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講演資料(2011年頃)

2011年ころに講演したときのパワポである。テーマは本の読み方なんだけど、前段の自己紹介が長い。さらに後段では本に全く関係がない運鈍根だのについて語っている。きっと聴衆はわけが分からなかったであろう。知ったことではない。いつでもオレ流なのだ。

2011講演note.pdf from HONZ3

講演内容をまとめてみよう。

聡明そうに見える子供だった(はずだ)が、小学校ではまともに座っていることができないので授業中でもウロウロしていた。札幌市教育委員会に母親と呼ばれ、危うく施設に入れられるところだった。いまでいう強度のADHDだったのだ。当時は病気である。

なぜか1955年生まれにスゴイ実績を残した人が多い。麻原彰晃までいる始末だ。会ったことがあるのはビル・ゲイツとスティーブ・ジョブスと田中裕子だけだ。田中裕子は高校で同級生だった。

1980年(25歳)、ボクが入社したときのマイクロソフトは全世界社員40人程度のソフトハウスだった。タイピング練習ソフトやスポーツゲームを作っていた。じつはマイクロソフトへの転職前はUNIX4.2BSDをやっていたので、サンマイクロシステムを創業したビル・ジョイのほうが仲良かったのだ。PDP-11と比べるとパソコンのなんとゴミなことよ。転職は失敗したと思った。ちなみにUNIXの先輩である深瀬さんは鈴木さんとIIJを創業した。

1981年(26歳)、MS-DOSを売り出した。NECがPC-9801に採用し、他の日本メーカーも海外OEMしはじめたため、日本マイクロソフトは絶好調になった。六本木のスナックでNECの幹部たちとサザンを歌っている。このころは顧客から奢られる側である。PCベンダーはMS-DOSやWindowsの次バージョンの情報が得られなければ競争に勝てないからだ。とはいえ完全ナカーマであり、完全昭和である。

1991年(36歳)、入社から10年後、社員は9000名近くになる。10年前8億円(面倒なんで1ドル100円として)だった売上は1800億円になっている。ボクは日本マイクロソフトの社長になった。そのお祝いに5年もののストック・オプションを売って、中古の小型ベンツを買った。300万円くらいだった。もしそのストック・オプションを売らないで、2000年まで持っていたら、10億円にはなっていたはずだ。いまでも夢にみるほど悔しい。

このころ後に競合相手となるGAFAが生まれている。ジョブス復帰後のApple救済のためにマイクロソフトがApple株式を引き受けたころだ。あの時に株式を引き受けなければ、いまのボクの目の前のiPhoneもMacBookもなかったかもしれない。めでたしめでたし。

1995年(40歳)、Windows95が出る。24時間働けますか状態なのだが、24時間遊べますか状態でもあった。1日が48時間だったころだ。映画タイタニックは1997年。42歳のころはスーツを脱いできぐるみを着ていた。

1999年(44歳)、ついに社員は3万人を超える。ボクは完全に飽きている。もうね大企業特有のなにやらかにやらの管理業務が増えてきて、ばかやろう!社長なんてやってられるかであった。ビル・ゲイツと新製品発表会に出ていても、彼の話など聞いていない。

2000年(45歳)、マイクロソフトを退社してインスパイアを創業した。それからたった2年でFF11にハマって会社には行かなくなった。100%オーナー企業なのに、会社がなにをやってるのか知らない頃だ。現社長の高槻君がいなければ100%倒産していた。その高槻君はボクと連絡をとりたくてFF11に黒魔道士として現れた。白魔道士のボクは次の株主総会についてクフィムの町でチャットしていた。

2011年(56歳)、ユーグレナ株式をホリエモンから引き取った。その後IPOで株価は大化けしたのだが、同時にインスパイアが新卒で採用した永田君を取られた。いま彼はユーグレナのCEOである。いまでもたまに会っては泥酔するまで一緒に飲んでいる。わけがわからん。


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