教育勅語

結論から言うと、悪いのは”教育勅語”ではなく、それを悪用して自分の主張を通そうとしてる人。

わたしは大事なのは、”誰が言ってるか”ではなく、”何を言っているか”。そう教わりました。

教育勅語の”万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ”=戦争として、戦前に多くの国民を死に追いやった原因と言ってる人がいる。
でも、危急の大事は戦争だけじゃない。
日本の場合、最も身近なのは災害。
近年立て続けに発生する、大雨土砂災害や、大地震に伴う被害は、まるで爆撃された後の様な凄まじい姿を我々に見せつけてくる。
その時に、生き延びた人達に手を差し伸べて、公に何が出来るか考えて行動する事は、決して悪い事ではないし、本当に敵が攻めて来たならば、当然、自分や家族が属している国家という組織を守る行動をしなければならない。
時局大局を見ずとも、国家元首として、当然の事を言ってるに過ぎない。

そして教育勅語には、先人が作り育てた美風を守り、慈愛をもった善良有意な人となるようにとも書かれてる。

否定されるべきは、”教育勅語”の存在や内容ではなく、これを悪用し、気随気儘で身勝手な主張をする人物。

では気随気儘で身勝手な主張とは何か。

現代にある全ては、先人達の積み重ねによって与えられたものであり、まだ見ぬ子孫達の世代へと譲り渡す事が決まっている。
上記は、教育勅語を読んだならば、当然理解できる内容であり、これに反する行為こそが、気随気儘で身勝手な主張だとわたしは思い、嫌悪する。

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