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かんまこ家と病気の話

 こちらの記事は、特に読む必要はありませんよ。
 読むと多分、精神的にずぅんと重たくなったり、神崎への見方が少なからず変わってしまう霊障が起きるかも(嘘)。
 とりあえず覚書として置いておこうということで。
 超胸糞案件と殺意と狂気が紛れているのでマジで閲覧注意です。 


● 娘たちの病気

 長女は、早産の末に1800グラムという超低体重児で生まれた。
 で、片側の耳が、耳たぶだけしかない「小耳症(外耳道閉鎖)」という病気で、聴覚がなかった。
 小耳症は1万人~2万人にひとりという確率――田舎の産院では初めての症例だと言われ、今のようにネットもない時代で情報を集める術もなく、ひたすら途方にくれた。

 次女は、発達障害を持って生まれてきた。
 自閉性スペクトラム障害、学習障害、ADHDなど、複合的な障害だ。幼稚園の時に「普通と少し違う」ことに気付き、小学校に入学してから養護教諭に勧められて専門機関を受診、上記のような診断となった。
 薄々勘付いてはいたが、あまりのショックでその日のことはほとんど覚えていない。

 こどもを授かった母親は「自分に何かあっても、こどもだけは無事に生まれてくる」と信じている。
 私は、そんな普通の願いが、二度ともかなわなかった。


● たたかうおかん長女編

 親が途方に暮れようが何しようが、こどもは育つ。泣く。ミルク飲む。じたばたする。うんこする。
 落ち込んでる場合じゃねえ、と気持ちを奮い立たせた。
 まずは長女のために「世界一の医者を探して形だけでも普通の耳を取り戻す」を目標にした。情報収集、手術費用の貯金、色々と手を尽くした。
 金になりそうな案件に手あたり次第手を出していたのはそのためだ。

 しかし、手術費用を貯めたいがために、妙な資格取得詐欺に三回も引っかかった。テンプレのおばかさん。

 でもそれくらい金に関しては必死だった。というのも――


 逃れられない地獄

 相方の両親――私にとって舅、姑。こいつらがまあ信じられないほど金銭感覚が崩壊していて。
 親族の連帯保証人になって借金をかぶった、までは仕方ないと思えたが、相方にカードを作らせ無断で限度額ギリギリまで借金を重ねていたことが判明。結局その分の借金は私たちが払うことに。
 色んな返済が滞ると私たちに泣きついてきて、その金額がいちいちデカくて本当に大変だった。私のマイカーを売って金を工面したこともあった。
 バツイチ出戻りの子連れ小姑も同属性であれこれ借金があり、よく金の無心をしてきた。揃いも揃って最低な連中。
 挙句、各種税金や介護保険料まで滞納し続け、結局それらも全部「おまえら払っといてくれ」ときた。
 大変な金額だった。
 その後なんて言ったと思う?

「また次も頼むね (笑)」

 殺意。

 真剣に、殺意を抱いた。
 いつか必ず殺してやると、本気で考えた。

 こどもたちのための貯金もすべて、私の両親の遺産まで、こいつらにほぼ食いつぶされた。

 文句を言いつつ結局親を助けてしまう相方にも心底うんざりした。何度別れようと思ったか。
 でも、我慢した。
 悪いのは相方じゃないんだと自分に言い聞かせ、すべてはこどもたちのためにと歯を食いしばった。

 とはいえ、相方はあの連中の血を引いているので、たまに「ふざけてんのか」と思うような金の使い方をするから油断ならない。締めつけすぎないよう、でもしっかりと見張っていなければ。

  おかん修羅と化す

 そんな地獄の渦中にいたので、長女の手術費用を工面するのに、大変とってもめちゃくちゃに苦労した。首都圏のクリニックでの入院期間一ヶ月ほど、私も付き添わねばならないのでその費用もプラスすると相当な額になる。お金のある皆様はマンスリーマンションなどを利用していたようだが、自分は病児につきそう親のための宿泊施設(格安)に申し込み、そこから電車を利用することに。

 自分の分の食費を抑えるため朝食を抜き、夜はスーパーの赤札惣菜を狙って慎ましく夕飯をすませた。
 真夏の炎天下、駅からクリニックまで徒歩30分以上歩いて通い、交通費を節約した。シューズ一足履き潰した。

 それでも、一回目の手術費用を工面するのがやっとだった。一回目は耳介形成手術、翌年に行う二回目の手術で「耳を起こす」のだが、その時までに同じ金額を貯めるのは、不可能だった。
 恥を忍んで院長先生に「ボーナス後に手術をお願いできませんか?」と手術時期の変更をお願いした。よく言えたもんだと、今も思う。必死だった。

 二度の手術を終えて無事退院できた時の喜びは、それはもう。
 長女が生まれた時から、ずっとずっと願い続けた「普通」を取り戻すという夢が、やっとかなった瞬間だった。


● たたかうおかん次女編

 病名が判明して以後、普通学級から特別学級に編入することに。離席が多く授業に集中できないためだ。
 何とかよい方向に改善する手段はないかと探し回ってたどりついたのは、自閉症や発達障害をはじめ、極度の人見知りなどで生活に「生きづらさ」を抱えた子供たちのために、マンツーマンで授業(勉強と生活全般の指導)をしてくれるこども教室だった。
 自宅から車で1時間強の教室へ月二回。通院も含めるとなかなかにハードなスケジュールだった。小学校の六年間だけだったが、そこでの勉強で生活態度が少しずつ改善され、学校での生活が幾分スムーズになったのは嬉しい変化だった。

 中学は地元の特別学級でよかったのだが、問題は高校。
 発達障害の生徒を受け入れる場所が、ものすごく少ない。知的だと各地に受け入れ先があるのだが……
 結局選択肢が、
 ・めっちゃ遠いが色々手厚いと噂のお高い私立
 ・交通の便がおそろしく悪いが授業料が免除となる公立
 の二択しかない、と言われたら、答えはひとつしかない。片道1時間の養護学校へ三年間、毎日送り迎えをすることを決めた。

 これも……超ハードだった……

 まず、日中に学校で何かあった時すぐに駆け付けられるよう(滅多にそういうことはないのだが念の為)昼間フリーになれる夜勤に切り替えた。
 夜勤を終え3時間睡眠で起床。朝食作りながら相方と長女の弁当を作り、身支度をし、次女を一時間かけて学校へ送っていく生活を、三年間続けた。
 信号待ちでつい寝てしまって後続車にクラクション鳴らされたり、眠気覚ましにキャンディをガリガリかじりすぎて虫歯になったりしながら、私はやり切った。

 そしてこの時ちょうど、長女がうつ状態になり「早退するから迎えに来て」と頻繁に呼び出される事態も起きていた。長女の高校は、次女の養護学校とまったく反対側へ40分かかる場所で、極端に電車の本数が少ないクソ田舎だったから大変だ。
 つまり、自宅から一時間かけて次女を養護学校へ送り。
 その後一時間かけて地元へ戻り、全く反対方向へ40分かかる長女の高校へ迎えに行き、同じく40分かけて帰宅。
 そしてもう一度次女を迎えに一時間かけて……以下略。

 何の試練だよ、って言いたくなるような状況が続いて、この時は本当に本当にしんどかった。


 ひとつだけ、愚痴を。

 相方はこの時の三年間、自分が休みだろうと何だろうと、「代わりに俺が送っていくよ」とは一言も言ってくれなかった。

 次女が相方を少し怖がっているせいか、付き合い方が分からなくてそういう気にならなかったのかもしれない。
 頼めば代わってくれたんだろうけど、自主的にその言葉が出なかったことを、私は一生忘れないし、許さない。
 ( ゚д゚)ケッ


  卒業式当日、異変

 そんなこんなで激闘の三年間を終え、いよいよ次女の卒業式当日。
 長かったようで、あっという間だったなあとぼんやり思っていた矢先、突然の違和感に襲われた。

 いきなり、大量の出血。

 ただの不正出血とは思えない量の出血に、血の気が引いた。
 小綺麗なスーツ着て手作りコサージュを胸につけ、和気あいあいと会食しながら、鳥肌が止まらなかった。
 卒業式で気が抜けたせい、すぐに落ち着くと自分に言い聞かせたが、その異常出血はまったく止まる気配がなかった。
 何度か受診もしたが、薬で一時止まってもまたすぐに出血する繰り返し。ひと月で出血のない日は3、4日程度で、酷いときは一番大きいおざぶとんでも一晩で容量オーバーになり、シーツが真っ赤になるほどだった。
 実に一年半、この大量出血が続くことになった。


 異常が異常を呼ぶ

 大量出血が続く日々で、味覚に変化が現れ始めた。
 なぜか「おかか」が異常に好きになり、一日で大袋を食い尽くすようになった。同じく、梅味のキャンディも狂ったように食い漁るようになり、とにかく異常事態だった。
 そして、ひどい息切れを起こすようになった。
 仕事でちょっと荷物を運んだだけで、屈み込んでしまうほど苦しくて動けない状態になった。
 さすがにまずいと思って病院へ駆け込み、血液検査をしたら、担当医が開口一発、

「何この数値。よく無事にここまでこれたね」

 その時のヘモグロビン値が5.8、平均値の半分以下。
 重症貧血だった。

「このまま帰して途中で事故ったら大変だから、今すぐ入院して」

 ( ゚д゚;)  そのまま有無を言わさず強制管理入院五日間。
 男性なら死んでる数値だよと看護師さんに言われた。

 管理入院で貧血は改善したが、原因である大量出血は一向に止まらなかったので、結局その後内膜掻把手術をする羽目になったのだが、担当医にワガママを言って通常二泊三日の手術を一泊で終わらせてもらった。

 貧血が改善したら、おかかと梅キャンディへの渇望は、ぴたりと治まった。おそろしいもんだ。

 

● ハードモードのその後

 長女は高校卒業後うつ病が再発し、これまた大変な事態になったがここは割愛。現在は服薬治療をしながら働いている。以前に比べてだいぶ良くなってきたので、今後少しずつ薬を減らしていけたらいいなと思う。

 次女は大人になってだいぶ落ち着きが出て、薬さえ飲んでいれば特に問題なく日々を過ごせている。元々日常生活には特に不便はないので、B型就労支援施設で働きながら、のんびり穏やかに暮らせていければと思う。

 娘たちの病気と向き合い全力で戦った日々は、今考えても「どうやって生活していたのか」分からない。すべてに必死だった。
 何でどうしてと悲観に暮れる時間は無駄。
 この先どうするか、を常に前向きに考え続けた。
 ポジティブ思考を保たないと、私自身がもたなかったからだ。

 娘たちが赤ん坊の頃、年子の育児ブルーと引っ越しブルー、金の亡者どもの魔の手など、色々なことが重なって激しく落ち込み、死ぬことばかり考えて泣いていた時期があった。
 誰にも相談できない、仕事が忙しい相方に頼れない、年老いた私の両親に迷惑はかけられない。八方ふさがりだった。

 唯一の心の拠り所であり逃げ場所だったネットの世界がなかったら、どうなっていたか分からない。割とマジで。

 でも、普通に暮らすだけでは絶対に知ることのなかった様々な世界を、娘たちを通してたくさん知った。激動の日々で得た知識と経験が、今の私を形作っている。すべては無駄じゃなかった……

 と、キレイに言いたいところだが、金銭関係の揉め事はホントに無駄でしかなかった。あほらし。

 散々私たちを苦しめ続けた連中は、もういない。
 奴らは、非常にみじめでむごたらしい、腐った性根にふさわしい死に方をした。
 私が毎日四六時中呪いの言葉を吐いて生霊を飛ばし続けたからだろう。知らんけど。←

 やっと私は、自分たちのためだけにお金を貯められるようになった。
 お金にこれ以上ないくらい苦労したからこそ、私は全力で「金持ちになりたい」と叫ぶ。
 苦労が財産だなんてとんでもねえわ。あんな経験二度とゴメンだ。
 だから、私はお金儲けに貪欲になる。
 娘たちにお金で苦労をさせないためにも。


 おまけ

 そうしてすべてが落ち着いて、一応健康的な日常を取り戻したと思ったのだが、その後、再びあの強い息切れがするようになった。
 健康診断の血液検査は正常だったので、貧血の可能性は低い。では、これは何だ?
 そうこうするうち、心拍数が異常に早くなり、だんだん体に力が入らなくなって、何かに捕まらないと歩けなくなってしまった。立っているのもままならなくなって急きょ夜勤を早退し、翌日内科へ駆け込むと、診断は「バセドウ病」だった。
 速攻で夜勤パートを辞めたよね。
 クソブラックを辞めたい辞めたいと常々思っていたけど、まさかこんな形で辞めることになるとは思わなかった。

 で、半年間療養に専念。幸い投薬治療のおかげで現在普通に健康だが、バセドウ病は完治しない病気なので、定期的に病院通いという強制クエストを続けなければならない。
 もともと、長生きは望まない。太く短くぽっくりが理想だ。


 療養後、早く仕事探さなきゃと勢いで入った未経験の製造業は、前職を上回る超絶パワハラBBA社長がのさばる魔境だった。今まで色々な仕事をしてきたが、こんなにひどい場所は初めてだ。上司ガチャことごとく外れすぎて笑えない。

 ストレス過多でバセドウ病がまた悪化しそうなので、転職活動頑張ります……

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