雨の日の洗濯

週末に大きな台風が来ると友人から聞いていた。それに先立ってか、今日はずっと強くも弱くもなく、生臭い雨が降っていた。私は今日はずっと部屋の中に篭っていたが、窓枠や換気扇の他にも私の知らないありとあらゆる部屋の隙間から、そういう雨の粒子が無数に侵入してきて部屋の中に充満しているのが分かった。どうして3年も住んでいる部屋なのに、私の味方をせずにこういった不明瞭な物を受け入れてしまうのか、と思った。

洗濯籠に4日分の洗濯物が溜まっていた。一人暮らしなのでもともと毎日は洗濯をしないというのもあるが、一昨日洗濯槽の掃除をしたせいで、本来3日に1回のはずの予定が1日狂ってしまっているのだ。このような予定のズレや窓枠の隙間のような生活の中にある小さなもののせいで、1日が鈍く狂わされてしまう日がしばしばある。届くはずなのに来ない郵便や、上手く剥けない茹で卵、寝過ごして出し忘れたゴミ、母親からの不在着信なんかがじわじわと私を苦しめ、自分の存在意義や未来のような下らないことに対する思考に時間を割く羽目になるのだ。今日はそういう日かもしれない、という不安に目を向けないようにしながら、私は4日分の洗濯物を洗濯機に入れた。下着類以外は部屋着とタオルしか無かったので意外と量は多くなかった。漂白剤を入れるはずの場所に柔軟剤を入れてしまった。スイッチを押すと、洗濯機は大きさの合っていない備え付けの台の上でゴトゴトと音をたてて動き出した。

洗濯機が洗濯物を洗っている間に、ゼミで習った個別性と特異性の違いについて考えた。個別性は結果的にそれを選択したことになるが代用可能な性質で、特異性は意図して選択した(又は与えられた)代用不可能な性質のことである。事物の個別性や特異性は当然人によって異なり、またその人の中でも同じ対象に対しての認識が二つの概念の間を行き来することがある。自身が今、対象に対してどちらを当て嵌めているか、というのは本人しか知り得ない為、他人が自分にどちらの性質を当て嵌めているかを知る術は無い。しかし人間は、自分の中で特異性を持った事象が他人にとっても特異性を持っているとか、対象が人間の場合相手も自分に対して特異性を持っているとか、そういう風に期待する。それらは関係性に小さなズレを生み出して、崩壊させるか、またはズレを繰り返しながらギリギリの均衡を保ち綱渡り的に継続させていく。自分という存在が特異である限り、人間関係においてこの仕組みからは抜け出すことが出来ない。私は今まで自分を個別として認識しようとしてきたが、あまりにも反自然的で死に直結する考え方のような気がする。無償の愛があれば解決するとか臭いことは言いたくないが、この先生きていくとしたら思考回路を見直す必要があるし、案外、無償の愛即ち相手に全く期待しない術は楽に生きていく上で正しい選択であるのだろう。部屋の隅で飼っている蜥蜴を暫く見ていた。

ピー、と洗濯機の音が鳴った。洗い上がったばかりだと言うのに、4日分の洗濯物はちらりとも明るい表情を見せず、硬く湿ったまま沈黙していて嫌気がさした。雨は降り続けていた。部屋の隅に物干し台を広げた。この物干し台は一人暮らしを始める際に実家から持ってきた物だが、六畳の部屋には明らかに不釣り合いな大きさをしており、洗濯の日には私の生活スペースを大幅に奪って良い気になって居る為、これを広げる必要があるというだけで私の中で洗濯は億劫なものになってしまった。そんな宿敵の物干し台に、薄い粘土のようになったシャツを干している時にふと、得体の知れない不気味な感覚があった。雨の日の、それも薄暗い時間帯に4日分もの洗濯物を干しているからだろうかと思ったが、それだけでは無い。窓の外も、雨の粒子が充満した部屋も、洗濯物も、私以外の全てが濡れていることに気付いたからだ。孤独が、濡れたシャツを通じて私に浸透した。手のひらから腕へ、腕から肩へ、肩から胴体へと、孤独が広がっていき、とうとう耐えられなくなった私は生臭い湿度を受け入れ、灰色の世界の一部になってしまった。特異性など無い、ただの濡れた物体が部屋の隅で蹲っていた。一度受け入れた生臭い湿度は、長い時間私の中に居座るのだろう。しかし、週が明けると無情にも雨は上がり世界に湿度は無くなってしまうだろうし、洗濯物も、部屋の中も、きっと私だけを取り残して乾いてしまう。私から湿度が抜けきった頃には、また台風が来る。少しのズレが蔓延した世界は最初から私を特異だとは思って居ない。与えられた特異から逃げられないと藻掻いているのは私だけだった。物干し台が、私を見下ろして笑っていた。

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