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お千鶴さん事件帖「親知らず」第六話②/3 無料試し読み

(二)
   未明に千鶴は雨が戸をたたく音で目覚めた。歯の痛みはさほどでもなくて、胸をなでおろしたものの油断はならない。手鏡で覗くと頬の腫れはまだ引いていなくて気になりはするが、そんなことにかまってはいられないのだ。いつもの手順で飯をたく。今日はいつもよりもずっと多めである。
「おまえさん、岩倉様のところへ朝げを運んできます」
「具合はいいのか? だいぶ腫れてるじゃねえか。そうしてもらえると助かるがなあ」
「大丈夫」と勢いよく出たが、腰高障子の外まで橋蔵が見守っている。蛇の目傘と風呂敷包みを抱え、千鶴がもう一度振り返ると、心配げな様子でまだ立ち尽くしていた。
 深川の町内は全部知っていると思っている。生まれ育った町だから、良いとこも悪いとこも承知している。その両方が愛おしく離れがたい。故郷とは誰にとってもそうしたものなのだろうか。
 横町からスズメが顔を出す。「おはよ」と、小さな声でいつものように誰彼となく呼びかけた。
 深川六軒堀からほど近い大工町に、何かと御用で使っている長屋の一軒に急なことだったから直轄領行徳に住む同心、岩倉が泊まった。船宿などもあったのだが、あの時間だったし、何よりも本人が辞退した。常日頃親交の深い檜山も親切で丁寧すぎる武士だが、こちらも遠慮深くて愛想の良い侍だと橋蔵が誉めていた。
「おはようございます。入っていいですか? 橋蔵の使いで来ました」
 戸を開けようとすると、閉まっていた。心張り棒がはめ込まれているようだ。長屋住まいでは珍しい。
 もたもたしていると、並びの長屋から小さな顔を覗き出す与吉がいた。与吉は由の手習い塾に通っている子だ。一目散に近づいて来る。
「与吉ちゃん、おはよう。よくわかったわね」
「おはようございます。どうしたの? 顔の片側が毬みたい」不安げに目を伏せて、ちょこんと頭を下げる。十ばかりになるが、奉公先の小間物屋のお嬢さんに気に入られたせいかどうかはわからないが、最近急に頼もしくなってきた気がする。
「歯痛なの。それより、この間の絵ありがとね。また一段とうまくなった。絵師の先生にそのうち紹介したい」
 与吉がにーっと笑った時、隣の戸が開いた。男が立っているのをみて、ああ、あの人が岩倉だと会釈した。
「お早いですね。橋蔵さんのおかみさんでしょう? さあ、どうぞ。話は伺っています。世話をかけ申し、かたじけない」と頭を下げる。
 傍らの与吉をじっと見つめて、「お子ですかな?」
「何をかけ申しって?」
 与吉が横から口を挟むのを制して千鶴は答えた。
「いえいえ、すぐそこの子です」
 与吉はまだ、まじまじと岩倉を見つめ返している。
「また、お由さんのところで会いましょうね。そうだ、飴玉をあげましょう」
「有難う、千鶴おばちゃん。気をつけてね」
 と、頬を指しながら帰っていった。
 招じ入れた岩倉の背をじっと見つめた。背が高い。鬢の付け根である髱が乱れていた。枕が合わなかったのかなあと心配した。
 千鶴が土間に入ると、隅にあった座布団を用意してくれた。
「いえ、ここで十分です」
 と、上がり框に腰を掛けた。岩倉は月代が剃りたてで青々している。丸顔で温和な顔つきをしていて、齢は三十後半ぐらいだろうか。背も高いが割腹もいい男だという橋蔵の言葉通りだった。
「普段、一軒家にお住まいですから、長屋の戸は頼りないんでしょうね」
 千鶴の問いかけに、岩倉は頭をかいた。
 斜め後ろを向いた岩倉の十手には房がついていなかった。房無しの十手は珍しいことなのだが、檜山が妙にこだわっていて房をつけない男なのだ。これをつけていると、いかにも同心が十手を強調して袖の下を求めているという印になるからと言い張る。黒門付に巻羽織の身なりだけで同心であることは一目瞭然なのにと奇妙に思っていた。岩倉も、きっと檜山と似たようなところがあるに違いない、と勝手に解釈した。
「いえいえ、さようなことは。一杯やるのが大の楽しみなもので、酔って締め申したものやら全く記憶がござりません。わはは」と愛想がいい。
「お腹がお空きになったでしょう?」
「確かに」
 にやりと笑ったときに前歯が一本無くて暗く空洞になっていた。さ行が少し聞き取りにくいのを与吉がさきほど気づいたのだろう。世話という言葉が聞きづらかった。他の歯も決して奇麗とは言えない色をしていた。親知らずがまたうずきそうで、千鶴は他人の歯にも目が行くようだった。
「お酒の後、夕べはよく眠れましたか。たいへんな目に会われて」
「失態でござった。悔やまれて、なかなか眠れませなんだ。ただ、疑わしい者が限られているので、下手人はすぐにあがるものと思われる。さすれば、帰されるかと」
「一日でも早い方がいいですね」
 言葉を交わしながら、竹の皮に包んだ握り飯を出した。竹筒に白湯も用意してきたので、どうぞと差し出す。
「かたじけない」
「召し上がられている間に、お湯をわかしておきますので、後でお体をお拭きになってくださいまし」
「なにからなにまで」
 岩倉は頭を深く下げた。
 水を汲みに長屋の井戸に行くと、雨はすっかり上がり日差しさえ出ていた。既におかみさん連中が二人いて、賑やかな声がする。洗濯をしてる者がハツ、水を汲みにきたまま居座っている者がキヨだ。
 洗濯の手を休めて、ちょいとと手を振って千鶴を呼び止めた。
「お千鶴さん、お久しぶり。相変わらず忙しそうだけど、歯でも具合が悪いのかい?」
「ご心配をかけるぐらいに、まだ腫れてるんですね。いえいえ大丈夫、ごぶさたですみません」
「あそこの男、いい男っぷりだねえ。何なんだい、下手人かい?」
「いやだ」と千鶴が笑って噴き出した。
「同心の旦那ですよ。急な事件がありましてね」
「同心にしとくのはもったいないぐらいだよ。役者になりゃあ人気出るのにねえ」
 今度は三人で火のついたように笑った。
「御用がらみだろ? 何でも私に聞いておくれ。こう見えて、あたしもねえ見る目あるからさ。場合によってはお千鶴さんの助っ人になってもいい」
「なんで、旦那をご存知?」
「私は顔を洗いに来なすった時に会ったよ」キヨが含み笑いをしている。
 勝手知ったる様子で側にあった火の熾っている七輪を借りると目で合図を送り、湯を沸かし始めた。
 ハツがここぞとばかりに話し始めた。
「うちはちょうど隣だからねえ、昨夜遅くから知ってる。橋蔵さんに連れられて、やって来た声で目が覚めたんだ。やって来たすぐ後に、ほんの少し後だったよ。若い女が来たよ。ついて来たんじゃないかねえ。橋蔵さんもきっとお疲れだったんだよ。気付かないなんてさ」
「見てたの?」
「聞いてたんだよ。隣だから」
「えっそれにしても。この辺りに知り合いはいないと思うけど……。親しそうだった?」
「あれは、商売女だ。そんなのは誰だってわかる。それよりも驚いたのは、ゆきずりの女じゃなくねんごろな仲だってことだよ。『何で来たんだ!』って大声出してから、はっと気づいてすぐに声を鎮めたね。本当に驚いてた様子」
「そう、良く分かったわね。つきとめなきゃ。どんな姿の人?」
「ぽっちゃりめの女だったかな。ただ季節外れの綿入りの半纏で、もこもこしていたから、あんまりわからない」
「顔形は?」
「三十そこそこの丸顔でのっぺりした色白女。暗闇でも目立つ濃い化粧」
「なるほど。やっぱり外に出て見たんでしょう」
「そっと戸を開けた。だって、あの男はてっきり下手人だと思ってたから」
「驚いた」
「その後ご丁寧に、その同心は心張り棒を戸につっかえた音がした。やましいじゃないか。こんな長屋で心張り棒使う人なんかいやしない」
「まさか、戸口まで確かめに行った?」
「いえ、それはほんとに聞き耳をたてた」ハツはキヨに同意を求めるように横目で見る。七輪にかかった鍋はポツポツと小さな泡が浮いた。
「この人、地獄耳に地獄目」キヨが千鶴にささやいた。
「あたしも下品な盗み聞きに呼んでほしかったよ」とすぐさまつけ加える。するとハツの分厚い手がキヨの二の腕をバシッとたたいた。
「その後は期待に反して、やけに静かだったけどね」
「その女の人はいつ頃帰ったの」
「ほんのちょっとの間だったんだよ、すぐに帰った。何しにきたんだか」
 ハツとキヨはふふと笑い合う。煮えた鍋に手ぬぐいを巻き付け「よいしょっ」と力任せに持ち上げた。
「どうも有難う。いい話聞かせてもらったかもしれない」
 千鶴は一旦岩倉に湯を運び、軽い挨拶をして別れ、井戸端に戻ると、たくさん残った梅干しを包みごとハツに渡して二人で分けるように言って暇を告げた。
 昼過ぎに家に戻ると、橋蔵も檜山もお調べに出ているようだった。千鶴は溜まっていた繕い物をしながら考えていた。
 中庭には梅の実が青く一寸ほどに膨らんでいて、ボタリボタリと実は自ずと落ちてくる。今朝も相当数を収穫し、梅酒用に保存している。例年決まって梅雨の前の作業だ。
 これから死が待っているだけの罪人を殺める訳は何があるだろうかと千鶴も自問自答している。相当の恨みがあって、自分の手でどうしても報いたい、あるいは一泡吹かせずにはいられないこともあるだろうか。理屈はわかっていても、人の心のたぎりは抑えられなかったということもありえない話ではない。
 新しく橋蔵から得た話を加えても、これといった決め手に欠けるものばかりなのだ。
 騙された仙太郎はあれから老舗を売り払い、一家で引っ越さざるを得なくなったそうだ。騙された大勢の人たちの憎悪も似たようなものだろう。その中の一人ぐらい己の手で九郎の始末をつけたいと考えるだろうか。
 九郎の妻、美代は夜の商売で稼ぎ、くらしをたてていた。が、それさえも九郎に巻き上げられていたという。あんなに大金を隠し、一文も渡さないなんて酷い話のようにも思う。
 九郎の子を女手一つで育てている、おまさの苦労は、これまた明らかだ。九郎が墓場まで持って行こうとしている大金の在りかもそりゃあ気になるだろう。おまさも美代も犠牲者だ。
 どれも、確かに大きな訳には違いないが、またしても先の問いが頭をもたげるのだった。どうどう巡りに嫌気がさし、千鶴は船の中で起こった出来事を時の順に書き記した。本当に起こったことだけに集中して、他を考えまいとする。
「腕力と凶器があり、殺めたいほどつっかかっていた仙太郎が怪しい」
と檜山がつぶやいていたのが気になった。
 足が自ずと行徳船の出る日本橋小網町の河岸へと向かった。狭い路地を抜け、川べりに面した広い空が広がった先に、侍が立っていた。船は疾うに出たのだろう、辺りに他の人影はない。近づくと、川面を見つめる檜山の後ろ姿だった。腕組みをして、微動だにしない。とても声をかけるには忍びなかった。
 川さらいを終えたばかりと見える人足が何人か通り過ぎた。
 千鶴は逃げるようにその場を離れる。

(三)
 風は無かったが、昼過ぎからまた強い雨がまっすぐ地をたたき、長屋の通りの真ん中を流れる溝に吸い込まれていた。その音がザーゴボゴボと裏路地に響き渡る。
 連日筍を食しているので、終に飽きてきたが、捨てるわけにはいかない。味噌汁の具にしたり、筍ご飯にしたり、わかめと和えて酢の物にしたり、工夫も限界にきた。毎年そんなことを繰り返しているのだが、この時期を過ぎれば食べたくても食べられないのだからと、橋蔵はさして嫌がらず食べてくれるので助かる。
 夕方、いつもの貸本屋定次がやって来た。数冊の本の中に『料理物語』というものがあった。かなりの評判で、なかなか手に入らない。従来の作法流派にこだわらず、読みやすく料理の材料や調理法が書かれてあり、とても役立つ内容なのだと言う。以前に巷で人気を博した豆腐百珍や卵百珍などの百珍物は読んだことがあった。数の多さに驚き、美味しそうでため息が出る料理の数々だった。
「この中の筍料理がうまそうで。お千鶴さん一回作ってもらえないものでしょうか?」
「どれどれ」と身を乗り出すと、定次が読み上げた。
「茹でた筍を縦半分に切り、軸部分をくり抜く。くり抜いて取れたものは乱切りにして、きくらげ、しいたけなどを鰹だし、醤油、みりんで濃いめに煮る。汁気を切って冷ましたら魚か海老のすり身を合わせ、再び筍に詰めて蒸す。出来上がったら、輪切りにして木の芽を添える」
「美味しそう。手が込んでますね」
「上等の店では出すんでしょうかねえ。もう一冊は月別に季節の料理を取り上げているところが人気の一つである『料理献立集』」と二冊を並べる。
「彩りも良さそうな料理。そちらの本と両方貸して下さる? 先ほどの料理、手が空いた時に作ってみましょう」
「その時は、ぜひご馳になりてえもんだ」
 定次がにっこり笑って帰って行った。
 ところが、今晩は定番の筍と人参できんぴらに決めていた。ゴマをどこにしまったかと探していると、腰高障子が勢いよく開いた。橋蔵と共に、雨のしずくも入ってきた。
 檜山を連れて橋蔵が帰ってきた。
「きんぴらの匂いがする。嬉しいなあ」
「そうですよ。目黒不動門前の筍飯もいいけれど、うちのきんぴらだって絶品」
「ちげえねえ。初物を食って七十五日長生きさせて頂きます。って去年もその前もずーっと言ってたから、オレはたぶん死なねえ」
「おまえさんったら、戸を開けた時、怖い顔しておいででしたのに」
「そうだ、ていへんなんだ。岩倉様が殺された。毒殺だ」
「今なんて、言いました?」
「岩倉様が死になすった」
「訳がわからない。今朝会ったばかりなのに」
「しかも、死んだ後、顔に油を放ち火をつけやがった」
「酷い」とだけ発して、言葉が詰まった。
「雨のせいと、発見が早かったお陰で火事はすぐに消し止められた」
「それで、半鐘の音がここまで響いていたんですね」
「火事はさほどでなくて済んだんだが、可哀えそうに、旦那の顔と体が真黒焦げだった。特に顔がひでえ」
「顔が……」
 想像しただけで、千鶴の血の気がざっと引いた。その瞬間に赤い幻を見た。「女」が酒に毒を入れる様が浮かんだのだ。
 檜山がやっと重い口を開いた。
「お千鶴さん、この度ばかりは同心のお役目を返上せねばならないのではないかと思い悩んでいます」
「そんなあ」
 千鶴と橋蔵がほとんど同時に声をかけた。
「喉が渇いてどうしようもねえから、檜山様とちと戻ったんだ」
「あいよ」と冷えた麦茶をやかんから注いで渡す。
「ああ、うめえ。生き返った」
「檜山様も、どうぞ。お疲れのご様子」
「お千鶴さん、かたじけない。夕方から、岩倉様と一緒に奉行所へ行く手筈になっていたのに」
 と檜山がうなだれ、ほんの少し茶碗に口をつけた。
「先の話では、焼ける前に毒で死んでいたということですよね。朝っぱらから眠り薬の入ったお酒を飲んだってことでしょう? お役目がこれからあるというのに」
「そんな御仁には見えなかったが。こんなことが起こっちゃあ、さぞかし、むしゃくしゃしてらしたのだろうな。無理もねえ」
 橋蔵はお茶を飲み干して続けた。
「岩倉様の形見となった十手を預かってきたぜ。妻女が掛けつけるまで預かっておこうと思って」
 千鶴は十手を初めて見るように目を丸くした。緋色の房がしっかりとついている。
「房が、房が……」千鶴は我が目を疑った。
「あたりめえだ。みんなついてる」
「私はつけてないですが」檜山が口をはさむ。
「今朝は房が無かったんですよ、確か。見間違いだったかしら」
 千鶴は怪訝そうに房に触れている。
「房は洗ってたとか? なんか見間違いだろ」
「房を洗います?」
「オレはたまに洗う」
「へーっ」と意外な習性を初めて知る。
 千鶴は気を取り直して、おもむろに尋ねた。
「死罪になる予定だった例の咎人の亡骸は家族に引き取らせないのですよね?」
「お美代がそれを願い出ていたが、断られていたという話だ。衣類やなんか、牢に繋がる前の持ち物だけは手渡されてたようだが、唐丸駕籠に裸同然で縛り付けられていたので、てえしたもんはないはずだぜ」
「それでも、お美代さんは何か預かったんじゃないでしょうかね? お宝の地図とか」
「わからねえ。調べてみるが、別段変わった代物は持ち合わせていなかったことは、お調べ済みだから」
「檜山様は取り調べの最中でしたか?」
「今朝は仙太郎とつきっきりでござったが、何も得るものがなく……」
 と、残念そうに目を伏せて檜山が話し始めた。

 番屋に仙太郎は留め置かれていた。もっとも怪しい人物なので返すわけにはいかなかったからだ。仙太郎も疲れ切って土気色の顔をしていた。
「仙太郎さん、九郎を許すことはできませんでしたか?」
「ずっと、恨んでいた。詫びの一言でも欲しかった」
「死罪なのは知っていましたよね?」
「無論です。やりたいのはやまやまでしたが、私がやったんじゃありません。信じてください」
「詳しく話して」
「刃物を持って近づいたとき、奴の人相を見たんですが、泥で真っ黒だったけれど、痩せてしまって別人のようでした。あんなオドオドした目は初めて見る気がした。よほどきつい取り調べなんでしょうね」
「そうなんですよ、少し情がわいたのでしょうか?」
「そういう訳じゃあないですが。もう、こっちはあいつがどうなろうと、なんも変わりゃしないですから。全部失った。騙された金がいくらかでも戻ってくればいいんですが……」
「それは難しそうだ」
 言葉は無くやっぱりなというような暗い表情だ。
 それから、思い出したように付け加えた。
「私が持っていた脇差しはすっかり綺麗なままだったでしょう? 血糊やなんかついてるはずが無いんだから」
「川で簡単に洗える、と岩倉様がおっしゃってる」
「返り血とかも浴びるんじゃないんですか? やったことがないから知らないけど」
「声も出せない即死のようだ。駕籠の外から突き刺し手拭いなどで遮りながら刃物を引き抜けば血は浴びないことも有りうるという、医者の寛西先生の話だ」
 寛西は千鶴にとって三番目の育ての親のような存在だった。檜山から特別に事件の死体を調べたり、御用の手伝いを依頼されることもあった。
「そんなあ」
「ところで、なぜ昨日九郎が護送されるということを知ったのか?」
「奇妙なことに投げ文を寄越した奴がいたんでさ。だいたい、私のように騙された人は多かったから、仲間の一人として仕入れた話を聞かせてくれたのではないかと、その時は思った」
「それは、またお節介なことだな」
 途中から岩倉様の急死の知らせが親分から入り、念のために仙太郎に尋ねた。
「岩倉様のことは知っていたか?」
「いや、知らない。顔もよく見ていない」
「同じ船だが」
「九郎のことで頭がいっぱいだった」
「なるほど」
「真の下手人は川へ凶器を投げ捨てたに違いない。私のじゃあない別のがあるはずですよ」と仙太郎はきっぱりと答えた。

 というような話をしてきたところだと言う。押収した脇差しは一尺半くらいの長さがあり、心の臓めがけて駕籠の網目から差し絶命させるには十分な凶器だ。仙太郎が二つ同じような刃物を持ち込んだとも考えられると、あの場で懐から帳面を取り出してさらに付け加えたのだった。
「……私のこれまで記した帳面をお渡ししよう。お千鶴さんにも手伝ってもらいたい」と懐から紙を取り出し手渡した。檜山は、いつも事細かく事件について帳面に記すのが性分だ。
「昨日からずっとそこに繋がれているんでしょう?」
「だよな。九郎はともかく仙太郎に岩倉様殺しはあり得ない。とすると二つの事件は関連がないんじゃねえか?」
 橋蔵は首をひねっている。
「唐丸駕籠に一番近かった岩倉様と船頭にも、もちろん詳しく聞いてみました」
「岩倉様は檜山様と同じ立場だから、乗客にも咎人にも気を配ってらしたでしょう。船頭が何か見てるんじゃないかと考え、あっしも実は何度も尋ねております。それが、船頭という者は大概水面を見ていて船の中は案外見ていないもんですね、檜山様。ちょっとした騒ぎもほとんど記憶に残っていないらしくて」
「そのようです。特に大きく船が曲がる時など、行徳寄りで二回、日本橋手前で二回ありますが、気は櫓と水面にいっているようです。ですから犯行はこの間だと考えます」
 この事件で少し遅れたが、申し開きのために奉行所へ出頭しなければならなかった。橋蔵もお供について出たので、部屋は急にガランとした。
 檜山は仙太郎の聞き込み、岩倉の現場への確認、川浚いの監督、さらに奉行所へと長い一日を送っている。
 千鶴は可哀そうでたまらなく、なんとかしてやりたい気持ちでいっぱいになりながら、もんもんとすることしかできない。
 二つの事件には関連があるはずだと千鶴は考えている。
 また小さなことだが岩倉の房を見間違うはずがない、とも思い出す。
 あるひらめきが千鶴には形を成してきた。岩倉様が泊まった長屋連中の噂話を思い出したのだ。女が絡んでいる。
 美代とまさは同じ旅籠に留め置かれていた。千鶴は二人に会いに行こうと六兼堀の長屋を出た。旅籠は八丁堀の三益屋だった。
 逃げれば下手人とされるので、我慢するよりしかたがないと諦めていたようだ。ただ、夜までは見張り番は置いていない。岩倉殺しは二人の女のうちのどちらかだと千鶴は確信している。でも肝心な、なぜなのかその訳をつかみかねているのが歯がゆい。岩倉との関係すら薄い。
 千鶴はその旅籠に様子を見に行った。二人は一つの部屋で怒鳴りあっていたのだ。
「お美代さんは、もう九郎とはとっくに切れていたんでしょう?」
「そうだよ。あんな悪党には未練はない」
「この子と三人なら、あの人を改心させられたと思うんだよ。父親知らずになんてしたくなかったのに。可哀想だったよ、すっかり痩せて別人になっちまってさ」
「当たり前でしょうが。牢に入っちゃえば別人にもなるさ。だいたい父親になれるような真っ当な奴じゃないわ。あんたの子には父親を知られなくて良かったぐらいだよ。あんなに小さければ大人になればすっかり忘れちまってる」
「九郎の形見でも何か受け取れなかったのかい?」
「あんな奴、何も持っちゃいなかった。がっかりさ」
「知ってるんだから、隠している金があるはずだよ。独り占めする気なんだろう」
「知らないよ、わたしだって」
 と、さらに大きな声を出したとき、火が付いたような泣き声が部屋の外の廊下まで響き渡った。千鶴は障子をサッと開けた。
「小さい子がいるんですから、喧嘩はよしてくださいな」
 千鶴が二人の中に割って入った。女の子は部屋の隅でまだしくしく泣いている。二歳になるかならないかぐらいだろう。痩せて小さく見えるのか、もう少し齢上かもしれない。あまり口をきかないし、歩き方もおぼつかない。
「何て名なの、いくつ?」
「たえ、三つ」
「そう。たえちゃん、おりこうさんだね。おまんじゅうをお一つどうぞ」
 千鶴は用意してきたおひねりを懐から取り出し手渡す。
「おっ母さん達とお話があるから、しばらくここで大人しくしていてね」
 たえは、さっそく頬を膨らませて、こくんと頷いた。
「岡っ引橋蔵の女房で千鶴と申します。御用を頼まれたものですから、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「珍しい人だこと。女岡っ引なのかい?」
 美代は前のめりになり、千鶴をしげしげと見た。白粉の香りが漂ってくる。
「九郎さんって人はどんなお人だったんですか?」
「悪党だね。口が恐ろしくうまい、あれは天賦の才っていうぐらいに幼子の頃からだったらしい。他人の弱みを見つけるのが巧みでねえ、それも使いながら人を思い通りに操るのさ」
「でも、この子には優しかったよ。ねえ、たえ」
 と、まさが美代を見下した。
「そういう面もあったのかね」
 ぷいっと美代が横を向いて、巾着から櫛を取り出し髪に当てた。頭皮がかゆくなったときなど、千鶴もそうする。
「その巾着とても手がこんでいますね。奇麗です」
「私の唯一の特技さ。江戸刺繍の技法でね、何度も何度も針で刻むと絹糸からこんな光沢が現れる。キラキラ眩しいだろ? これに熱中していると、嫌なこともなにもかも忘れちまうのさ」
 美代の目が生き生きとした。
「そこらの小間物屋さんだって、そんな上物は少ないでしょう?」
「実はね、それを売る店を持ちたいんだ」
「お美代さんの品だったら、売れますよ」
 美代の繊細で手先の器用な一面を知った。
「この船に九郎さんが乗ることはなぜわかったのですか? 知らせてないはずですが」
「誰かわからない奴から、文が投げ込まれたのさ」
「なんと。いつ頃のこと?」
「前日」
「あら、同じだわ。うちにも投げ文があったから」と、おまさが割り込む。
「九郎さんに面会は許されていたの?」と美代に尋ねた。
「別に会いたくもないけどね。死罪が決まってからは面会を許すというお達しは出たんだよ」
「行ったの?」
「私だって、ちっとは情があるんですよ。何回か面会に行きました」
 子が病弱そうに見えたので、まさに向き直って尋ねた。
「九郎さんは体は丈夫な方? 歯も丈夫?」
「まあ、そうかね」美代はすねた様子だ。まさも続けて答えた。
「元はがっしりとした体つきだったからね、なにもかも頑丈さ。ねえ、たえも早く丈夫で大きくなっておくれ。前歯は喧嘩で一本折ってる」
まさは、隅にいる子を連れ戻って抱きしめながら話し続けた。幼子は前歯を一本だけのぞかせているだけだった。
「変わり果てた姿が酷すぎて、よく顔を合わせられなかった」少し涙ぐんでいる時、すかさず美代が割り込んだ。 
「九郎の話はもう言いたくないし、聞きたくもない。どうでもいい」すごい剣幕になった。
「ところで、岩倉様とはお知り合い?」
「知ってるわけないでしょ」
 二人が初めて同じことを言った。
「夕べや今朝、この宿を出ましたか?」
 美代とまさが顔を合わせて、これも同時に首をふった。
 帰り際、宿の小僧さんに二人の様子を聞くと、
「どちらさんも、昨晩にしろ今朝にしろ、ほとんどお出かけになってましたよ。気晴らしがいるって」
 ということであった。長屋のおかみさんが語っていた人相からして該当するのは美代の方かと思われるが、美代と岩倉の繋がりが不明である。まさにしても、容易になりすますことができるだろう。
 堀端に佇みながらしばし物思いにふける千鶴だった。

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