スカスカの弁当箱、パンパンの自分
最近、会社に弁当を持参するようになった。
一人暮らしを始めたばかりの頃は張り切って作っていたが、残業が続く間にコンビニ飯に戻ってしまっていた。
一度やめてしまったものをもう一度始めるのは難しい。朝起きる時間は日に日に遅くなっていて、始業数分前に会社に駆け込む生活が続いている。弁当づくりにかける時間なんて到底見つからない。
「なんでもいいから持っていく」の意識に切り替えた。
お弁当箱を埋められるほどの食料がないときも多くあるが、
タッパーに白米を入れて、賞味期限切れのふりかけをかけるだけ。
白米の隣に、ちぎった魚肉ソーセージを詰めるだけ。
そういう、弁当と呼んでいいのか怪しいものでも用意できたら満点と思うようにしている。
前は、やる気のあるときにおかずを4人前程作り、1食分ずつ小分けにして冷凍していた。
またそのストックを作りたい気持ちは大いにあるのだが、面倒である。
何を作るか考えることも、料理自体も、その後の洗い物、小分けにして冷凍する行為も、全部面倒だ。
あと、基本的に冷凍すれば無限だと思っている節があるが、
実際3ヶ月ぐらい凍ったままのおかずを解凍したとき、「本当か?」と思う自分を否定できない。
はよ食え、ということに尽きるけれども。
生きているだけで、ずっと何かに急かされている気がする。
頭を休めることの重要性については度々いろんなところで言われている。私はきっと休められてない側の人間だ。
心が動くものに向き合うことが少し億劫だ。
ストーリーがあるゲーム、映画、アニメ、本。
好きなもの、見たいものがいくつもあるのに、何に対しても動き出せない自分がいる。
SNSなんかで知らない人の気持ちを受け取って、それらで心のストレージをパンパンにしているように感じるのだ。
少しだけ意識して、自分の中の優先順位を大切にしてやりたい。
何も受け取らない時間をつくれば、きっと洗い物も溜めなくなる。お弁当も作れる気がする。
いや、それは本当にそうなのか分からないけども。
やってみなければ分からないから、やってみよう。