新型コロナの時代に想うこと(1)・・・はじめに
今は2020年の5月。緊急事態宣言の真っ最中である。この数ヶ月、ほとんどの人々の頭の中の7−8割、あるいはそれ以上を新型コロナウイルスが占めているのではないだろうか。私たちの日常というものは消え去り、新常態(ニュー・ノーマル)という言葉が語られている。私自身は他の人々と同様に、単にこの時代を過ごしてきた一般人にすぎない。感染症に関する専門的知識は持ち合わせていないし、経済学の専門家でもない。したがって私がこの問題を語ることで何らの新たな発見もできないし、また専門家の語っていることを擁護も批判もできるものではないことは自覚している。
なぜ素人の私が新型コロナについて書くのか?
しかし、それでも自分の考えていることを記しておきたいと思った。一つには自分の考えを整理する手段として書き出すことは適切な手段だと考えたからである。私自身はこれまでの習性として他の人と会話や議論をしながら自分の考えを整理するという癖を持っていると思う。周りの人達は私自身が最初から考えて議論していると思っているが、実は会話の中で考え方を整理し、意見を構築していることが多いと感じている。言い換えれば、人が外から考えるよりも私自身は自分の頭が良くない、と自覚している。しかしながら自粛のテレワーク環境で皆が非常に効率的に仕事をしている状況では残念ながら会話の相手を見つけることはできないし、考え方を整理する環境を別に見つける他ない。もう一つの理由としては、このコロナの状況について何とも言えない「違和感」を感じているのだが、その「違和感」を探究するためには、自分に何らかの義務感を課すことが必要ではないか、そうしないとずっと「違和感」を持ったままモヤモヤとした日常を過ごすことになるのではないか、という懸念に対する回答として、考えていることを書き記すというものである。以上が、私自身が本稿以降、新型コロナの問題について書き記すことに対しての言い訳である。
「違和感」の端緒
新型コロナに関しては数多くの専門家が毎日自説を並べている。ある人は全員にPCR検査をすべきだと唱え、他の専門家はPCR検査は発症者に対してのみという。ある人はマスクは不要だといい、別のコメンテーターはマスクは必要だという。どうしてテレビに出る一流の専門家の意見が相違するのだろうか。彼らが意見を構築するのには彼らのこれまで獲得した知識や経験に基づいており、それ自体は恐らく根拠のあるものだと思う。しかし、主観的真実と客観的真実は往々にして無関係なものであるという事象を私自身は今までの業務経験の中で痛いほど感じてきた。私は訴訟関係の仕事をしていたことがあるが、アメリカの民事訴訟においては当事者や関係する証人に対して、相手方の弁護士が尋問するという手続(証言録取・deposition)がある。そこで得られた証言は、後の公判で使われたり、他の証人を尋問するのに利用されたりするのだが、多くの場合証人は一見相違える証言をする。なぜなら、それぞれの証言の前提となる仮定や状況が時々によって異なるからである(この証言録取という手続の大きな目的の一つは、そのような証人の誤解に基づく証言を得るためであるともいえよう。)感染症の専門家の方々の発言も、それぞれが拠って立つ前提・仮定・立場を反映しているのだろうが、テレビの時間枠ではそれは明らかにされることはなく、また発言者も丁寧に前提認識を共有してくれることは稀なので我々視聴者は多種多様な専門家の意見を聞かされることになるのではないだろうか。
事実を見極める
この新型コロナ問題について考えるときに重要だと思うのは、事実を見極めることに努める姿勢だと思う。ここでいう事実とは、真実という意味ではなく、世の中の数多あるものから事実ではないものを排除したもの、というのが適切かもしれない。そういう意味で、「真実らしいこと」に飛び付きたい欲動を抑え、多数の「事実らしいこと」は存在を認めてそれを許容していく思考が必要になると思う。