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死ぬまで、わたしと生きよう #もう眠感想
わたしは、終末期・慢性期の患者さん宅に訪問し、診療を行っている。
診療所の方針として終末期の方に鎮静を行うこともあるが、安楽死や尊厳死という議論はなぜか、どこか自分から遠いところにあるような気がしていた。
そこに、京都のあの事件が起きた。
ネット上の、「ああなったら、わたしなら安楽死したい」という、誰かの生をその一言でぶった切ってしまうようなコメントを見て、わたしは大いに動揺した。そして今こそ、安楽死について考えないようにしていたこと自体に向き合うときだと気づかされる。
テレビに出ていた安藤泰至氏のコメントを聞いて彼の本を買い求め、自らに基礎知識があまりに不足していたことを恥じつつ、頭の中に新しい風が吹き込んできたことを知った。宮下洋一氏の本を読み、安楽死を行う側のロジックと心情を初めて(内容としては)理解した。そして「だから、もう眠らせてほしい」を読んだ。買い求めた本たちがお互い密接にリンクしており、パズルが足元からぱしっぱしっと音をたててはまっていき、細い道がかすかながらもかなたへと続いていくのが見えるような一連の読書体験は、恍惚とも言えるものだった。
西先生の本は、若い患者二人の物語が通奏低音のように流れつつ、目の前で次々と場面が切り替わる舞台を観ているようだった。西先生の思考の旅へと、気がつけばわたしも一緒に飛び立っているのだ。ノンフィクションのようでいて、本に出てくる「西先生」は、本を書かれた西先生とは別のペルソナのような印象も受ける。物語に没入させるための仕掛けなのかもしれない。
読後、まず思ったのは、やはりわたしにとって必要だったのは安楽死が是か非かの議論ではなかったのだな、ということだった。その前に考えるべきことがたくさんあったのだ。
わたしは、人を助けたくて医師になったのに、緩和ケアを行うとき、人の死を前提にして動いている自分に違和感を抱えていた。
在宅医療をする上で、死ぬまでの過程をできるだけ穏やかに、苦しみなく、その人らしく過ごしてもらうという目標はあるにせよ、それはあくまでいつも視野の片隅から近づいてくる「死」を捉えながら、であった。なのに、「早く死にたいなぁ」などと患者さんに言われると、焦ってしまう。視界にはちらちらと入っていたはずの死が急に焦点が合う対象として目の前に現れることに、いつになっても慣れない。教科書的な返答をすることはできても、この人の思いにわたしは渾身の力で返事ができていない、という後ろめたさは常につきまとっていた。
そのくせ、死についてのイメージも曖昧であった。
わたしにとっての死とは、弱っていく患者さんのそばにひそかにやってきて、そっと毛布のように覆いかぶさっていくものだった。いや、そうであってほしいとわたしが思っているだけなのかもしれない。そのふんわりしたイメージで、死に向き合うことを避けていただけではないか。
そもそも死というものをとらえることが可能なのか?もちろん医学的な死の定義は理解しているし、まさに目の前で亡くなられた患者さんも数人いたので、人が亡くなって顔つきが一瞬にして変わる、あれが死なのだ、という肌感覚も持っている。
でも、その人にとっての死とは?わたしにとっての死とは?…そこを突き詰めて考えることを避けていたのかもしれない。だって、わからないのだから。当たり前なのだが、死んだことがないわたしにはわからないのだ、ということが、そしてそれを認めることが、恐ろしかったのだ。わからないところに患者さんを導いていかなければいけない、そんな無責任なことがあるだろうか、と。大丈夫ですよなんて、言いたいけれど、言えない。
だけど、本当は、死を特別扱いしなくてもよかったのだろう。生きていった先に、自然にその人の死はある。「よい死」に導かなければなんていう、医療者による死の線引きは、きっと大きなお世話だ。
「誰かにとっての死」をちゃんと説明できない、そんな不完全に思える医学であっても、わたしはそれをよすがにしてあなたと一緒に歩く。そう決める。西先生と共に及川さんがいるように、患者さんに気圧されて黙り込んだわたしを察してそっとフォローしてくれるような看護師さんが、わたしの周りにもいるのだから。
そうだ、わたしにもわからないことがあるんだけど、あなたと一緒に考えるし、一緒に話がしたいんだって、患者さんに伝えてもいいのだ。西先生と同じように、「わたしと、対話する時間をくれませんか」と。ごめんなさい、最後までは一緒に行けないけど、でも今は一緒にいさせてほしい、と。そうやって、死ぬまで、生きる。あなたも、わたしも。
だから今は、そうやって対話するための引き出しを、少しでも増やしたい。きっとそれは日常の隙間に落ちている小さな種を拾って、大事に育てることから始まるのだろう。だってわたしたちは誰もがいろいろな種を撒きこぼしながら日常を生きているのだから。