家族の想い
過去に障がい者児の相談支援や生活支援をしてきた中で、家族の想いを無視して支援はできません。
言葉では分かっているつもりだけど、なんだか歯がゆくなったり、無理難題で頭を抱えてしまうこともあります。
守りたい
家族の役割としての想いが強い。子供のことだったら、親は守りたいと言うのは分かります。ただ、成人の利用者に対して「守る」とは、何から守るんだろうか。他人からなのか、社会からなのか、他の何かからなのか。だとしたら、「守る」ことの先には、本人は守られることで、絶対安心な「檻」に入っているのと同じみたいだ。
家族は、本人を守ることだけが役割ではないはずなのに、それでいいと思っているのか。
本人のやりたいようにしてほしい
本人の可能性を信じている。その一方で、本人へのあきらめみたいなものを感じるときがある。家族では、本人を止めることはできず、落ち着くまでやっていけば、「落ち着くだろう」もしくは「夢中になってくれる」と思っているかもしれない。
本人の希望は、把握しているつもりだけど、あまり話を聞いていないかもしれない。
心配だけど・・・
家族としては、関わりを持ちたいけれど、手を出すと本人が嫌がることがあり、関われない。そして、心配することで、家族としての愛情であり、責任を果たそうとする。そして、心配しすぎるあまり、余計に距離を取られることもある。
面と向かって話をしてほしい
どちらがどうという訳ではないが、相手を避けている。知的障がい者では、なかなか目を合わせての会話は難しいかもしれないが、「もしかしたら、ちゃんと目を見て話せば分かるかもしれない」と思っている。
ただ、話をしたから状況が良くなったのかと言えば、そこは本人や家族の心構えや覚悟があらわれてくると思う。
怖い
過去に暴力、手が出てしまうことがあることがあったので、そこを考えてしまい、本人に口を出すことができない。そうすると、自分が関われない分、事業所や相談員に過度に頼ってしまうことがあると思う。
逆に、本人も家族を怖いと思っていて言いたいことを言えない。そうしているうちに、お互いに「何を考えているか分からない」ことになってしまう気がしています。
顔も見たくない
そう思っているのは、本人・家族であって、「何を言われるか分からない」ことが避けていることにつながっている。でも、愛情の裏返しで避けている・・・のか。また、距離を置くことで、お互いの心の安定を保っているかもしれない。
本人もできるはずだ
家族が本人に厳しく接しているのと同じく、事業所や相談員にも厳しく接している。本人は何でそんなに厳しくするのか理解できていないから混乱し、パニック、不穏になる。家族も何で本人が不穏やパニックになるのか分からないから、ますます厳しくなる。
また「できる」と思うことで、家族(や事業所)がしてきたことが間違っていなかったと思おうとしている。そして、ひっそりとプレッシャーを与えている。(もしかしたら、お互いに?)
支援をするうえで
相談員▪支援員としては、「本人の意向」を優先する。だけど、金銭が絡んできたり、申請に関わることになると、家族にも確認をとりながら進めることが多い。
また、家族がどれだけ協力的でも、支援にも限界があり、そして、制度にも限界がある。そのことを伝えているつもりだけど、自分と家族のことで頭がいっぱいだから、相談員・支援員に言うしかない。
また、「家族だから分かること」と「家族だから分からないこと」がある。家での様子と、支援員が知る様子が同じということはない。そして、支援する中で「分かってほしいこと」を伝えるときに「何も分かっていないこと」に気付く時もある。
でもね。
「家族であること」で追いつめてはいけない。例え、子供でも、大人でも自分でできる事には一生懸命だから。何かを感じ取りながら、日々成長していくものだよね。
家族って大変だよね。
うーん、考えれば考えるほど、奥が深くて、自分を追い詰めるようだ。
別の記事でもまた書きます・・・。
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