戦中を聴く
私はどうにも実祖母は嫌いだったが、その妹に当たる人は叔母さんと呼んで慕っていた。
彼女は看護師で、長崎の原爆投下当時は実家の諫早から例の光と雲を見て、翌日には現場に駆けつけて仕事をしていたそうだ。
そこまでの交通手段は市街地に近付くと完全にストップしている。歩くしかない。暑い中で行くのに苦労したそうだ。
その時被曝した。
現場は凄惨だった、と一言語ってくれた。そして、必死だったから…と言葉を濁す。子供に話すことではないと思ったのか、はたまた思い出すのが辛かったのかは遂に判然としない。
叔母は幸か不幸か、急性の癌や白血病は免れたものの、肺の弱い家系なだけに肺がやられた。それでも入退院を繰り返しながら定年までしっかり看護師を務めあげた。気持ちの強い人なのだ。
晩年は酸素ボンベが手放せず、重い酸素ボンベを引っ張って体力維持のために施設内の長い廊下を歩くトレーニングをしていた事を思い出す。
ボンベが必要なのか疑わしい程に足取りは早かった。
叔母には伴侶も子供も居なかった。
飾り箪笥のガラスの向こう側に海軍の軍服を着た若い男性の古びた写真が飾ってあった。後に父に聞いたら、恋人だか許嫁だかの写真だという。戦争で亡くなったそうだ。
戦後に新たな恋人もできたそうだが、一緒になることは出来なかったらしいと、これも後に母に聞いた。
なので、叔母は可愛がっていた我が父や父の従兄弟と交流を持ちながら、長く独りで暮らした。
戦時中の話しならば祖父母に聞けば良いと思う方もあるだろう。
しかし、祖父は生まれ育った台湾に居て、苦労はしたものの、激戦地の話も悲惨な話も特に持たない様子で、台湾人に可愛がってもらったと聞いた。中国語(おそらく台湾語だろう)も少し教わって、今でも数字は言えると子供の私に教えてくれた。
祖母とは話さないので知らない。誰からも逸話が漏れ聞こえなかった。おそらく、実家の諫早に居て特に逸話も無いのだろう。
そうして今は皆、墓の中に居る。
知りたくても、聴きたくてももう叶わない。
聴く機会があるならば聴いた方がいい。
直接聴ける機会はすぐに失われてしまうから。
忘れてはいけない。
だが、いつまでも悲惨さを反芻して立ち止まる訳にもいかないとも思う。
何があったのかを知った上で、何がいけなかったのかを反省してそれをバネに前に進んだ先人達の思いを受け継ごう。