『一週間、考えてみて』
今年度から『一週間、考えてみて』という文章を書いてみることにした。
個人的な議事録のようなもので、つい気にとまったことや考え込んだこと、その途中で調べたことを、コメント形式で記録するおかしな文体になると思う。事実と解釈が入り混じった文章は、僕の中ではドキュメンタリー/SF的な思考とつながっていて、僕なりの少し特殊な議事録の取り方でもある。
議事録として書いてみようと思ったのはいくつか考えがあり、特に誰から頼まれたわけでもなく、いまのところ読者も想定していないから、インプレッションを気にしなくていい体裁と媒体で書いてみたいということ、仕事上で自分と違う価値観の人や専門外の一般の人に、すんなり納得してもらえるような言葉使いに苦手意識があり、素朴に言葉や文章の表現力を高めたかったこと、そして、自分の議事録の取り方が(人によっては議事録ではないと言われそうではあるものの)、議事の整理と分析と表現を並行して記録する思考プロセスで、実は面白いのかもしれないと思い立ったことにある。
議事録的方法論
議事録とはそもそも、「決定事項や決定の経緯、発言者および今後の予定を記録し、関係者の認識を一致させ、非参加者への情報共有を計る」ための業務円滑化のツール、といった定義が一般的な理解と言ってもよいだろう。また議事録の形式には、会話形式と要約形式があるとされている。前者はほぼ事実のまま記録されるのに対し、後者は情報を圧縮して要約する過程で、少なからず作成者の解釈が入り込むことになる。しかし、議事録である以上は事実誤認は許されず、正確性が求められることは言うまでもない。
僕の議事録は、その要約形式の堅苦しさを少し緩めて、議事録を「事実を基にした情報の再整理・再配置により分析的に意味内容を変換および表現する記録」といったことに要点を置いて再定義し、編集を目的とした視点で記録していることになる。また、記録する作業の中で情報を圧縮するだけではなく、逆に作成者の考えを追記や補足することも、広い意味で要約として捉えている点が通常とかなり異なるかもしれない。したがって、ある事実を別の言葉で置き換えることも積極的に行い、言葉の意図をさらに分かりやすく翻訳したり補強する説明を書き足すことを良しとし、何が議論の本質的なテーマだったのか議題区分や論理展開を再構成することで明快にしつつ、ある意味で議論をリピートしてもう一度シュミレーションすることで、より広がりのある考え方や深い理解ができるように、全く別の内容として表現し直すことが、僕にとっての議事録というものなのだ(議事を評論した記録とも言えるかもしれない)。
いまいちはっきりしなかった論旨が論理的に言語化され、見えていなかった論点が浮かび上がることで、「実はまさにそれが言いたかったんだ!」という人が出てきたり、発言者自身も気付いていなかった魅力を発見したり、事実とは表面上異なる記録でありながら、むしろ関係者を取り巻いていた曇りが一気に晴れて、今後何を起点として考え始めればいいのか方向性が定まるようなものが理想の議事録と言えるのではないだろうか。もちろん実務上は、最終的にはその表現が関係者にとっても納得できる論理を持っていて、事実に反してはおらず、「そうとも言える」程度の範囲という必要はある。そして当然ながら、もともとの議事自体に充実した密度の高い内容が求められることは言うまでもない。
議事録的な、事実把握による冷静な形式論(状況の整理=Must)と要約理解による知的な編集論(方針の表現=Want)、および記録保存による再帰可能な媒体論(論点の分析=Should)の特性には、どのような可能性があるのか。議事録的方法論は、レポートやインタビューなどのジャーナリズムでもなく、論考や研究論文などのアカデミズムでもなく、物語や脚本などの作家主義でもない。あるいは雑誌や解説書とも違う、新しい思考形式になり得るだろうか。この企画は一種の実験かもしれない。
シリーズタイトル的な
ところで、なぜ「一週間、考えてみて」というタイトルにしたかについて、理由のひとつは、今の時代はあまりにも即答、即レスが求められているので、冷静でいるためのある程度長時間の思考をどのように確保するか真面目に考えないと、ろくに人間らしい生産的な知能を発揮できないと思ったからだ。
メディアは食い付きの良い新ネタを毎日見つけるために躍起になり、本来なにをジャーナルしようとしていたかも忘れて報道の持続可能性を捨て去り、メディア自身が情報に踊らされているという状況が残念ながら実態ではないか。SNSのタイムラインは、ほとんど情報量ゼロの新ネタへのツッコミで溢れかえり、短文での言語化が(半ば)強制され、ログイン状況が自動的に開示される。メッセージアプリでは、未読にせよ既読にせよスルーはもちろん、返信が遅い人は相手を不愉快にさせてしまう(ような習慣にいつの間にかなっている!)。
条件反射的と言われるような、考える前に反応することがコミュニケーションのほとんどを占めつつある時代において、少なくとも一週間くらいは考えてから物事を判断することが、もはや貴重な能力にすらなっているのではないだろうか。
もう一つの理由は「~してみて」という言葉について考えていることにある。「~してみた」という文句はネット内、特に動画コンテンツではよく使われるようになった。この気軽な実験のような感覚は、ある意味で誰もやったことのない仮説と実証を、とてもライトに行う新しい活動と発信のあり方を示していると思う。ただ、「~してみた」では単発的な試みで終わってしまい、その次の展開につながることがあまりない。それはバズることを狙った消費材的なコンテンツと親和性が高いということが理由かもしれない。そこで、持続的に実験的な思考を発展させるには、「~してみて」どうなのか、というところまでを意識的に主題にして物を考える必要があると考え、この言葉を選ぶことにした。
また、今の「~してみた」コンテンツは、より大規模かつ大出資の無駄をいかに生産できるかという競争によって消費者との利害関係をつくりあげるか、よりニッチで個人的な趣味の自己満足として経済や社会を度外視した範囲で創作するかに二極化している。つまり、どちらも生産的な側面を持ちながら、結果的に非生産的な活動に陥ってしまっているように見える。
だから僕は個人的な関心事から考えはじめ、ある事柄に対して自分なり見方で時間をかけ考えてみて、その仮説と実証の記録から何が言えるのかを議事録として保存することで、ドキュメンタリー/SF的な論点を提供し、自分の持続的な思考の参照元、かつ、結果的にそれが市場価値のある生産的なコンテンツになることを目指したい。
この試みは一週間、考えてみて、記録するかもしれないし、しないかもしれない。発信するかしないかも、そのときどきに判断することになる。最低でも一週間だから、一箇月か一年かけてから書くかもしれない。そんな自由な議事録を書いてみたい。