラストラクチャーが整備され、電気・水道・ガス・テレビ・教育・経済・保健・衛生・警察の常備常在が「あたりまえ」となったのに対して、山上では、自分で採集し・自分で食べ・自分で作り・自分で消費し・自分で癒し・自分で守るという18世紀移民社会当時の「あたりまえ」を長らく続けていたのだ。

アメリカの「下界」では1950年代に高度資本主義化が急激に進行した。その結果、下界と山上のコントラストが映画やテレビの世界で面白おかしく強調されるようになり、「麦わら帽子をかぶり、コーンパイプをくゆらせ、ぼろぼろの服を着て、歯が抜けて前歯が二本しかなく、裸足で歩く」という「奇人変人としてのヒルビリー像」が作り出されて行った。

ほどなく、下界の若者たちは高度資本主義による「人間の画一化」にプロテストして、1960年代になると画一社会に対抗する「カウンターカルチャー」の波を引き起こした。70年代になると既成の倫理や道徳を批判する手段として数多くの実験的映画が製作された。その中から「スターウォーズ」や「地獄の黙示録」のような大作が生まれたんだけど、同時に「サランドラ」「悪魔のいけにえ」「ローズマリーの赤ちゃん」のようなホラー映画も作られたんだ。

そして、小額予算で恐怖を演出したい・既成の倫理をぶっ壊したい・どんな実験的手法も厭わない・若い映画人が「森の怪人」として使い出したのが「奇人変人としてのヒルビリー像」だった。

商品化されるヒルビリー

高度資本主義・高度消費社会においては下界の住人はつねに「新奇な商品」「新奇な刺激」を求めて消費したがる。高度消費社会においては「消費することだけが実存」(生きる実感を与えてくれる行為)だからだ。こうして、ホラー映画は新奇を求める需要に応えるかたちでマーケットを確立し、新商品の企画と開発の中で「奇人変人としてのヒルビリー像」が再生産され強化されて行くことになる。

さらに影響したのは、高度資本主義・高度消費社会が、利潤の追求のために資本の投下を都市部に集中したことだ。高速道路と巨大ショッピングセンターを建設して都市住人向けの商品を大量販売することが、利潤を得る直近の方法だったから。あちらの谷こちらの峰に5人10人と住んでいる「山の民」にコップだのショベルだの髭剃りだのタバコだのをちょぼちょぼ訪問販売していたのではらちが明かない。

こうして、アパラチアは高度資本主義の大規模資本投下の恩恵に与かれない、不作が貧困に直結する状況が続いた。

下界が山上に抱くイメージは伝説となり、伝説は神話となり、神話は高度消費社会の手で「商品化」されて、アパラチアの住人が小説でも映画でもビデオゲームでも、下界から割り振られた役回りを演じさせられることとなって。。。映画「サイレントヒル」も、まあ、そのひとつだよね。。。

そういうアパラチアでクリスチャンたちは何をしてたんだろう?

今日の聖書の言葉。

見よ、わたしを救われる神。 わたしは信頼して、恐れない。 主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった
イザヤ書 12:2 新共同訳

アパラチア山中、ノースカロライナ州ヘイウッド郡ハリケーンクリークにセシル・ブラウンという女性がいた。

彼女は1929年に救世軍(キリスト教会)の士官(伝道者)になってアパラチア山脈で活動し、「アパラチアの羊飼い」と言われた人だ。

”アパラチアの羊飼い”

山に生まれ育った彼女は、学校へ行くことが出来ず、母は下宿人に家賃を免除する代わりに娘の家庭教師になってもらうことで、高校程度まで勉強させた。だからセシル・ブラウンは学校を出ていなかったんだ。

15歳となった娘を母は親戚が住む町アッシュヴィルに送り出した。それは、食い扶持を減らして苦しい家計を助けるためだった。セシルはカタログの通信販売で8ドルで取り寄せたドレスを着て山を下りアッシュヴィルにたどりついた。

すぐ彼女は安雑貨店に仕事口を見つけた。山育ちの少女なら足腰が強くて何時間でもレジに立っていられるから、安い賃金に比べて割が良いだろうと店主が思ったからだ。

30分の昼食休みに外に出ると、セシルは救世軍の制服を着た若い男に出会って集会に誘われた。それは彼女にとって初めて見る救世軍だった。

1924年10月、救世軍の小隊(教会)の伝道集会に出席したセシルは、格好いい制服、単純素朴な救世軍人、快活な信仰にすっかり魅了されてしまい、それ以来かかさず集会に出席し活動に参加した。

心の生まれ変わりを経験したセシルは、翌年の春に入隊式を挙げて救世軍の兵士(正会員)になり、貯めていたお金で制服を買って誇りをもって袖を通した。その直後に試練が訪れた。彼女のあまりの伝道熱心が安雑貨店の店主を不快にさせていたのだ。ある日、救世軍の友人に一緒に野戦(路傍伝道)に立ってくれと頼まれたセシルは、そのために夜の店番を断った。怒った店主は即刻彼女をクビにした。

一生懸命次の仕事を探したものの見つからなかったセシルは、とうとう山に帰ることを決めた。山に帰ったらもう二度と下界に降りることはないだろう、そして、もう二度とこの目で救世軍を見ることもないだろう。。。それが悲しいセシルの心だった。というのは、都市伝道団体である救世軍は、山間の僻地に伝道の手を及ぼしていなかったし、今後も救世軍が山に登ることはないだろうと思われたからだ。

送別会の日曜日、とうとう小隊長(牧師)はセシルに声をかけた。「非公式だけど小隊で助手として働いてみる気はないかい?」

ここから、セシルの人生は大きく転じた。

生涯を神に献げる決意を固めたセシルは、1928年に士官学校(神学校)に入校し、訓練を経て翌年、救世軍の士官(伝道者)に任官された。セシルは士官学校教官や各地の小隊長を経験したのち、1934年に山岳伝道班の一員に加わるよう命じられた。山岳伝道班は最初三か月の試験的伝道を予定していたに過ぎなかったんだけど、セシルは1956年に病気で引退するまでアパラチアの山奥に22年に渡って留まり続け、あちらの谷こちらの峰に救世軍の支部を開設して伝道に励んだ。

セシル・ブラウン大尉がアパラチアで救世軍の赤青黄の旗を最初に掲げたのは、生まれ故郷のウェインズビル地区だった。手始めに壊れたトレーラーハウスを入手して、そこを礼拝所に定め、馬に乗って毎日訪問伝道に出かけた。自分の家族を救世軍流に訓練して伝道の手伝いをさせた。また、福音を説教するだけでなく、隣人への愛を実行した。出産を助け、新生児に湯浴みさせ、子どもたちを保護し、夫婦喧嘩の仲裁に入り、学校を開いて勉強を教えた。セシルの兄弟たちが手作りで小屋を建ててくれたので、山の子どもたちが学校に行けない冬期には子どもたちをそこに住まわせて勉強を教えた。

山の音楽祭

セシル・ブラウン大尉の働きの結果、山男たちが大勢集まる「音楽祭」が始められ、それは毎年恒例の行事になっていった。彼女が引退する1956年の「音楽祭」にはアパラチア山脈のあちこちから三千人の山男が集まり、ゴスペルを歌い、礼拝をささげた。マックスパッチ、シェルトンローレル、ボニーヒル、リトルクリーク、スリーピーヴァレー、ティンバーリッジに救世軍の支部が開設され、やがて訪問伝道の手段は馬からジープへ、ステーションワゴンへ、乗用車へと変わって行った。

セシル・ブラウン大尉は山の住人たちから「アパラチアの羊飼い」(The Shepherdess of the Hills)と呼ばれて親しまれ、救世軍の最高栄誉である「創立者章」を授与されるに至った。その時、ある作家がセシルの伝記を書きたいと申し出たんだけれど、彼女は愛するアパラチアの人々が曲げて伝えられることを恐れて丁重に断った。

いまのホラー映画監督が、アパラチアを怪人の棲む森としか見ていないとしたら、セシル・ブラウンは涙するにちがいない。下界の人々が気にも留めなかったアパラチアの音楽文化に彼女は目を留め、心を注いで山男たちの「音楽祭」の開催に力を尽くした。18世紀の移民文化が温存されて来たアパラチアでは、アイリッシュフォーク(ケルト系の音楽)をベースにした独特のフォークソングが形成され、あちらの谷こちらの峰での悲劇的事件や喜劇的事件を題材にした歌謡が伝承されていた。この「ヒルビリーの音楽」(ブルーグラス)は「カントリーミュージック」の祖形となったし、さらにエルヴィス・プレスリーが黒人のゴスペルに影響されて始めた「ロックンロール」と合体して、新たな音楽ジャンルを生み出した。ロックとヒルビリーが融合した「ロカビリー」だ。

主こそわたしの力、わたしの歌
わたしの救いとなってくださった

歴史を振り返れば「サイレントヒル」という町は、ちっともサイレントでなかったことがわかる。なぜならアパラチアでは昔もいまも、神を賛美し、人生の悲喜を歌う、ヒルビリーたちの歌声が、あちらの谷にもこちらの峰にも響き続けているからだ *。

註)
* 参考文献:Sallie Chesham, Born to Battle, The Salvation Army in America, Rand McNally & Co., 1965, p.210.

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