日本一暑い街で、初の女医 荻野吟子を想う(熊谷紀行)
今年の夏は全国的にも猛烈な暑さが続いていたが、中でも埼玉県熊谷市は特に暑いことで知られている。今回はこの街に因んだ日本初の女医 荻野吟子を取り上げてみようと思う。
【目次】
1.日本一暑い街 熊谷
2.日本初の女医 荻野吟子のこと
3. 人、その友のために
1.日本一暑い街 熊谷
熊谷市は埼玉県の北部に位置する人口19万の中核都市である。かつては中山道の宿場として熊谷宿が設置されていた。現在は国道17号線、関越道、JR高崎線、上越新幹線、秩父鉄道が乗り入れる交通の要衝である。
明治16年には上野・熊谷間に鉄道が敷かれ、生糸や絹織物などが横浜へ運ばれ地元経済が大いに潤ったのであった。養蚕や小麦の生産が盛んなことから、製糸業や製粉業などが熊谷の近代化に大きく貢献したのである。
今では日本一の暑さを逆手にとって、『あついぞ!熊谷 熊谷新時代まちづくり事業』を展開し、町興しに積極的に取り組んでいる。
暑さが売り物のこの街で、『雪くま』というご当地銘菓が生れている。これはかき氷なのだが、次の3条件を満たしたうえで、市に申請して認定を受けるというものである。
3条件とは①地元の水を使用する、②削り方が「ふんわり」であること、そして③シロップにそれぞれ工夫をすること、これを満たさなければならないという。
この暑い熊谷で明治以降、多くの先覚者たちが熊谷の産業や文化の面でこれをリードして来た。女性では日本最初に医師、荻野吟子があげられる。その道は苦難に満ちたものだった。
女性の医師や社会的進出など考えられない時代にあって、大変な苦労の連続だったと思われるのである。自分が女医にならねばという大きな使命感からだったのではなかろうか。
今回は荻野吟子に焦点をあてて、次々と現れる幾多の試練に不屈の精神で立ち向かい、明治の激動期を逞しく生き抜いた一人の女性医師の勇気と感動の物語を辿っていきたいと思う。
2. 日本初の女医 荻野吟子のこと
荻野吟子は嘉永4年(1851年)3月3日、武蔵国幡羅郡俵瀬村(現熊谷市)に名主、荻野綾三郎・嘉与の5女として生まれた。幼少の時より勉学を好んだと言われる。
慶応4年(1868年)埼玉郡上川上村(現熊谷市)の名主の長男稲村貫一郎と結婚、吟子17歳のことである。貫一郎は後に明治17年(1884年)、埼玉県会副議長を務めるなど、地元にも大いに貢献した人物だった。
しかし、彼から淋病をうつされて、これがもとで2年後離婚となる。上京して大学東校(後の東大医学部)の附属病院に入院し、こののち2年間の入院生活を余儀なくされた。
この時、診察にあたったのがすべて男性医師で、羞恥と屈辱の体験から女性たちを救いたいと女医になる決意をしたのだった。
幾たびの試練に耐えた結果、明治17年(1884年)女性の医師免許出願が認められて、同年9月3人の女性とともに前期試験に臨み吟子ただひとり合格したのだった。
続く後期試験も132人が受験し、合格者24名という難関だったがこれも突破して、初の女医として明治18年(1885年)5月、本郷三組町(現文京区)に「産婦人科 荻野医院」を開業したのである。
吟子はこの時34歳、ずっと吟子を応援してくれていた母・嘉与は前月に他界していた。この医院は大いに繁盛して、まもなく下谷黒門町(現台東区)に移転したがそこにも多くの患者が押し寄せたのである。
明治19年(1886年)、本郷教会で牧師の海老名弾正からキリスト教の洗礼を受けた。同年、東京婦人矯風会(後のキリスト教婦人矯風会)に参加して、女性社会運動にも取り組むことになる。
明治23年(1890年)、同志社で学んだひとりの青年・志方之善(しかたゆきよし)が荻野医院を訪れた。彼はキリスト教の伝道のため関東を回っていたのだった。
彼は北海道にキリスト教による「理想郷」の建設するという大きな夢を抱いていた。吟子も大いに共感して、やがて2人は意気投合し、周囲の大反対を押し切って結婚を決意する。
日本初の女医1号として、また社会運動でも活躍する39歳の吟子と一介の青年に過ぎない26歳の志方には、牧師も含めて周囲は大反対したのであった。
それでも、同年11月25日、之善の故郷、熊本県の生家で結婚式を行ったのである。之善は翌年5月吟子を残して北海道に渡った。瀬棚郡利別原野の200町歩の貸付地を得て、ここに理想郷に建設を始めた。
今でこそ豊かな農地が広がっているが、当時は全くの原野でここに之善は17歳の丸山要次郎とたった二人で入植したのである。
彼らはこの地を新約聖書の中から「神と共にいる」という意味の「インマヌエル」と名付けたのである。15年後、明治38年(1905年)9月23日、体を壊した之善は自宅で逝去、享年41歳,吟子は54歳になっていた。
3. 人、その友のために
吟子は之善の死後も彼の眠る北海道に留まったが、姉・友子の勧めもあり3年後の明治41年(1908年)、ついに東京に戻ってきた。
本所区新小梅町(現墨田区)に小さな医院を開き、姉の友子と養女のトミとともに暮らしたようだ。大正2年(1913年)3月、吟子は卒倒し病床についた。
5月には脳卒中をおこし、6月23日その波乱に満ちた生涯を閉じたのであった。享年62歳。葬儀は本郷教会で執り行われ墓所は雑司ヶ谷霊園である。
埼玉県では、荻野吟子にちなんで、その不屈の精神を今に伝える先駆的な活動をしているなど、男女共同参画の推進に顕著な功績のあった個人や団体、事業所の方々に「さいたま輝き荻野吟子賞」(現 埼玉県荻野吟子賞)を贈っている。
この表彰制度は、女性と男性が個性と能力を十分に発揮し、あらゆる分野で対等に参画することができる男女共同参画社会づくりを推進するとともに、埼玉の偉人である荻野吟子を顕彰するために平成17年(2006年)度から実行しているものである。
平成18年(2006年)には熊谷市俵瀬に荻野吟子記念館が開館し、その遺品や資料の展示を行っている。吟子をここまで頑張らせたのはいったい何だったのだろう。
もし、最初の夫・稲村貫一郎から淋病をうつされることがなかったら・・・。もしも、志方之善との出会いがなかったら・・・・。埼玉県の地元有力者の奥方として、平凡ながら穏やかな一生を送ったに違いない。
予期せぬ出来事が吟子の一生に大きく影響し、多くの人と出会い、そして彼女を助け、苦労が多くても、彩に満ち溢れた豊かな生涯を彼女にもたらしたのであろう。吟子の座右の銘は次のとおりである。
人、その友のために己の命をす(捨)つる これより大いなる愛はなし
(ヨハネ伝から) (了)