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強がらせて。

最後は傷ついて終わるとわかっている関係に手を出してしまう愚かなわたしのことを、わたしはやっぱり嫌いになることができなかった。生産性のない関係を心地よいと思っていたのは、わたしだけだったのかもしれない。最初からずっと、傷つくタイミングを先延ばしにしていただけだった。あのときのわたしは、いつか必ず泣いてごはんの味がしなくなるであろう'未来のわたし'にごめんなさいと手を合わせながら、深い夜に陶酔することを選んだ。そのツケが回ってきただけ、因果応報、自業自得、おとなになったわたしはむやみに世界を恨んだりはしない。

自分のせい、そんなことはわかっている。

これ以上底に沈むことを選んでしまうと、わたしはきっと自力では元の世界に戻れなくなってしまっただろう。そうなる前に、自分のちからで、正しい世界に戻ることができたんだ。そう思うことしかできない。そう思うことくらい許してほしい。

正しいって何、おとなとして正しい選択をしていればしあわせになるのか。人生はうまくいくのか。そんなことない、そんなに正しく正しさを選べない。人間ってそういうものだと、思っていたのはわたしだけだった。


浮かんだ飽和のようなわたしたち。始めたときからずっと、これ以上はなにも求めていなかった。欲しがること、それ自体にすら背徳感を覚えるような関係に幸せなんて含まれていないと思っていた。わたしはいつの間にか、飽和を噛むことにしあわせを感じられるようになってしまっていた。始めた瞬間から終わった今日まで、なにひとつ満ちていないし、なにひとつ欠けていない。


嘘みたいな話だけれど、関係が終わったその朝、目の前の三叉路でヤクルトレディが跳ねられた。気づいたら肌に触れる風が冷たくなっていて、急に冬が始まっていた。そんな朝だった。なんだか嫌な予感はしていた。かたちあるものはいつかなくなるらしい。かたちないものだっていつかはなくなるし、なくなるときのことを考えながら始めるダサい人間にはなりたくなかったし、こうやって意地ばっかり張っているからぐちょぐちょの気持ちをnoteで吐露する25歳が出来あがってしまうんだよな。

朝5時に起きて用意したお弁当をデスクで食べているお昼休みにラインが鳴った。別れを告げる挨拶だった。やさしいオブラートに包まれた言葉たちを咀嚼するうちにお弁当の味がしなくなっていった。それと同時に、心臓がひゅっと凍り付くのを感じた。オブラートは都合が良い。包んだ側の人間は自分のやさしさを差し出せるけれど、わたしが受け取ったときには、それはもうほとんど溶けていた。

後悔はしていない。こうなることはわかっていた。むしろ、思っていたより早く訪れた「おわり」にありがとうと伝えたい。もし、今日よりも寒い日に別れを告げられていたら、冷えてしまった心の温度はきっと、そう簡単には戻らなかっただろうと思う。いまならまだ間に合う。いまならまだ引き返すことができる。痛みを最小限に抑えることができた、それだけだ。「始めるのに遅すぎることはない」ように、終わるのに早すぎることはない。


嘘です。強がりました。いまでもだいすきです。



久しぶりの投稿、わたしは何も変わっていません。
それではまた。

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