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狩猟採集時代にいるつもり。


子どもが中学に入ってもうすぐ一年。いよいよと言うべきなのか遅ばせながらなのか。我が家は「学力のヒエラルキー」に足を踏み入れていた。
中学生ともなると面談でも、「いつもニコニコお友だちと仲良くやっています」だとか「係の仕事を責任持ってがんばっています」などといった、先生からのほんわかコメントはいただけない。
いや、たとえ委員会や部活動のお褒めの言葉はあったとしても、それはほとんど時候の挨拶のようなもの。サラッと交わされたかと思うやいなや、担任の先生はスッスッとテストの点数表や設問別正答率グラフを机上に滑らせ、「ええ。ここがちょっと問題で。英語は全体的に、数学はこのままではマズイです」と、ビシビシッとマイサンの弱点を指差し確認する。シメに息子は、先生と親の前で一日何時間勉強するかを誓約させられそれを書面に自筆でしたため、めでたく面談は終わったのであった。
いやはや。夕日を、そして中学の洗礼を浴びて帰る私たち。
中学、いや小学校、いや幼稚園受験をしてきた子どもたちは、早いと10年以上前からこの価値観の中に晒されていたのだなぁと、嘆息。今ごろになって恐るおそる足を踏み入れた私たち親子としては「わぁ」だとか「ヤバいぃ…」だとか、呑気な声をむなしく放つしか能がない。釣りとサッカーしかやってこなかった長男には、「聞いてないよ!」の世界なのであるが、兎にも角にも偏差値という価値観のフィールドで、いま彼は、自分のポジションを目の当たりにしたところなのである。

しかし思い起こせば、サッカーでもそう。
うちの息子たちを含め、多くの子どもたちの夢はプロサッカー選手で、日本代表に選ばれW杯出場。現在30万弱もいる小学生のサッカー少年の多くが、夢の11人に入るをことを憧れて毎日ボールを蹴っている。もっと大きく出るならば欧州のビッグクラブに入り、果てはバロンドール受賞……!
しかし小学校高学年にもなると、おぼろげながら自分自身がどれぐらいのポジションなのかがわかってくる。セレクションというシステムがあり、上手な子が選ばれるのだ。例えばここらへんで言えば、市の地区代表になり、さらには神奈川県、関東地区、そして日本代表(U-13:13歳以下)になれるわけ。サッカーが大好きで、本気で頑張れば頑張るほど、そこにドーンと聳えるは世知辛いピラミッド構造。
あーあ、釣りだったら、ヒエラルキーはないのかなぁ。


かくいう私はというと、人並みに偏差値社会のピラミッドに挑んでは大敗を期した。その戦いもやっと終わったかと思ったら、なんとか入れてもらった会社の研修で目にしたものは、さらに定年まで続く途方もないヒエラルキー。
たかだか部長に100人以上の人間が、さっと並んでかっきり90度に折れ曲がって挨拶するさまは、天皇陛下がお通りになったのかと思ったし、姿の見えぬ社長に至っては現人神がおわすのかと思った。なぜにそんなに偉いのか。わかりやすい上下関係と出世の世界。そこに山があったから、ピラミッドがあったから登るしかないのか。
ふと見れば、仕事を教えてくれた親切な先輩も「次長、○○は詰めが甘いですよね……」と、隙あらばせっせと上司に密告して同期の足を引っ張っている。あるときは「××と△△さんは不倫している!」と書かれたファクス用紙がカタカタカタと規則正しい音を立てて各部署に流されてくる。またあるときは、50代のいい年のおじさん3人がトイレで揉めていて、「☆☆社長(取引先)に『あけましておめでとうございます』を言うのは、俺が先だろう! なぜお前が!」と胸ぐらを掴んで殴りかかろうとしている(て言うか、なんで私は男子トイレを覗いていたのだろう……)。
こんなことを定年まで続けなければならないのか。無理だ。私は1年も待たずにその会社からは撤退した。

縦社会に愛想をつかしてといえばかっこいいが、ヒエラルキーを登る根性のない私は、それでも頑張って出版社勤務という修行の道を経てからフリーランスになった。
フリーランスといえば聞こえよく思う人もいるのかもしれないが(いないか)、子育てのために仕事を辞めたときに思い知ったのが厚い社会保障からがっつり切り外されているということ。恐ろしいことに旦那さんもフリーランスなので、我が家はきつい税金や冷たい社会制度に苦しめられ、このままでは老後は空に向かって吠えずらをかくかもしれない(フリーランスに老後はないし……!)。
しかしとりあえず今は、ピラミッドから逃げたような気になっている。
縦社会をチラつかせてくる奴などをかわし、次元の違う世界に逃げろニゲロと走ってきたような気がしている。もうそういう誰が上だとか下だとかいうマウンティングはごめんだと思っている。


……なのに、なのにだ。
長い間「家事」が嫌いだとはどういうことだと、自問自答する私がいる。
ん。唐突になんの話? いや、大丈夫。関係あるから聞いてほしい。

昔、大学生時代に英語講師のバイトをしていたことがある。クリスマスパーティーがあるので派手に飾り付けをしなければならず、脚立に乗ってキラキラモールを手にした私は近くを通ったバイトの大学生(私と同じ身分。だが高学歴)に「飾り付けを手伝って」と声をかけたことがあった。
彼はなんと言ったか。
「それはブルーカラーのする仕事」と言って、どこかへ行ってしまったのである。
オイオイオイ、英語を教える仕事は脳味噌を使うからホワイトカラーであって、脚立に乗っての飾り付けは肉体を使うからブルーカラーだというのか。サイテーだな!と。
もともと彼は英語講師としても難ありで、有名校に通っている子どもだけをわかりやすく贔屓していて、公立の一般の生徒は基本相手にしないというバイト。私は彼の背中を見ながら「そんな差別ばっかしていると、いつか痛い目見るからな!」と呪いをかけたのだった。

だが、人を呪わば穴二つ。痛い目を見たのは、はい、私。呪いが効きだしたのは、それから十数年後のことだ。
どんな類の呪詛かというと、「どうしても家事が進まない」という厄介なやつ。
もちろん、年子の子育てで体力の限界! 気力も底をつき、家事まで手が回らないのは事実だった。なのだが、子どもが小学校に入って余裕が出てきても、喜んで家事ができなかったのである。仕事をやめて専業主婦だったときなどは、辛すぎてちょっと鬱っぽくなったほどだった。
その日のノルマを紙に書いて、なんとかかんとか最低限の家事を終わらせる。正直、苦痛。時間の無駄のように感じる。どんな仕事も楽しくする私だと思っていたのに。なぜなぜなぜに家事となると憂鬱なのか。
昔、私がカフェでバイトをしていたとき。すすんで厨房の掃除やガラス磨きなどをしていたのに、どうして我が家では率先してやらないのだろう。ルーティーンだろうが、カフェの仕事は楽しかったじゃないか。

私という人間は、お金をもらわなければ仕事ができないのだろうか。
誰か他人が見ていないと、褒めてもらわないと頑張らないのか。
私は家事をブルーカラーの仕事と思っているのだろうか。
職業や仕事に貴賎はないと言うのに、はっきり線引きしているのだろうか、と。

……そうなのかもしれない。
今思えば、そこには「お金を稼ぐことが偉い」という呪縛があったように思う。
確かに今でも、お金がなければ我が家は回らない。だから仕事と家事が同時にあった場合は、もちろん仕事を優先する。オカネはダイジ……。
でも優先順位をはっきりつけているうちに、私は家事を仕事ヒエルキーの下方へ下方へと追いやってしまったように思う。


そもそもなぜヒエラルキーなんて、できたのだろうか。
それは狩猟採集時代が終わって、農耕社会になったとき。次の飢饉を恐れて、米の備蓄を始めた。たくさん蓄えた者が上に立って人を雇い始めてさらに生産率を上げる。土地があればそれだけたくさん生産できるので、さらに戦さや買い上げなどで、土地を広げて石高を上げる。そして王者として周辺を制圧する。王はさらに土地を広げようとする。ざっくり言えば、このようにしてヒエラルキーは成長していったのだ。
世界中にある、士農工商だのカーストだの、貴族社会だのの原型は、この農耕社会の始まりから運命付けられているとしたら、そのあまりにも長い歴史に逃げ道がないようにも思える。

そして、ある種のストレスの源はそこから始まったのではないかと思うのだ。
もちろん猿山にだってボス猿がいるのだから、弱肉強食、強いものが上、という自然の掟はある。でももっと人間だけが作り出した、労働上の無駄なストレスがあると思うのだ。それがこの「余剰をたくさん生み出そうとする、もっともっと上に行こうとする欲ではないか」と思うのだ。

なぜ彼らは、必要以上の食料を貯め始めたのか。なぜ子どもたちは必死に学力を高めようとしているのか。なぜ同僚たちは昇進したいのか。
それはもっと富が。もっと名声が欲しいからではないか。

上昇志向は否定しない。私だって、もっと文章の腕を上げたいと思う。
そして将来のための備蓄も否定しない。だって、老後にお金がかかるのだろうから。ある程度の蓄えも必要だ(おい、特にフリーランス夫婦のおまえたち……)。勉強によって教養を身につけることだって大事だと思う(息子よ……)。
でも、きりがない。「もっともっと」にきりがない。ミリオネアたちは、何でそんなに必要以上に貯めようとしているのか。カルロス=ゴーンはどうして何十億円もさらにほしいのだろう。何百万円のバッグだとか、何千万円の車はなぜ必要? どうして本来生まれ持った学力や能力よりも、もっともっと上の学校を目指そうとするのだろうか。
そこには人を制圧する力が生まれるからだと思う。富も名声も、ざっくり言えば権力だ。尊敬の眼差ししかり、知名度しかり、金しかり、部下の数しかり、わかりやすく「力」が生まれるのだ。
でも、稼ぐほどに偉いという呪縛が解けた今、そんなの私は欲しくはないし……。

だから最近、私は思うのだ。
心を静かにして、自分だけ狩猟採集時代に入ったような気持ちになる。
狩りに出たような気持ちでいる。うまく行く日も行かない日もある。でも今日できることだけに集中する。調子が悪かったら休む。多少の備蓄はする。原始人だって獲った肉を干したりして保存食を作ったはずだ。
お金になるもならないも考えない。生活に必要だから料理して、片付けて、清める。目の前にある仕事を右から左へこなしていく。そうするとスッと家事が苦痛ではなくなる。
遠い将来のことはあまり考えない。何が得か何がお金になるのか、何が損かなんてあまり考えない。

お金を稼ぐこと、貯めること、他人より優れているとマウンティングすることが、働く目的ではないということ。富(稼ぐこと)と名声(誰かに褒めらること)が目的でもない。もっともっと出来るだけ多くを掴み取ろうと思わない。自然には限りがあるのだから。

ノマド、ミニマニスト。そう言う言葉が流行っているのもそういった、狩猟採集時代の心の軽やかさを日常に取り入れたいムーブメントなのではないだろうか。
そう。荷物の少なさや気分的にも、旅をしている自分が一番好きだ。ならば、その身軽さを身につけようではないか。
稼ぐためじゃない。生きるために働く。楽しく、心地よく動くために働く。今日は今日の獲物を仕留める。よくやったと自分を褒めて寝床につく。
そして夜は穏やかに。朝は清々しくなるために尽力を注ぐ。
だって、私は狩猟採集時代にいるのだから。



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今泉真子 mako imaizumi
ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️