私は猫を飼っている。毛並みの美しい黒い猫だ。と言っても、拾ってきた訳でも、わざわざ店で買ってきた訳でも無い。ある雨の日に、どこからともなくこの6畳一間にやって来てそのまま居着いてしまったのだ。私も他に同居人などはおらず、特に追い出す理由も無かったのでそのままにしておいた。

猫は物陰に住んでいる。臆病という訳ではなく、そこが猫にとって一番居心地の良い場所であるようだ。猫というものは従来そういう風なのだろうか。如何せん、家族以外の人間とも動物とも長期間暮らしを共にしたことのない人生なので、私には分からない。

猫は日によって箪笥や机の下など、部屋にいくつも点在する影の中から居心地の良いひとつを選んで、昼間はそこに佇みながらじっとこちらを見つめて居る。私が執筆の合間などに、休憩がてら猫の居る方をちらりと見るとあちらも必ずこちらを見つめて居るのだ。

猫は私に何も見せようとしない。猫と私は見つめ合う細い視線の糸だけで繋がっている。

猫は私が呼んでもこちらに来ることは無い。私が撫でようと手を伸ばすと、するりと避けて別の影に移ってしまう。それなのに、別の影に腰を落ち着かせると再びその眼をこちらに向けるのである。私の事を嫌って居る訳では無いらしく、夜になって灯りを消すと、いそいそと枕元にやってきて毛繕いをしたりもして居る。全く孤独で、可哀想な猫である。

ふと、猫はどうしていつも此方を見つめて居るのか、不思議に思うことがある。私は人間の中でもつまらない部類である。日が登り切ってからようやく目覚めたかと思うと、ろくな食事も取らずに一日中文字を書いて居る。格段面白いという訳でもなく、誰の気にも止まらないような新聞や雑誌の端に載せて日銭を稼ぐための文字である。書き終えると夜も更け切っており、唯一空いて居る近所の居酒屋に向かって毎日同じ物を食べる。友達や恋人は愚か、数年前に母親が死んでから、部屋に訪ねてくる者は配達員か編集関係の人間くらいである。唯一の楽しみといえば、毎週金曜に地元の小さな映画館のオールナイト上映に足を運ぶことだ。そんな人間の何が、それほどまでに面白いのだろうか。

今日も私と猫は見つめ合っている。

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