「歌で世界がつながる、歌であなたの世界が広がる」アーティスト寺尾 仁志さん
関西地域を中心に、全国700人のシンガーで
構成されるhuman note代表の寺尾 仁志さんに、お話を伺いました。
プロフィール
活動地域 大阪を中心に関西全域、東京、熊本、福岡
経歴 1990年代初頭 シンガーとして活動スタート。2002年、それまでのアカペラ、ゴスペルグループでの経験を経て、シンガーソングライターとして活動を始め現在までに4枚のアルバムをリリース。
1998年からは、ラジオパーソナリティ―としても活動を始め、ラジオ関西、FM滋賀、FM大阪、FM和歌山で自身の番組を担当する。
2007年 human noteを結成。メンバーは700名で構成され、歌を通して人とつながり、ウタの持つ力を持って、日本中・世界中をウタでつなげることをミッションとして、日々歌い続けている。
座右の銘 「夢は予定にするもの」
記者:本日はよろしくお願いします。
寺尾さん(以下敬略):よろしくお願いします。
寄り添う歌と合唱のスタイルで、気持ちが通い合う本当の SNSをつくりたい
記者:まず初めに、寺尾さんの夢やビジョンを教えていただけますか?
寺尾 :僕がメンバーに言っているのは、「歌で世界がつながる、歌であなたの世界が広がる」ということです。世界というのは、ワールドという意味でもあるし、例えば、被災者の方々やハンディキャップを持っている方々など色んな方々の世界と繋がるということでもあります。
色々な世界が全部つながっていくこと、そしてhuman noteの中にいる1人ひとりの世界が広がっていく。
年齢も性別も環境も違う一般の市民たちが、日本語のオリジナルの曲を創って、それを合唱で表現するという音楽スタイルは、日本の中ではまだまだ確立されていないので、日本の中でのクワイアスタイルのミュージックシーンを確立させたいという想いもありますね。
大事なのは、このヒューマンノートというプロジェクトに関わる一人ひとりが、関わることを通して幸せになること。僕自身が思う幸せというのは、夢があること、つながりがあること、そして一番大事なのは成長があることだと思っているんです。
日本は特に年齢に対してのイメージがあるけど、いくつになっても夢とか成長していきたいっていうことを声を大にして言える、そんなチームにしたいなと思っています。
今 SNSとかのつながりはあるけど、“一緒に歌って練習して、同じステージに立って誰かを励ます”という経験が、一番気持ちが通い合う関係性ができると思っていて。
もちろんスキルも大事だけど、ちゃんと人の気持ちがつながっていくことが何より大事だと思うので、そうやって本当の SNSというのをつくりたいですね。
ヒューマンノートの音楽は、調和というか寄り添う気持ちからつくる音楽なので、本当に日本人に向いている音楽スタイルだと思いますね。
それぞれが「ヒューマンノート(人間の音)」を表現するチームを目指して
記者:特にどういった所が日本人に向いていると思いますか?
寺尾:合唱というスタイルが日本人に合っていると思うんですね。調和の中に個も存在するというような和のイメージです。
例えば100人でステージに上がって、前から5列目の左から5番目に立たされたら、内心チェッと思う人もいる。だけど僕は、「どこで歌おうと、自分になにができるか」を考えられるチームを目指したいと思ってるんですね。そっちの方が一人ひとりがかっこいい。
そのためには「考動力」が大事です。考える力。それをみんなに理解してもらって、みんなでつくる音楽が目標です。そこにはスキルとかはあまり関係ないんですね。
だからみんなに言うんです。大勢の中に入っても、そこにまぎれるなよって。
ステージのどこに立っていても「私、ここで歌ってます!」っていう風に歌ってねって。
それが「ヒューマンノート(人間の音)」という名前の意味だからって。
記者:なるほど。1人ひとりが自分をどう思って、どんな風に表現するのかで、チーム全体しての歌がまったく変わる気がしますね。
寺尾:そうなんです。だから、教育と成長が鍵なんですよ。こんなに大勢いたら「私は口パクでもいいか」って思う人も中には出てくる。
そこで気づいて練習してくる人もいるし、辞めちゃう人もいる。でも、ヒューマンノートのイズムがわかってきたら、お互い「練習して」とか言い合えるようになってくるし、伝える側も「どうやったら伝わるのか」を考える。そうやってお互い成長ですよね。
それは、根本的に人間が求めているものだから、そういう関係性が溢れるようにしたいですね
「頑張れ」と言われるより、誰かに言う方が元気になれる
記者:ビジョンに向けて、どのような目標や計画を持っていらっしゃいますか?
寺尾:そうですね、例えば僕たちは、東日本大震災で被災した南三陸町とか、アフリカのケニアやネパール、ハイチなど世界の被災地などに歌を歌いに行っています。
ヒューマンノートというグループにいることで、実際にケニアに行かなくても、熊本に行かなくても、そこにいる人たちと繋がることができるんです。南三陸町とは、9年間つながりを深めてきているのですが、2021年からコンサートをしていく予定になっています。
先日は熊本の被災地でコンサートをしました。
コンサートのタイトルは「Sing from KUMAMOTO 熊本から元気を発信する」なのですが、そのコンサートをする前に、世界中も熊本のこと思っていますよというメッセージを込めて「Sing for KUMAMOTO」という映像をつくって流したんです。
僕らの考え方は、「頑張れ」と言われるより、「頑張れ」とい言う方が元気になれる。だからFromなんですね。
熊本から元気を発信するから、熊本が元気になれるよねと。とは言うものの、その前に日本中、世界中が熊本のことを思っているよ、っていう映像をまずつくったんです。
震災から3年経って、今熊本にアーティストが誰か来てくれるかっていったら、正直誰も来てくれない。けど、僕たちは今からやろうとしているところに、熊本の方がすごく共鳴してくれて、県知事も参加してくれました。
こういう活動を熊本でも、今年7月からは仙台や広島でもやっていこうと思っています。こうやっていろんな形でつながりをつくること。そしていい音楽をつくっていくことが、これからやっていくことですね。
例えば、歌詞のないスキャットだけ、ハーモニーだけで音楽をつくるとか、合唱の中のいろんなジャンル、ブルガリアンコーラス、アフリカンコーラスなど、合唱の可能性を追求していきたいとも思っています。
記者:そのような目標計画のために、どのような活動指針を持って活動していらっしゃいますか?
寺尾:まず、内側の活動指針としてはヒューマンノート700人のメンバー、一人ひとりの理解ですね。
それぞれモチベーションが違うから、それはそれでいいんだけど、何をやってるグループなのか?を理解はしてほしいなとすごく思っています。
普通の音楽教室、ゴスペル教室となにが違うのか?って言うと「ビジョンをもって成長していくグループ」だということ。月謝もレッスン料という形ではなく、このヒューマンノートに所属する、という参加費ですよと伝えてお金をもらっています。
これは震災コンサートで600人で歌っている映像なんですが、ステージで歌うことで、顔が変わってくるんですよ、本当に。
自己肯定感が低かったり、自分を認められないような人も結構いるのだけど、ステージに上がって歌うことで、自分のセルフイメージが上がったり心が踊ってくる、ワクワクしてくる。
僕自身は、最終的にこの人たちのためにこの活動をやっているなと思います。
そして、外の活動に関して言えば、特に被災地を訪れる際に気をつけていることは、基本的には僕らが勝手に被災地に行って歌うんじゃなくて、その被災地の方々と一緒に歌うということです。そこに意味があると思っているんですね。
被災した人にとって、歌や音楽が癒しや元気を与えるっていうのをずっと見てきていて、「嬉しいわ」「ありがとう」って言ってくれるのが自分たちの喜びでもあるので、そういうニーズがある限りはやっていきたいなと思っています。
そしてその際に、例えば震災から4年目の熊本のフェーズ、南三陸町は来年から震災から10年目のフェーズ、神戸は今年25年目というように、それぞれにフェーズがあるから、被災地の心情や現在をちゃんと汲み取ってやらないと、ものすごく独りよがりなコンサートになってしまう。
だから、被災した方々の気持ちを知ること、どう寄り添えるかというのをきちんとヒアリングすることを大事にしています。
実際に2012年、震災から1年後のハイチに行った時に、日本から送られてきたものすごい数の千羽鶴を現地の人が「これ何?いらないって言っておいて」と言われたことがあったんです。
日本の人は一生懸命ハイチの人のためにって思ってやっていることが、残念だけど自己満足になってしまっている。被災地ってそういうことがいっぱいあるんですね。
現地のニーズは時間と共に変わっていくから、「何が必要とされているのか」の正確な情報と話し合いがない中で、「寄り添う」とか思ってしまうのが一番怖い。
だからこそ、ちゃんとお互いを知って、僕らが何をしようとしているのか?も理解してもらった上で、共に歩んでいくことが大事だと感じています。
人の気持ちに働きかけられるのが、文化芸術の力
記者:なるほど。他に長年にわたって被災地での活動をされる中で、どんなことを感じましたか?
寺尾 :最初に感じたのは、阪神淡路大震災から10年やってきて、震災から15年目の2010年に1回目のコンサートを初めてやった時に、ステージ上で「神戸の街は10年でみごとな復興を遂げた!」ってバーンと言ったんですよね。
でもそのあと、ある被災者の男性に「まだ借金2000万円抱えて苦しんでるんです」と聞いて、「本当の復興ってなんだろう」って思ったんです。街が綺麗になることが復興なのかな、って。
被災してご家族を亡くされた方々からすると、何年経っても、何十年経っても悲しい気持ちは消えることってないから。
文化芸術の力って、そこに作用すべきだと思ったんです。そして、復興って何だろうと考え続けることが大事なんじゃないかと思いました。
被災された方々は「忘れられるのがすごく怖い」って言うんです。復興のためにお金を渡すとかいうことはできなくても、忘れないことで喜んでくれるのなら、忘れないようにしよう、って。
そしてやはり歌はエンターテイメントなので、いかに悲壮感なく共にできるのか、が大事だなとも思っています。
衝撃を受けた映画音楽との出会い
記者:寺尾さんがそもそも今の夢を持つようになったのはどういったきっかけがあったのですか?
寺尾:音楽との出会いは、10歳の時に姉の部屋で「グリース」という映画のサントラでジョン・トラボルタとオリビアニュートンジョンのサウンドトラックを聞いて、衝撃を受けたんです。
「音楽ってすごいな」って思って、カセットテープで何度もなんども聞いていたんです。とにかく聞くのが好きだったんですよね。
高校生になってバンドを組んで歌を歌ったら、「歌上手いね」って言われて、歌を歌うのが楽しくなったという感じですね。もともと歌うよりも、聞くのが好きですね。
それで、17歳の時に歌手になろうと思って、アルバイトをしながら歌を歌っていて、23歳の時にアカペラグループをつくりました。
そのアカペラグループをやりながら、26歳の時にはゴスペルクワイアに参加し、2000年30歳の時にメジャーデビューをしました。ゴスペルグループとしては、日本で初めてのメジャーデビューでした。
当時、月曜日夜8時のドラマの主題歌とエンディング曲を歌っていました。
そして、そのグループを2002年にやめて、その後ソロでシンガーソングライターとしての活動を始めたのですが、2007年にはヒューマンノートを立ち上げていました。
歌や音楽で何ができるか メジャーデビューを経て感じたこと
記者:ヒューマンノートというグループを立ち上げる経緯はどのようなものだったんですか?
寺尾:僕はゴスペルグループをやりながら、食べていくためにゴスペル教室の講師をやっていたんですけど、普通にゴスペルを習いに来る生徒さんが、歌いながらどんどん顔が変わっていくんですね。生活の中に歌があることによって、どんどん表情が変わっていく姿をみて合唱ってすごいな、って思っていました。
それともう一つは、シンガーソングライターとして活動し始めても全然売れなくて。
どんなアーティストもそうだと思うんですが、僕自身、自分の音楽を世の中に伝えたい、誰かを励ましたいという純粋な想いと、モテたいとか有名になりたい、お金が欲しいというようなよこしまな気持ちが合体して、「売れたい」と思いながら活動していたんですね。
でも35歳を超えてきた時に、そういう思いだけで歌っていることにすごく空虚感を覚えてきたんです。
アーティストなんて限りなくいるし、売れるって何だろうって。そして仮に売れたとしても、それが10年、20年続くっていうこともほとんどないし、事務所やお金の力で売れても、それがどうやねん?って。
それで、歌とか音楽で何ができるのかなって思った時に、最終的に世の中に貢献するっていうことが、一番この空虚感の穴が埋まるなって思ったんですよね。
自分の中で価値ある人生を考えた時にも、やっぱり世の中の役に立って死にたいなって思った。これは、きれいごとでも何でもなくて、本当にそう思ったんですね。
そう思った時に、この教室で歌と出会ってイキイキした人を見てきたことと、自分が培ってきた音楽的なスキルとで、何か社会に対して歌で、音楽で奉仕するグループができるんじゃないか、って思ったのがヒューマンノートの発足のきっかけです。自分は歌を歌うことくらいしかできないから、そこで見つけた自分の生き方だったんですね。
そこからは、それまで自分の人生どこに向かって行ったらいいのかな?って鬱積していたものがバーンと弾けて、ケニアに行くことになったり、もううわ〜〜!ってすごい展開になって(笑)
歌で世界をつなぐことに、理屈抜きで心が躍る
記者:そうだったんですね(笑)。活動は、最初から被災地を訪問されたんですか?
寺尾:最初はアフリカのケニアに行きました。2009年にご縁があって、お話を頂いたんです。
ケニアの子供達は、みんなビニール袋に荷物を入れて学校に通っているんですね。
僕たちは大阪で学校を巡って歌を歌う活動をしていたので、学校の子供達にカバンを作ってもらって届けたらいいんじゃないか、と思って。
そして実際に届けるところを映像にして、日本の学校の子供達に見せたら、「うわー!届いてる!」って喜んでくれるし、どっちもハッピーだなって。
それと、ここはお水も電気もない地域だったので、お水を入れるタンクを寄贈したんですが、それもめちゃくちゃ喜んでくれましたね。
記者:ヒューマンノートを通して、そういう繋がりが生まれてるんですね。
寺尾:そうなんです。東日本大震災から半年後の南三陸町で、まだ自衛隊もいて、建物も何もできていない時に、カバンを作ってもらったこともあります。
「誰かに頑張れって言う側になる方が元気が出るならば、ケニアの子にカバンを作ってあげて」って言って、作ってもらったんですね。
その後も、東京、大阪、ケニア、南三陸町をスカイプでつなげて、学校の子供達がお互いに質問しあって、そのあとに一緒に歌を歌うっていう機会をつくったりもしました。
そこまで繋げるのって、実は死ぬほど面倒なんだけど(笑)、やっぱり何か得られるものがありますよね。
記者:まさに、歌で世界をつなぐというそのものですね。
寺尾:そうそう。理屈抜きで、なんか心が踊るものがすごくあって。例えば、癌と戦っている小児癌の子供達と、ケニアの子がつながることで、病院の外に出られなくてもつながりを感じてもらえるのかな、とか。
そんなんしたらめっちゃ喜んでもらえるし、いつか病気を治してケニアいきたい!っていう子が出てきてくれたりしたら嬉しいし。そんなこともやれたらいいなと思っています。
記者: 今後もどんどん歌で世界が繋がっていくと思うとワクワクしますね!
本日は、どうもありがとうございました。
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寺尾さんの情報はコチラ↓
◆human noteホームページ
http://www.human-note.com/
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◼︎編集後記
記者を担当した牧野、桐木です。「心に寄り添う」というワードがとても印象的で、被災地でもお一人お一人との心の繋がりや交流をとても大事にされていることを感じました。歌を通してこれからも、どんどん世界の繋がりが広がっていくことを心から応援しています。
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