亜米利加レコード買い付け旅日記 3
買い付け中に突然の病気に倒れ、救急車で運ばれ入院したことがある。退院時に手渡された書類を持って、帰国してからかかりつけの医者に見てもらうと、ひどく顔色が曇ったところをみると、決して笑い事ではなかったのだろう。
ボクの方から救急車を頼んだのだから、実は運ばれたという表現は適当ではない。モーテル近くのモールにあるローストビーフ・サンドイッチの店、アービーズで朝食をとっているうちに、急に体調が悪くなった。ベンチに横になり、一緒に旅をしていた阿部君に、救急車を呼ぶように頼んだ。まるでプロレスラーのような体格をしたガードマンが、店にやってくる。しばらくして遠くから救急車のサイレンの響きが近づいてきて、隊員がストレッチャーを押しながら店に入ってくる気配がする。アービーズの中年の女性店長が、ボクが食べていたものを説明し始める。ああ、悪いことをしたなあと思う。体調が悪くなったのは、食べ物のせいではないし、ましてや彼女のせいでもない。呼吸が充分に出来無くて息苦しくなり、そのうちに頭から血の気が引くように、すっと気が遠くなったのだ。
ベットに寝たまま救急車に乗せてもらう。サイレンを鳴らしながら救急車が走り出すや、この街にかかりつけの医者があるかなど、阿部君が質問を受け、それに答えている声がぼんやりと聞こえる。そのうちに隊員が無線電話を使って、なにやら会話を始めた。おそらく予定の病院と連絡をとり、その指示を受けているのだろう。腕に血圧計の帯がまかれる。測定が終わると、彼はものすごく深い声で「Oh, Jesus」と繰り返しつぶやいた。この言葉の意味することくらいはわかる。ひどく暗い気持ちになった。
到着した病院は、高層建築の立派な建物だった。地下の車廻しでストレッチャーがおろされ、そのまま救急患者用の診察室に入れられ、医師の診察を受ける。どうもそのときは、血圧が異常に高かったようだ。高血圧については自覚がなかったので、たぶん呼吸器系の発作ではないかと説明したのだが、繰り返しの検査が行われた結果、いずれにしても血圧を平常値にすることで体調が戻るとの診断が下された。
中層階の病室の二人部屋のベットで休むことになった。部屋には太陽がさんさんと降り注いでいる。担当の看護婦に紹介された。彼女の名前はペギー・ポーラックといった。小柄ではっきりと大きな声で話し、生き生きと動き回る非常に闊達な中年女性だった。
さあ、もう、心配しなくてもいいわよ。どう、なにか飲む ?コーラがいい、それともセブン・アップ?えっ、まさかと思いながら、じゃあ、ダイエット・コークを欲しいと言うと、100ccほどの小振りの缶が手渡された。緊張の時間が続いたあと、数時間ぶりに口にするコーラは、それはそれは美味しかった。なるほど、アメリカではコーラは病室でも飲まれているのかと、ちょっとびっくりしながらだったけれど。
結局のところ一晩をそのベットで過ごした。阿部君は、付き添いの人たちに用意された病院付属の簡単な宿泊施設に泊まった。夜中にも何回か苦しい思いになって、看護婦を呼んだ。宿直の看護婦は、のっしのっしと歩く大柄な黒人女性で、医師の診断を根拠にボクの訴えにはまともに取り合ってくれなかった。翌日の午前中にペギーから処方箋を手渡され、塩分をとりすぎないようとの注意を繰り返し受け、タクシーでモーテルに帰った。処方箋はモーテルのフロントに近くの薬局を教えてもらって、薬を出してもらうようにと、これもペギーから助言を受けた。
それで具合がよくなったかというと、残念ながら体調は快方には向かわず、夕方になってまたひどく息苦しくなった。阿部君に頼んで、タクシーを呼んでもらう。再び病院に向かい、救急患者の窓口で阿部君に昨日からの経緯を説明してもらい、いまいちど救急患者用の診察室に入れてもらった。
こんどの診断は、気管支系の発作だということになった。診断をしたのは、昨日とは別の内科医だった。頓服薬が静脈注射され、またたくうちに呼吸が楽になった。処置してくれたスタッフは、全員が学校を卒業したてのホヤホヤの女性看護婦たち、しかもボクが栄えある最初の患者ということで、酸素吸入マスク姿のボクを中心に全員で記念撮影をした。その後になんと昨日と同じ病室に通され、そして前日に病歴を書き取った看護士がやってきた。ボクが話し始めようとすると、そっと唇に指を当て、アービーズで朝食中に発病したんだよなと、親しみ込もった含み笑いをしながら、今一度ノートに記録を取った。
看護婦のペギーもやって来る。どうも事情をわかっているらしい。昨日診断した医者について手厳しく評し、彼ったらしょぼんとしてたわよ、たぶんこの部屋に入れないわねと言う。そうそう、そういえば処方箋はどうしたの?ちゃんと薬局に持っていったの?薬は飲んだの?と聞かれる。モーテルで近くの薬局を教えてくれって頼んだんだけれど、そんなことは自分で調べろって言われ、教えてもらえなかったんだ。何だって、どこのモーテルなの、ひどいわねと、彼女は義憤にかられた口調で口をとがらした。でもね、今日の診断が正しいんだから、さあ、もう楽になるからと、ボクの肩を軽く叩いた。
繰り返しいろんなスタッフがやってくる。朝昼夜の食事の好みを細かくチェックして書き込むシートをもって来て、さぁ、食事のメニューはどうしようか?なにかアレルギーはある?パスタは好き?と聞く食事担当の女性スタッフ。それが終わると、今度はパスポートを元に個人情報を記入する係。一段落したところで、いまいちど精密な検査することになり、ストレッチャーに乗せられたボクは、検査着に着替えレントゲン室やらCTスキャンやら様々な部屋を回り、数時間ほどしてまた部屋に戻った。
阿部君は、今晩こそモーテルに戻って寝ることになった。ペギーがタクシーを呼んであげるから、地下の車廻しで待つようにと言う。もうたぶん夜の10時近かった頃のことだ。薬が効いてきて、身体もだいぶ楽になってきたボクは、今度はすぐに眠りについた。
深夜に隣のベットに急患が担ぎ込まれてきた。立派な体躯の大柄の男性で、Shit!と小声で繰り返しながら、荒い息づかいで苦しんでいる。繰り返し、ShitとJesusとつぶやいている声が聞こえる。しばらくして医師がやってきて注射をすると、またたくうちに息づかいが落ち着いてくる。ああ、なんて強い薬なんだろう、こんなに強い薬を使わないでなどと医師に訴えかけている。付き添いの家族がなにやらなだめているうちに、彼の静かな寝息が聞こえてくる。ボクも気づかないうちに、また眠りについていた。
翌朝の朝食は、それはそれは美味しかった。サワークリームが乗せられたパンケーキ2枚に、たっぷりのメイプル・シロップとオレンジ・ジュース。ミルクとシリアル。フルーツの盛り合わせに、カフェインレスのコーヒー。なにしろ食器はプラスチックじゃない。隣の男性のところには、家族が勢揃いして快方に向かっている事を喜び、なごやかに語り合っている。「これ、朝ご飯?まるでダイエット・メニューだね」という声がする。なんだって?ボクはもうこれ以上は無理なほど、おなかがいっぱいだというのに。
病院にはこれで3日目だ。明後日には、次の街に早朝から飛行機を乗り継いで移動しなければならない。なんとか今日中に退院したいと思い、ペギーに相談する。そうそう、あとしばらくしたら日本語の話せる女性の医師がくるから、彼女とよく話すといいわよ。
向かいの部屋から、なにやら大声がする。ペギーが大急ぎで走り込んでいく。ドラッグ中毒のため入退院を繰り返す患者がいまいちど入院してきたらしく、仁王立ちのペギーが患者に向かって、厳しい声で話しかけている。どうやらペギーはこのフロアーのボスのようだ。いまあなたが発症している症状の改善については、スタッフは努力をする。しかしそこまでしか責任を持てないと、患者に説明している。本質的な問題がどこにあるのか、あなたはもう充分にわかっているでしょ!そして周囲のスタッフにも大声で指示を与える。彼から出された要求について、我々の義務を超えるものについては、応える必要はない。病状が改善したら、彼は今日にでも退院するのだから。
ドラッグ中毒患者には、アメリカの各州にそれなりの専門の施設が用意されている。ゆっくりと時間をかけてドラッグからの離脱をするための施設もある。そうした施設に入りたくないので、彼はこの病院に急患を装って入院してきたのだろう。ペギーの対応は、それは堂々たるものだった。
日本語を話すことが出来る医者として紹介された彼女は、確かに日本での病院勤務の経験を持ってはいたけれど、それは半年にも満たない期間だったとかで、ほんの片言の日本語しか覚えていなかった。とはいえ彼女は日本人についての理解を持っているようで、つたない英語で話しかけるボクの言いたいことを汲み取ってくれた。そして今日中に退院できるように段取りをしてみようということになった。助かった、これで次の街に移動できるし、飛行機のチケットも無駄にならない。
ペギーがいまいちど処方箋を持って、病室にやってくる。繰り返し薬の飲み方を指導される。そのうちに彼女は昨日の薬局を巡るぼくらの顛末を思い出したらしく、適当なドラッグストアを見つけてあげるといいながら、病院からモーテルまでの帰り道のルートを調べ、その途中にある薬局を選び出した。繰り返しオフィスと病室の間を行き来する。そうだ、あなたが行く前にドラッグストアに電話をしておいた方がいいわね。どの薬を用意しておいた方がいいか、事前に連絡しておけば、あなたはタクシーを降りて、窓口ですぐに薬がもらえる。ペギーは部下の看護婦を呼んで、電話をするように指示を出した。そしてまた一連の段取りを紙に書き始める。これはあなた用よ。そうそう、タクシーのドライバー用にも、メモを用意するわね。ドラッグストアで薬をもらう間も、タクシーは待たせておくのよ。あなた一人ですものね。そうするうちにふと阿部君の不在に気づいたらしく、あら、あなたの友人はどうしたの?と聞いた。
モーテルに電話を入れると、彼はまだベットに寝ていた。なにしろ呼んでもらったタクシーが病院に来たのは、朝の6時近かったということだった。ベットに入って、まだ3時間と経っていないという。
阿部君から聞いた顛末を彼女に説明する。なんてことなのだろう、彼は8 時間近くも、夜が明けるまで地下でタクシーの到着を待っていたんだよ。だからまだモーテルに居るんだ。すると彼女は、心底から驚いた顔をした。どうしたのいったい? 何だって? タクシーを8時間も待っていたなんて。ペギーは続けた。もしかして私はずっと思っていたんだけれど、彼は英語が分からないんじゃないの? その瞬間にボクの中でなにかがプチンと切れた。
冗談じゃない、彼は典型的な日本人だ。彼はあなたの言うことのすべてが分かっている。その上で彼なりに判断をして行動している。あなたは彼に地下で車を待てと伝えたじゃないか。確かに彼は、必要以上の自己主張をしない。しかし彼はあなたの言いつけをその通りに守ったんだ。彼はあなたの言ったことを充分に理解していたんだよ。よく覚えておいて欲しい、彼こそが典型的な日本人なんだ。
驚いた彼女は、事実の経過を調べにオフィスに戻った。そして昨晩、街で大きなイベントがあったこと、小さなこの街のタクシーというタクシーが出払っていたこと、そして病院は確かにタクシー会社に連絡していたことを確認した。その上で地下の車廻しの担当者に、もっと心配りがあったら、こんなことは起きなかった事を知った。担当者は深夜は2時間ごとに交代する。その交代時に、阿部君がタクシーを待っていることを、きちんと次の担当者に言い伝えること、そしてその担当者が気を利かせてタクシー会社に電話の1本をすれば、朝の6時まで阿部君がタクシーを待つ必要はなかったのかもしれない。
「いったい、いつからこんな国になってしまったの、アメリカは!」。ペギーは大きな声で叫びながら廊下を歩いて、病室に帰ってくる。「薬局の一つも教えてあげないモーテルに、心細い日本人にタクシーを8時間も待たせて平気な病院!いつからアメリカはこんな国になってしまったのよ!」
車いすが病室に届けられる。地下までボクが移動するための車いすだ。隣のベットの患者氏が、微笑みながらボクに声をかける。ほら、君のタクシーだよ。
ペギーがボクの目をくっきりと見つめる。そしてベッドから立ち上がったボクを強く抱きしめる。「あなたはジェントルマンよ。あなたはジェントルマンだわ」。それも思いがけないほど強く、両手をいっぱいに廻して。思わずボクは涙ぐむ。胸がいっぱいになる。
アシスタントの女性に車いすを押してもらいながら、地下のタクシー乗り場に向かった。運転手さんに渡すようにとペギーが書いてくれた指示に従って、タクシーは走り出した。ドラッグストアでは、きちんと薬が用意されていた。モーテルでは阿部君が、ボクを待っていた。
このとき初めてボクはアメリカで女性に抱きしめられ、泣いた。そしてこのとき以来、その両方とも、まだアメリカでは経験していない。