自己紹介

まあまあ、変わった経歴、人生を過ごしてきました。

小さい頃は、人と違うことにコンプレックスを感じることも多くありましたが、同時に、人と違うことが好きでもありました。

20代前半までは、何をやっても中途半端な人生でした。

(出身・家庭環境)

北海道札幌市出身。中学生まで札幌で過ごします。普通の公立の小学校・中学校で、遊んだり、部活をしたり、勉強をする普通の日々でした。

両親はキリスト教徒ですが、夫婦の喧嘩が絶えない家庭でした。両親には優しくしてもらいましたが、怒られていることの方が多い毎日。

何でお前はそんなにダメなんだ(弟をいじめる、宿題をやらない)という視線を毎日感じ、自分はダメなんだ、いや出来るという葛藤で過ごす生活。

昔の家庭はどこもそんな感じだったのでしょうか。今でいえば両親によるDVではないかと思うこともありました。

自分も、弟をいじめてばかりいたので、今でも弟とはあまり仲良くありません。

(高校3年間をアメリカで過ごす)

札幌の高校も受験しました。でも、もともとアメリカの高校に留学出来ることが決まっていました。

アメリカの高校は9月に新学期が始まるので、中学卒業後の4月から7月までは、東京の英語学校に通いました。15歳のときに、札幌から上京して東京で過ごした3ヶ月間は、新鮮さの連続。

西武池袋線沿いだったので、池袋をよく歩きました。新宿や渋谷も行く機会があったけれど、原宿は怖くて近寄れませんでした。

留学先は、アメリカのインディアナ州の小さな町(人口10万人くらい)。

札幌や東京と比べると、圧倒的に田舎でショックを受けます。アメリカといえば、映画で観るニューヨークやロサンゼルスというイメージでしたので。

ホームステイ先の家族は、とてもよい人達でした。ただ、2歳上のお兄さんと同じ部屋で暮らすのですが、今にして思うと、同じ部屋というのはお互いにとても気を遣います。

そしてそのお兄さんが、ひょろひょろのナードやギーク(イケてない人達)風だったので、あまり尊敬することができず。自分は、アメフトのスター選手みたいなイケているお兄さんが欲しかったのですが、現実は違いました。

もう一つ、我慢だったのが、アメリカの田舎はクルマがないと本当にどこにも行けないこと。

街中は勿論(そもそもアメリカの田舎に街中や日本の商店街のものはなく、映画館併設のショッピングモールやピザ屋さんなどに若者が集まっています。)、スーパーやコンビニにも一人で行くことができません。

普通のアメリカ人は、16歳でクルマの免許が取れるので、16歳になると自由にクルマで行きたいところに出かけられるようになります。(それまでは、どこに行くにも親に送り迎えをしてもらいます。)

でも、自分は留学生だったので、クルマの免許を取らせてもらえず、もし取ったとしてもクルマを買うことなど出来ないので、どこにも一人で出かけられず、常にホームステイ先の家族に連れて行ってもらうという、圧倒的に、不自由な生活でした。

自由の国のアメリカに来たのに不自由な生活。それならば、早く日本に戻って自由な生活をしたいと思っていました。

今にして思うと、ホームステイをしながらの留学は、最大1年間が限界だったと思います。でも、3年間ホームステイをしました。

ホームステイではなくボーディングスクール(みなが寮に住んで勉強やスポーツに励む学校)だったら、もっと、とても楽しかっただろうにと思います。人生ももっと違っていたと思います。

でも、そんな恵まれた人はほとんどいないので、無い物ねだりをしても仕方がありません。お金持ちの優しい両親の家に生まれてきたかったと願うようなものでしょう。

学校(ハイスクール)は、なかなか楽しかったです。

日本の学校では、基本的に、校則に縛られて、服装などをちょっと違反をすると先生に怒られたり、宿題をやらなかったり、授業中にいたずらをすると先生に怒られたりと、先生に怒られる場所だったような気がします。

アメリカのハイスクールは、その点、とても自由でした。校則などないですし、先生がとても優しい。詰め込みの授業ではなく、先生が楽しく授業をすするので、勉強は苦痛ではなく、楽しいものでした。

日本人は、我慢すること、苦労することが美徳という価値観で育ちますが、アメリカでは、人生を最大限楽しむべきという考え方が浸透していました。

ハイスクールでも、平日は勉強やスポーツをして、毎週金曜日の夜には学校のアメフトやバスケの試合を応援した後に、月に1〜2回のダンスパーティがあります。

週末は家族で時間を過ごし、BBQをしたり、夏の間には、更に田舎の湖がある地方の別荘に行って、ボートに乗ったり、水上スキーなどを楽しみます。

高校生の恋愛も盛んです。自分も、日本人が珍しかったということもあり、(自分から話しかけることができないシャイボーイでしたが)結構多くの女の子に興味を持ってもらって構ってもらいました。

でも、一番好きだった、頭がよくて可愛い女の子とは、毎日学校で会って、向こうも120%自分のことを好きだったのに、最後までアプローチ出来ない、意気地無しでした。

アメリカでは、女の子は色んなアプローチをしてくるけれど、誘うのは必ず男の子から声かけるのを待つのです。「あなたはダンスに行く人がいるの?」とか、「私はダンスに行きたいんだけど」とまでは言ってくるけれど、「ダンスに一緒に行かない?」と女の子から言ってくることはありません。

バレンタインでも、日本は女の子が男の子にチョコレートを渡しますが、アメリカでは、男の子がバラの花を女の子に渡します。

自分は、好きではない女の子と話すことは出来たけれど、一番好きな子に、話しかけることが、どうしても出来ませんでした。

友人関係でも、格好よい男子と一緒につるみたいのに、話しかけやすそうな、相手にしてもらいやすそうな男の子と話していました。

(日本の大学に行く)

アメリカではクルマに乗れずに不自由な日々を過ごしていたので、大学は日本に戻りたいと思っていました。

最初は、東大に行きたいと思っていました。(高い目標を持つ性分なのです。)

でも、しっかりと継続的に勉強する習慣を身に付けておらず、行き当たりばったりだったので、そうそうに、東大は無理だと諦めます。

私大の入試は帰国子女枠があったので、文系であれば、英語と小論文だけの試験で入学できます。

自分は、英語は偏差値70以上で帰国子女の中でもトップクラス、文章を書くのも結構好きだったので、私立文系であれば、どこの大学でも受かっただろうと思います。

ただ、自分はそのとき、物理学(宇宙論など)に興味を持っていて、どうしても物理学科に行きたいと思っていました。

自分のやりたいことを曲げて偏差値の高い大学に行くよりも、自分が学びたいことを学ぶ大学に行くべきと思ったのです。

結果、アメリカと日本では物理で教えることが全く違うこともあり(日本では公式を覚えて問題を解きますが、アメリカでは公式は覚える必要なく、微分積分などの複雑な計算もできる計算機を使って試験に臨めます。)、日本の模試の物理の成績は0点や5点という状況でした。

そのような状態では、どんなに英語が出来ても、本来、どこの大学でも物理学科に入ることは出来ません。

札幌の公立高校の入試では、ほぼ満点に近いような成績を取っており、アメリカのハイスクールでも英語の授業に十分ついていけるようになり、理系科目もそれなりの成績を取っていたのですが、それでも、教える内容が違う日本の受験(特に理系)の壁は高かったのです。

結果、東海大学の物理学科に何とか入ることになりました。(東海大学は、物理の筆記試験がなく、口頭試験だけで物理学科に入ることが出来たのです。)

自分としては、大学の偏差値など関係ない、そこで自分のやりたい勉強をすればよいとの考えでした。また、アメリカのハイスクールでレスリングをやっていたので、日本で本格的にレスリングをやりたいという気持ちがあり、スポーツが強い東海大学はよいかなと思っていました。

言い訳をしても仕方がないのですが、日本の予備校などに1年間通い、高校の基礎からみっちり勉強をすれば、東京大学にだって入れたのではと思っています。(そのような環境にあっても、途中でサボってしまっていたかもしれないので、実際にどうなったのかは分かりません。ただ、後に国家公務員一種試験やハーバード大学の大学院に合格するので、それなりにチャンスはあったと思います。)

大学入学後は、勉強ではオールAの優秀な成績を取って、レスリングではチャンピオンになって、バイトもして、遊びも満喫して、充実した4年間とすることを目指していました。

でも結果は、全て中途半端の極みでした。

大学まで往復4時間近くかかる格安の寮に住んでいたので、授業をとって、レスリング部の練習に参加して、帰ってきてというだけでもクタクタで勉強をする時間がなかったのに、テレビを観たり、寮生活だったので麻雀をしたり、お酒を飲んだり、週末はバイトに行ったり、遊びに出かけたりで、入学から2年間は結局、勉強をあまりしませんでした。

時間管理のやり方が分かっておらず、睡眠時間を削れば何でも出来ると思っていたけれど、眠いと朝起きられず、授業もサボりがちで、結果、学校の成績はボロボロ。

大学3年になってから、大学の近くに引っ越して、勉強するようになるのですが、結局、最後まで物理で周りに追いつくことは出来ませんでした。

大学4年生になると、物理学科はゼミが始まり、結構、拘束されます。本当は宇宙論や相対性理論などを学びたかったのに、成績が悪かったので希望のゼミに入ることは出来ず、全然興味のないプラズマの実験などで長い時間を割かれていました(当番制で徹夜など)。

今にして思えば、何かを成し遂げるためには、生活の基礎がしっかりしている必要があると思います。

生活のリズムが出来ていて、健康的な食事をしっかり摂っていると、スポーツでも、勉強でも、集中して取り組むことが出来ますが、当時の自分は、生活のリズムが作れずに、行き当たりばったりの毎日で、色んなことに手を出しすぎて、結局、集中して勉強をする時間が足りませんでした。効果的な勉強のやり方も、まだ分かっていませんでした。

根性で乗り切ろうという考えだったのですが、全然、乗り切ることが出来ませんでした。

そして、喉元すれば暑さを忘れるで、試験が終わるとすぐに遊びに出かけてしまっていました。

部活でも、根性を見せて、人一倍の練習を積んで、チャンピオンになろうと最初は思っていました。

でも、色んなことに手を出していたので、結局、時間がなくて人一倍の練習はせず、少しは頑張ったのですが、とても中途半端な結果でした。

また、当時の東海大学のレスリング部は、元東京オリンピックの金メダリストが監督だったのですが、既にあまり熱心な監督ではなくなっていて、それほど練習には顔を出さず、他の選手も、レスリングの推薦で大学に入学するほどの強い選手でしたが、オリンピックを狙うほどの選手では皆ないので、高校時代の猛練習で燃え尽きて、大学はもう少しゆっくり過ごしたいとのことで、練習も少しだらけた雰囲気でした。

そうした環境の中で、結局、毎日自分なりに一生懸命練習はするものの、もっともっと頑張って練習している他の学校の選手と比べると、全然ダメでした。

自分は運動神経はまあまあ良い方だったのですが、結局、中学、高校(ハイスクール)、大学と、全力でスポーツに取り組むことが出来ず、もっと頑張りたかったという思いがあります。

でも、過去を変えることはできません。過去の反省をもとに、今、目の前の状況に対して、最善を尽くすしかありません。

(大学院と就職)

自己紹介が長くなったので、これからは、巻きで書きたいと思います。

大学4年生の時点で、入学する時点で考えていたように、勉強することが出来なかったので、もっと勉強したいという気持ちがありました。

とりあえず、東海大学物理学科の大学院の試験を受けるのですが、不合格。

大学院に入るための浪人をします。ただ、あまり焦りはありませんでした。

そこから、もう一度、自分が何をやりたいのか、どんな仕事をしたいのかを考えます。

もともと、知識欲のために、物理を勉強したいという気持ちはあったのですが、それを仕事にしたいとは考えていませんでした。

どちらかというと、小さい頃から新聞を読むのが好きで、もっとこういう社会になればよいのにという政治への問題意識を持っていたので、きっぱり物理は捨てて、政治学で大学院に進むことにします。

もともと、文系科目(英語や論文など)は得意だったので、上智大学大学院に合格。(試験のための勉強もさすがにしっかりやりました。)

そして、上智の大学院で国際政治を学んでいたので、外交官を目指すことに。

外交官試験には一種試験(超難関の試験)と専門職試験(なかなか難しい試験)という2つの種類があるのですが、高い方を目指すタイプなので、一種試験を受験します。

大学受験と同じくらいの量の勉強を専門の予備校に通って勉強をして、外交官一種試験の一次試験(筆記試験)に合格。でも二次試験(面接)で不合格になります。

外交官一種試験は、毎年10名程度の合格者で、東大法学部の中でも成績が優秀な人が入るような、国家公務員試験の中でも超難関の試験です。

東大生でもなかなか一次試験にも合格できなかったりするので、一次試験に受かったのも、自分にとっては快挙といえると思います。でもさすがに二次は通りませんでした。

更に1年間勉強をして、翌年からは、外交官試験が他の省庁と共通の国家公務員一種試験に統合されたので、そちらを受験。またも外務省は面接で不合格だったのですが、第二志望の農林水産省に採用されます。

農林水産省といえども、霞ヶ関のキャリア組としての仕事は、ハードで激務。先輩に毎日激詰め、怒られながら、朝の3時頃まで仕事をしてタクシーで帰宅。数時間の睡眠をとって出勤。土日もどちらかは働くような生活をずっと続けます。

でも、努力をすることは嫌いではなかった、小さい頃からずっと何かに打ち込みたいと思っていたので、ハードな仕事は楽しかったです。

そして、国からの派遣留学で、ハーバード大学の大学院に留学。ハーバードの合格が、これまでの人生でもっとも嬉しい瞬間でした。(東海大学の大学院に落ちるような落ちこぼれが、ハーバードです。)

更に、帰国後は、農林水産省からの出向で、外務省で2年間働く機会が与えられます。

オバマ大統領も参加した国際会議の準備を仕切って、議題設定の原案作成、日本の対処方針の作成、参加国との事前交渉などを行うなど、バリバリ働く機会を与えられました。

念願の外務省で働けたことも、とても嬉しい、自分として誇らしい出来事でした。(このまま外務省で働かないかと幹部に言って頂くこともできました。)

外務省からいったん農水省に戻り、その後、ニューヨークの総領事館勤務や、ワシントンDCの日本大使館での勤務のチャンスがあったのですが、それらを断ります。

なぜかというと、公務員として計11年ほど働いたのですが、これからは公務員が社会を変えるのではなく、民間の力が世の中を変えていくと思うようになったからです。(GoogleやApple,Amazonが世の中を変えているように。)

(民間に転職、独立)

農水省・外務省でバリバリ働いて、結構よい評価を頂いていたので、民間への転職活動でも、一流と言われるような企業に転職しようと思っていました。(具体的には外資コンサルのマッキンゼーなどに憧れていました。)

しかしながら、年齢と民間での経験不足から、すべて不合格。

紆余曲折を経て、中堅のコンサルティング会社にまずは入ります。

その後、小さくても自分で事業をやりたいとの思いから、4〜5年の準備を経て、飲食店経営を始めます。

初めての飲食事業は、準備をしていたとはいえ、分からないことばかり。本当に大変でした。

頑張った成果で、テレビに何度も取り上げていただいたりもしたのですが(王様のブランチには2回。ZIPにも。)、このままでは自分の思っているようには上手くいかないと事が分かり、2年ほどでいったん撤退します。

飲食業は、やってみて、今ならこうすればよいということがたくさんあるので、もう一度、タイミングを見て、チャレンジする予定です。

コロナ禍でオンラインで仕事が出来るようになったために、2020年に中学卒業以来、30年振りに札幌に戻って生活をします。

現在は、フリーでコンサルティングの仕事や本の執筆を行いながら、これまで学んで来たことを若い子供達に伝えるために、塾を開講する準備も行っています。

プライベートでは、一度結婚をして、離婚。いまはネコ2匹との生活です。

(ここまで読んで頂いた人がいるかどうかは分かりませんが、もし読んで頂いた場合には、長い文章をお読み頂き、ありがとうございました。)

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