『手引書』26章「神の主権的善意志の勝利について」(ヒッポのアウグスティヌス c. 420)
Enchiridion on Faith, Hope and Love
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これらは、「主の業は偉大であり、主のすべての意志的行為において熟慮されたもの」である。
それで、その賢明な熟慮は [以下のようなことを可能に]した。すなわち彼の天使と人間の創造物が罪を犯したとき(つまり、彼の意志ではなく、それが意志したことを為した時)、それでも彼自身の意志したことを成し遂げることができたし、これを、創造主の意志に反する最初の行為がそれによって行われたのと同じ被造物的な意志によって、為されたのである。至高の善として、彼は悪行を善用したのである。それは彼が正当にも刑罰へと予定した者たちの断罪のためであり、また彼が慈悲深くも恩寵へと予定した者たちの救済のためであった。
というのも、彼らについてのみ考える限りでは、彼らはそうすることを神が意志しないことを行ったのだが、
神の全能についてまで考えるならば、彼らはその目的を達成することが全くできなかったのである。
神の意志に逆らうという彼らの行為そのものによって、神の意志は達成された。これは、「主の業は偉大であり、そのすべての意志的行為において熟慮されている」という言葉の意味であり、不思議で書き表せぬやり方で、彼の意志に反して行われるものであっても、彼の意志なしには行われないということになるのである。というのも、それは、彼が許可しなければできないことなのであって、[つまり] 彼の許可というものは意志に反したものではなく、意志的なものであることは確かである。
また、善なる方である彼は、彼の全能性によって悪からさえも善をもたらし得ない限りは、悪が為されることを許すこともないのである。