『ダニエル書注解』第4巻 第23章(ヒッポリュトス)
第23章
1節
それで、このことにおいて、好奇心ある人であることによって、我々はこの自分たちの面前にある、証明できないことを放っておくことがない。それで、語る資格のないことについて、力によって語らざるを得ない。
2節
というのも、世界の創設から、そしてアダムからの諸時代は数えられており、それによって、探究する我々に非常に明確に[この論題について示唆を]与えるのである。
3節
というのも我らの主の、肉における一度目の到来は、すなわちが彼がベツレヘムで生まれたのは、[ユリウス暦]一月カレンダエ[一日の]八日前[=12/25]であり、第四日[=水曜日]であり、アウグストゥスがその[治世]第四十二年にあり、一方でアダムからは、五千五百年が[経って]いる。彼が受苦したのはその三十三年の[ユリウス暦]三月カレンダエ[一日の]八日前[=3/25]、準備の日[金曜日?]であり、ティベリウス・カエサルの第十八年、リュフスとルーベリオンが執政官であったころであった。
4節
それで六千年が満ちることは絶対的に必須なことであり、それによって安息日の休息が来たるのである。その聖なる日に、神は自ら為し始めた諸々の業から休息したのである。
5節
安息日は聖徒たちの来たるべき王権の型であり象徴である。キリストが天から到着したその時、聖徒たちは彼と共同統治するのである。ヨハネがその黙示録において描写する通りである。というのも主の一日は、千年間のようなのである。[cf. 2ペテロ 3:8, 詩編 90:4]
6節
それで六日間で神が万物を造ったため、六千年間が満ちることが必須である。というのも、それらはまだ満ちていない。ヨハネが言う通りである。「五者が[既に]倒れ、一者が[今]いる。」そのようなものは第六[千年紀]である。「他方はまだ来ていない。」[黙示 17:10]「他方」と言って彼はそこに休息のあることになる第七[千年紀]を描写しているのである。