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2025年エレファントカシマシ新春コンサート

本年は幸運に恵まれ、ありがたくも1月3日と4日の両日観覧を果たすことができた。新春に聴くエレカシは一段と素晴らしく完璧なコンサートだった。素晴らしく、そして音楽で物理的に殴られたような感覚。まるで応接間のでかいガラスの灰皿でしばかれたような衝撃があった。後からあとから言葉にならない余韻に襲われてヘロヘロだ。今まで様々なライブを観てきてこんなの初めて。心は混沌としたままだが、忘れないために書き残したい。

定刻通りに暗くなり、いつも通り静かにステージに現れるメンバー。幕開けの曲は「大地のシンフォニー」、宮本の新年歌い始めの言葉は<孤独な心に>だった。空気の緞帳が上がっていくような感じ。両日共に後方席で二日目は最後列から観覧したが、まるで目の前で歌われているような密度の歌声。穏やかな歌詞を一言ずつ反芻しながら聴いた。

バンドの最高を粛々と更新した今年の新春コンサートの中で、私の印象に強烈に残った事が二つあった。一つは「シャララ」から「今宵の月のように」の流れだ。

「シャララ」はサビの途中、歌われず演奏だけが流れていく場面もあり、これも大変素晴らしかった。サイケデリックさと折り目正しさ、まるで流れていく時間が可視化されるような演奏。宮本の歌も無くストリングスが重なりつつも非常にエレファントカシマシの音楽だった。その事にもとても感動した。

ストリングスの規則正しく美しい音、バンドの真摯な演奏、そして明るい照明の下で目も口も思い切り開き「俺の生活は」と叫ぶ宮本の声と表情。全てがぴたりと美しく合致していた。クラシックやこれまでの様々な音楽が合わさった、生きた伝統音楽のようにすら聴こえた。宮本の頭の中にずっと鳴ってた「シャララ」はこんな曲だったのか!とびっくりした。どの時代の人にも新鮮な感動を与え続ける曲、百年先にも生きる歌だと思った。宮本はとんでもない音楽家だった。
曲が終わり、ワッと拍手喝采が上がったと記憶している。私もバンザイしてものすごい笑顔で拍手をした。

すごい、すごい、と初めての音楽の体験に大興奮していると、次はギターを軽く鳴らして「今宵の月のように」の最初のフレーズを、つい今しがたとはうって変わった柔らかい歌声で宮本が口ずさむ。そしてアコギを鳴らしながら、正式に曲の頭から宮本が歌い出した。

<くだらねえと呟いて 醒めたつらして歩く>
<いつまでも続くのか 吐き捨てて寝転んだ>

これらの言葉が、かつてない程にくっきり胸に飛び込んできた。あ、「シャララ」の人の歌だ。と思った。

「シャララ」で<常識と共に俺は心中するつもりだ>と世間を睥睨する人には<愛を探しに行こう>という輝きがあり、「今宵の月のように」で<いつの日か輝くだろう>と月を見上げる人は<暇と酔狂の繰り返し>の中で生活を背負い立っている。
ちぐはぐのようで表裏一体、めっちゃ素晴らしい人間の姿だと思った。「今宵の月のように」を聴きながら、私は今までとは違う涙が出たのだった。改めて曲に出会った気持ち。
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そして二つ目の大きな出来事はコンサートの最後、私の心をどうしようもなく揺さぶった2曲があった。「男は行く」と「待つ男」だ。

「男は行く」はエレファントカシマシのグルーヴに溢れている。アルバム「生活」の、宮本の強烈なエレキギターの音。ギリギリの阿吽の呼吸で繋がっていくバンド演奏と、歌か叫びか判別がつかない様でありつつ、どうしようもなく音楽的な宮本の歌声。聴く毎に心の底からしびれる。その曲が今演奏されている。宮本の激情を失わぬギターと、何とも有機的な演奏がはまった瞬間はいつだって予測不能な恰好よさ。

<ビルは山の姿を見せ 群れは孤独に気付かしむ>という一節が私は床の間に飾りたいほどに好きで、この時の大画面に映るくわっとした表情と声を胸に焼き付けた。聴く度に山が眼前にそびえ立ち、寂寞とした風が吹いてくる。宮本の「行けえええええ」で曲が終わり、私はまた手が痛くなるほどに拍手をした。ああかっこいい。かっこいい。

再びのアンコール、先程と同じ黒いシャツの前を開いた宮本は気迫を漲らせている。その様子に、拍手で迎えていたこちらも背筋を伸ばす。成ちゃんのベースの第一音に[うわ、「待つ男」だ!]と息を飲んだ。トミのドラムが重なり、ギターの音がうねると同時に宮本の声がバーンと振り下ろされる。観客は一気に音の荒波にさらわれた。歌声が実体を持ってそこにいるような宮本の姿。途中から私は大画面もステージも見ることなくただ音を全身で聴いた。めちゃくちゃでかい声で、めちゃくちゃすごい気迫の、世界に一つだけの心に響く叫びを聴く。

<ちょっと見てみろこの俺を 何にも知らないんだこの俺は>

歌い出しから完全にしばかれる。なんなん、ソクラテスか?そんなせせこましい感想も全部なぎ倒して、焼野原にするような歌と演奏。全身で歌う宮本からは狂気や死に物狂いさは感じない。宮本だけが台風の目の中にいるような静けさまである。一人の人間の歌声に吹き飛ばされそうになりながら、私は頭の中をぐるぐる巡らせる。

「シャララ」から「今宵の月のように」で感じた、愛を求め覚悟を胸に生活を営む姿。今日歌われていた、様々な人生の場面を包容するような歌詞や、聴く人の心に勇気を灯もす歌、そして「男は行く」で眼前に浮かび上がった、一人立とうとする人間の孤独と美しさ。

「待つ男」は、それらの宮本の歌が描いたイメージも全部まとめて薙ぎ倒して破壊するような歌声にも聴こえた。圧倒的な破壊っぷりに呆気にとられ、そして[こんなに美しい歌があるのか]と泣けた。先ほどの「今宵の月のように」を聴いた時とはまた違う種類の涙だった。

私は、宮本の歌にはものすごい愛があると感じ、SNSでもそう呟いたこともある。しかし私は[愛]という言葉を、何でも解決する印籠のように、体裁の良い言葉として使っていたのではないか?宮本の「待つ男」の圧倒的な声は、そんな小手先の[愛]なんか一瞬で吹き飛ばした。徒手空拳、全くの丸腰になって歌を聴く。ああー、私は愛のこともよくわかってないし、宮本のことももちろん一つも分からない。そもそも人間世界のことを私はまだ何も分かっていないぞ、と、バーンと鈍器で殴られたような気持ちになったのだった。

ゼロになってふり出しに戻った私はただ宮本の怒涛の歌声を聴き続ける。どうしてこんなに美しく聞こえるのか、と必死に聴く。それは、宮本の歌声の向こう側・破壊の果てに、真っさらで懐かしい何かがある気がするからだ。

優しさや喜び、悲哀や怒り・落胆やいらだちも全て等しくあるものとして歌われているような声。あらゆる感情の純度が高く振り切れて、もはや凪いだ水平線みたい。宮本は歌で破壊と創造を数えきれないほど繰り返す。そんな容赦無く途方も無い営みの後、僅かに残るものは<ココロの奥のやさしさ ※>や、あえて言葉にすると[愛]みたいなものかも知れない。そう想像すると、やはり宮本の歌は恐ろしいほどに優しく、愛そのものなのかもしれない。地獄の底を撫でながら、日常の景色や名も知らぬ人の中に何気ない愛を見つけるような、とんでもないやさしさなのかも知れない。

私は、愛とかやさしさとか諸々全てのわかったフリを再び放棄して、ただ圧倒的な美しい歌を浴びた。

この瞬間の私が愛について分かることがあるとするなら、宮本は自分の曲達を愛していて「待つ男」もとても愛している、という事だ。そして私もこの曲がとても好きだ。
なぜ私は「待つ男」を初めて聴いた時からずっとこんなに好きなのか。

まず声がでかくてとにかく気持ちいい。一言ずつが遅い豪速球みたいにこちらの胸に風穴を開けてくるのが痛快極まりない。知ったフリするな、慌てるな誤魔化すな、愚かな自分を誇れ、と聴こえてくる。<誰も俺には近づくな>と歌うが、バンドの音は強固で歌と運命共同体のように響き合う。孤高だが決して孤独ではない音。大好きだ。

宮本の歌声と石くんトミ成ちゃんの演奏を浴びて、頭からつま先までサーッと自分が真っさらになっていく感じ。この瞬間この感覚に、全てがあると思った。宮本はこの曲が大好き、私はこの曲が大好き。最高だ。これ以上のことはない。

ものすごいコンサートだった。全部破壊されたし、全てがそこにあるような瞬間もあった。愛もやさしさも人間も何も分からない、ゼロだという事を知った私の前に、宮本が歌で垣間見せるものすごいでかい[人間の扉]みたいなものがドーンと出現した感じがする。めっちゃくちゃ重たいそれに、今回のコンサートで私は思い切りぶち当たって転んで満身創痍になった。前まではその扉に気づかなかったから、ぶつかることも無かったのだ。私は自分の日々を暮らし、人や世界につながるその扉に手をかけて少しでも開きたい。自分の[好き]という気持ちを大切にしたい。そして<愛を探しに行こう※※>という言葉を胸に生きたい。

今日もとんでもない衝撃は残っている。まだ消えないでほしい。この扉から手を離したくない。

本当に素晴らしいひと時をありがとうございました。

※ココロの奥のやさしさ:エレファントカシマシ「クレッシェンド・デミネンド‐陽気なる逃亡者へ‐」歌詞

※※愛を探しに行こう:エレファントカシマシ「今宵の月のように」歌詞

文章内「」括弧は曲タイトル、<>括弧は歌詞引用です。




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