新型コロナ時代想(緊急編)・・・8割削減の効果の評価は何を目指すのか?

これまで、新型コロナが我々の生活にどのように関わり、社会環境を変えてきたかについて個人的な視点で振り返ってきた(まだ3月半ばまでだが。)しかし、ここにきて「緊急事態宣言下での8割削減は妥当だったか?」を評価するという動きが出てきている。この動きに対して個人的に非常に危機感を抱いているので、時系列的な振り返りとは別にここで一言提言したい。

ここで、私が言いたいことは要約すると次の点である。
1. 振り返り評価の目的は批判・責任追及ではなく、今後の対応の際の判断材料とするためであるということを明確にすべき。
2. 危機対応の評価は「当初、回避を目指していた最悪の事態」と「実際に起こったこと」を厳密に見て行うべき。また、考慮すべきはそれぞれの時点で存在していた信頼できる情報・知見であって、後知恵は徹底的に排除しなければならない。
3. 適切なプロセスを経て危機対応を担った人達を責めてはいけない。
4. まだゲームは始まったばかり。結論を急いではならない。

1. 危機管理における振り返りとは

2月中旬以降、日本の新型コロナ対策のリーダーシップを表現してきた専門家委員会が解散されるのと時を同じくして大阪府知事や色々な方面から接触機会8割削減の要請や、緊急事態宣言下での営業自粛の効果について検討するという動きが出てきた。危機管理の対応においてとられたアクションを、事後的に評価するということは非常に重要なことである。ただし、その際には留意しなければならないことがある。それは『評価の目的は今後の「より良い」対応のためであり、それ以上のものではない』ということと、『評価の前提となる情報・知識・経験はアクションの判断を行なったその時点でのものに限定しなければならない』というものである。そして、最善手と悪手の間の様々なオプションを認めるべきであるということである。

使っていいのは”そこにあるもの”だけ

危機管理のお手本になる映画として、トム・ハンクスの「Apolo 13」をよく題材に挙げさせてもらっている。話中、CO2フィルターの問題が生じた時に司令船用のフィルターを着陸船に装着する方法を検討するシーンがあり、「船内にあるものだけ」で実現すること、という命題がチームに課される。当たり前のように思えるが、批判を前提とした評価においては往々にしてこの点は看過されてしまう。8割削減の判断を評価するのであれば3月下旬から4月上旬における知見をもとに行うべきであり、そして次に現時点での「新たな知見」に基づいて判断するとすればどういう結果になるのか、という評価となる。(映画の例では「次に宇宙船を作るときはフィルターを共通化しよう」ということになるかもしれない。)

2. 3月末に目指していたことは何だったのか?

3月末の段階で私達の目前にあったのは「感染爆発を起こさないこと」であった。言い換えれば、「イタリアやニューヨークのようにならないこと」である。この感染症に関しては感染経路から重症化の程度、死亡率等、色々なことが分かっていなかった。性別・人種・血液型からBCG接種株の相違まで様々な要素が影響を与えうる候補として提示はされているが、それらに依拠して信頼できる対策を実施できるまでには至っていなかった。したがって、危機対応としてはその時点で想定できる最悪の事態を前提にそれを回避するための対策を実施していくしかない状況だった。その時点では志村けん氏の死去などのショッキングな出来事もあり、「命があれば経済は何とかなる」というのが一般的な風潮であったし、感染拡大で重傷者・死者が増加すればそもそもそれ事態で経済への悪影響が甚大なものになると予想されていた。そういう前提のもとで緊急事態宣言が発出され、自粛が実践されて当面の感染爆発が回避された、というのが現状である。つまり、この3ヶ月で私たちの国は、当初願っていた目標を辛くも達成できた、というのが現状なのである。そして、私見ではあるが経済は縮小したが思ったほどではなかったと感じている。日々のニュースでは収入がゼロになった人の事例が色々取り上げられているが、幸いにして多くの企業の活動は継続しているし、自粛中も日常生活のための社会システムは支障なく機能していた。

3. 一所懸命・真剣に対応している人たちには罪はない

危機管理と性格づけられる状況においては時々刻々判断が迫られる状況にある。そして多くの場合対応者は「対応せざるを得ない状況」に追い込まれている。国際線の飛行機内で「お医者様はいらっしゃいませんか」という放送に出会したことがあるが、その時には最終的に看護師の方が手をあげて対応されていた。閉鎖空間の医療緊急事態においてはそこでの最善を目指さざるを得ず、看護師や歯医者であっても何もしないよりはマシなので彼らがとった処置をプロの外科医の基準で判断してはならないのである。なお、お医者さんの間では手をあげて問題が生じた場合の責任が厄介なので搭乗していても手をあげないということもあると聞いたことがある。また、危機への対応者を選択できる状況においては、その選択に対する責任(マリア像の修復をなぜ素人に任せたのか?等)は追及することはありうるが、任された対応者はやはり同様にその知識・能力・経験の中での最善を尽くすしかない。

4. 実は、状況は何も変わっていない。

今のところ、6月末の時点では日本の感染危機管理は機能しているように見える。これは致命的な悪手はなかったということだろう。3月末の段階で、例えばBCG免疫に依拠して、あるいは集団免疫を目指して何らのアクションをも取らない、という選択をしていたとすればそれは致命的な悪手となっていた可能性がある。しかしロックダウンとは程遠いと批判された緊急事態宣言や「三密」といった広報対策であっても、それらは今日の結果に肯定的な影響はあったとしても害があったとは思えない。
なお、8割おじさんに騙された、などと言う人は物事の本質を見ようとしていない。彼は40万人死ぬと保証したわけではない。可能性を計算を使って示しただけである。そしてその可能性は今もまだ否定できないのである。

実は3月末の段階と今とでは根本的に状況は改善していない。感染を抑制するワクチンや治癒に向けた特効薬は実現できておらず、医療体制の余裕度が増えているかもしれないが、80万人の重症者に対応できる体制が構築されたわけでもない。少しでも油断すれば、日本は感染大国になりうる。もし私が3月末に何らかの理由で突然昏睡状態に陥り、6月末に急に目覚めたとする。そして見舞客に「そういえば新型コロナはどうなったの?」と質問をして教えてもらったとしたら「なーんだ、何も変わっていないんだ」という感想を持つだろう。感染症対策という観点では”当初の予定通り”感染拡大のペースを緩やかにしただけで問題の解決には至っていない。従って今ここで行う判断は3月末に行う判断と本質的には異ならないのである。

科学的知見だけではなく、社会的受容度も変化する

上のように述べてきたが、実は3月末から変化してきたことがある。それは感染対策が経済に与える影響への許容度である。3月末においては感染=悪との価値設定から、感染およびその対策とそこから生じる経済上の悪影響をバランスして考えることが許容され出した。この変化には単純な自粛疲れや、自粛による経済的余裕の減少のほか、3ヶ月間の対策が奏功した結果、当初危惧していた最悪の事態が現実のリスクとして感じられなくなってきたこと、などが寄与しているのではないかと思う。つまり、それは1ヶ月半の緊急事態宣言下の生活を経て醸成されたものといえよう。従って、「だから最初から自粛はするべきではないと言っていただろう」という結論には首肯できない。

しかし、前述の通り自体は何ら改善していない。感染症対策はあくまでも科学の前提を無視して行われるべきものではない。未だ危機が解消せず、引き続き感染爆発の可能性が存在している状況において、今後の対応の際に決断力が鈍ることがないように我々は常に注意していかなければならない。(西村大臣が「緊張感を持って」といっているのがそういう意味であれば良いのだが。)

鬼の首を取ってはならない

このような事後的検証において、外野から「だから言っただろう」と雑音が入ってくる。例えば3月の段階でも「ロックダウンで感染による死者が減っても不景気で自殺者が増える」と主張する人達が居たが、今になって感染拡大のペースは緊急事態宣言発出前に下降フェーズに入っていたというような情報をベースに、自粛すべきではなかったなどと主張しはじめている。また西浦教授がシミュレーションに使った基本再生産数2.5という数字が実際には過大であったという批判もある。しかし、これらは一見正しいように見えるが、全て今から振り返っての後付けでの議論であり、彼らが当時主張の根拠として信頼できる情報を持っていたわけではない。このような議論の目的は単に自説の正当性を遡って主張し、自らのプレゼンスをあげることが目的のように思われるので、今後の対応への参考にできる程度を超えては全て無視すべきである。


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