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僕がハングリーになったもう一つの理由

こんにちは!まこです。

今回から新シリーズとして
「【特別】を貫き通す。障害があっても後悔のない人生を送るために」
を書いていきたいと思います。

前回の記事で
「障害者だからこそ努力する」
という記事↓↓を以前書きました。

そしてこの記事の最後で
「障害があるからこそあえて生きにくい生き方を選ぶ」
といった内容を書きました。

そこで今回から数回に分けて、僕が「なぜそんな生き方を選ぶのか」について書いていきたいと思います。

1.お金がないゆえのハングリーさ

楽な生き方より大変な生き方――なぜあえていばらの道を進むのか。

それは僕自身の障害や性格による部分も大きくあると思いますが、それと同じくらい家庭環境も大きく関与していると思います。

はっきり言って、僕の家は裕福ではなくどちらかと言えば貧しい方でした。

特に僕が学生だった頃は母が毎晩頭を抱えるほどで、家計の苦しさはなかなか大変だったものです。

ここで具体的に述べるのもアレなのであまり詳細は書きませんが、一番の要因は父にありました。
簡単に言うと、父は収入と生活のバランスを一切考えず、自分さえ良ければ何だって良いと考える人間でした。

家にお金がない。
そのくせ父は母が働くのを極度に嫌い(もちろん母が遊びに出かけたりするのもダメ)、母は約30年もの間、ほぼ軟禁状態を強いられていたんです。

そのおかげで母と僕はずっと我慢を強いられていました。

なので、たとえば僕は習い事をしたことがありません。
もちろん塾とかも通ったことがないんです(体験でほんの少しだけ通ったことはありますが)。
とてもじゃないけど「塾に行きたい!」なんか言える状況じゃなかったんですよね。

ですがその分、塾に通っている人に勉強で負けたくないという思いが強くありました。
「金のある奴らに負けてたまるか!」
という思いがまぁ強くて。笑

現に高校時代は、勉強を放棄した3年生の春までずっと学年で1番でした。
それもあって「塾に行ってないおれに負けてるようじゃ、塾に行ってる奴らなんてただの金の無駄遣いやな」と内心馬鹿にしていたものです(ヤな奴)。
まぁただの嫉妬心と天狗になっていただけなんですけどね。笑

2.学費と家計に消えていったお金

お金はなかったものの、僕の将来を考えると大学には進学しておいた方が良いという周囲の判断により、家への後ろめたさをひしひしと感じながらも、僕は障害のある自分でも家から通える範囲の、かつ学費が安く済む大阪の某国公立大学に進学しました。

ただ、安いとは言っても毎年50万円近くの学費が生じるので、家庭教師のアルバイトをして学費を稼ぎつつ、余った分はすべて家に入れるという、それはそれは苦学生のような学生生活を過ごしておりました。

だから大学時代は遊ぶ余裕なんてほとんどなく、今思い返しても楽しかった思い出はあまりなくて、それよりもつらかった思い出、我慢ばかりしていた思い出が圧倒的に多いんです。

親からお小遣いをもらっていたり、バイトで稼いだお金を自由に使えたりする人が羨ましくて仕方なくて、「こんな惨めな思いをして大学に通うくらいなら、やっぱり就職すべきだったのかな」と思わずにはいられない日々が続いていました。

そして大学を卒業して社会人になってからも、手取りの半分以上を家に入れる日々が続いていました。

「自分が好きに使っていいのは、何もかもひっくるめて月に1万まで!」
と勝手に決めて毎日を過ごしていたのですが・・・。

学生時代といい社会人になってからといい、自分が稼いだお金を、自分をかわいがったこともない父親のために家につぎ込んでいたと思うと、今でも無性に腹が立ちます。笑

ただやはり、すべてを総合しての「家計」なので、自分がお金を入れることで少しでも母親の苦悩が軽減されるなら・・・との思いだけで自分を納得させる日々を過ごしていました。

3.障害があっても「自分が稼ぐ」という使命感

ただ、上記のような日々を過ごしているうちに、自分の中の疑問を抑えきれなくなっていったんです。

「なんで家族を大事にせず、僕のことを息子とも思っていない、自分さえ良けりゃ良いような父親のために自分の財産を費やさんとあかんのやろ」
「なんでオカンもこんなに苦しい思いせんとあかんのやろ」
「このままの生活を続けていって、将来何が残るんやろ」
と。

他にもここに書ききれないくらい、父に関する話だけで軽く3記事は書けてしまうのですが(笑)、とにかくこういった疑問が重なって
「おれが家族(父親を除く)を養っていく!!!」
と決意した僕は、数年前に母と妹を連れ出して家を出て、新たな生活をスタートさせたんです。
(実は僕以上に、母が父のことでノイローゼのような状態になってしまっていたというのも決め手の一つでした)

ですが、こうなってくると当然今まで以上に僕が稼がないといけなくなってくる。
想定していた人生より幾分早く自らが「大黒柱」になってしまったわけです。笑

今の生活のため。自分の将来のため。そして母の老後のため。

「お金を稼ぐ」明確な理由が、そして今までよりもずっと「意味」のある理由が今の僕にはある。

だからこそ、とてもじゃないけど「楽をしたい」なんて言えないんです

4.「障害者」としての甘えは許されない

こうなってしまった以上、
「僕は障害者だから働けません」
「健常者よりもお金を稼げません」
と言えなくなってしまいました。
どんな理由があっても言い訳ができない。

とは言え、もとから「障害」を言い訳をする気もなかったし「誰よりも成功してやる」という気持ちが強かったので、そこに「責任」が加わっただけなんですけどね。

こんな状況になって思うことがあるんです。

それは、苦労させられた父への恨みと同時に
「裕福な家庭で育っていなくて逆に良かったな」
という皮肉な感謝の想い
です。

もし金銭面で何一つ不自由のない生活をしていたら。
もし恵まれた家庭環境で育ち、努力する、苦労する必要のない人生を歩んでいたら。
色々思うことはあったにせよ、今の僕にはなっていなかったんじゃないかと思うんです。

自らの障害を言い訳にし、嫌なこと・つらいことから逃げ出し、親のすねをかじり続ける――「障害」がただマイナスなものとして存在し続ける人生を歩んでいたかもしれません。

もし実際にそうなっていれば、それはそれで幸せだったかもしれません。
ただ、今の僕にとってそのような生き方は「自らが最も嫌う生き方」なんです。

こう考えると、身体面だけでなくそれ以外にも大変なことが多い人生ではありましたが、「生へのハングリーさ」を養えた体験・経験は、障害のある自分にとって一つの大きな財産となりえたのかな、と思います。

5.まとめ

「貧乏」はお世辞にも恵まれた状況とは言えません。
「我慢を強いられる」のもそうです。

でも、これは少し強がりになってしまうかもしれませんが、貧乏や我慢から得られることがあります。
個々人に拠るところも大きいと思いますが、少なくとも僕はそう捉えて思っています。

自分一人で生きていくのなら、別にどんな人生だってかまいません。
どれだけ貧しくても、周りにどう思われてもいいから、できるだけ楽な道を選んで生きてきたかもしれません。
いや、極端な話になりますが、自分一人だったらいつ死んでもいい、別に今日死んでもいい、そう思って生きてきました。

でも、一人じゃないからそんなこと言ってられない。

ちょっとくらい今が大変でも、この先に少しでも明るい未来があるなら、その未来が今の努力や苦労と引き換えに手に入るなら、僕は喜んでいばらの道を進みます。

そうすることで、自分だけじゃなく自分を支えてくれる周りの人たちが笑顔になれるなら、幸せになれるなら、僕は困難や試練を喜んで受け入れます。

それに楽して平凡に生きるより、きっとそっちの方が「生きがい」を感じて生きていけますよね。うん。

はい、というわけで今回は僕の生い立ちも含めた生き方について書いていきました。
シリーズ第2話と完結編を以下↓↓↓↓に載せておきます。
よければご一読ください^^

それでは今回はこの辺で。
最後までお読みいただきありがとうございました(`・ω・´)!

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