アイヌの肖像画に藩政時代の苦悩を偲ぶ(松前藩小史)
北海道の最南端にある松前町を訪ねた。江戸時代に藩が置かれた北海道唯一の城下町である。かつて国鉄・江差線、松前線があったころ、函館駅からは1日7往復程度のディーゼル車が運転されていた。
これらが廃止された後、五稜郭駅と木古内(きこない)駅の間は、道南いさりび鉄道として運行されている。東京から東北・北海道新幹線で最寄りの木古内駅まで約4時間、木古内からはバスで1時間40分ほどである。
函館駅からの直通バスだと3時間20分くらいかかる。函館からの直通は1日3便と少ないが、木古内初の便が別に5本ある。松前の城下についた時は午後5時前だったが、日はとっぷりと暮れていた。
予約していた宿は昭和26年創業の老舗で、温泉旅館矢野という和風情緒あふれる宿だった。温泉大浴場は、ナトリウム・硫酸塩泉で、やや茶色っぽいが、神経痛や筋肉痛、疲労回復に効果があるという。
客室の窓からは「最後の日本式城郭」松前城の天守を望むことができた。春には北海道有数の桜の名所としても知られる観光スポットである。地元の海産物を使った食事は一番の楽しみだ。
ここでは魚介のほかに、地元松前産の昆布にこだわった料理も多い。マグロ・あわび・イカなどが並ぶ夕食は楽しい。
このうち、松前漬を紹介しよう。松前の郷土料理でもちろん自家製、女将の手作りだそうである。松前産の上質なするめと松前小島沖の細目昆布を使用している。水は大沼横津岳のミネラルウォーターを使用し、塩は熊石産海洋深層水を使用しているとのこと。北海道の松前にこだわった松前漬である。
次に銘菓をひとつ紹介するとしよう。松前藩に菓子を納めてきた江差の老舗、五勝手屋(ごかってや)の丸缶羊羹である。
屋号は江戸時代後期に五花手(ごかって:現在の江差町)で獲れた豆を使ったことに由来するという。五勝手とはアイヌ語の「コカイテ」という波のくだけるところという地名だそうだ。
丸缶羊羹はレトロな赤いパッケージが懐かしい。そして、食べ方がユニークなのだ。ふたを取ったら、そこをぐぐっと下から押す。上からはみ出てきた円柱状の羊羹を食べる分だけ糸でぐるりと回して切り取るのだ。
さて、本題の松前藩の歴史を紐解いていこう。当初、道南地方を支配したのは安東氏であった。この配下にあった蠣崎(かきざき)氏は次第に勢力をのばしていく。
蠣崎慶広(かきざきよしひろ)は秀吉に謁見を実現して、これを契機に安東氏の支配下から離脱することに成功する。続いて家康にも接近し、蝦夷地における交易権を認められたのである。同時に松前姓に改称した。
米が収穫できないものの、蝦夷地の交易権を基盤とする特異な藩であり、1万石の大名格の待遇とされた。松前藩が幕府から交易の独占権を獲得したことは、アイヌの和人に対する従属性を強めることになる。
アイヌの不満は高まり、たびたび爆発して戦闘にいたった。寛政元年(1789年)、アイヌ最後の武装蜂起となるクナシリ・メナシの戦いが起こった。若手アイヌが中心となって立ち上がったのである。
松前藩は直ちに鎮圧軍を派遣した。この時、アイヌの長老たちは松前藩に協力したので、全面戦争は回避されたのである。協力した12人の長老の姿を描いたものがアイヌの肖像画「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」だ。
作者は蠣崎波響(かきざきはきょう)、名は広年といい12代藩主資広(すけひろ)の5男として生まれた。江戸で絵画を学んだのち、18歳で家老となり松前に戻ったのだった。
波響は翌年、「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」を携えて上洛している。たちまち、京都の人々の称賛の的になる。このようなアイヌの絵は見たことが無かったからである。ついには光格天皇の天覧にまで至ったのだった。
実はこのころ、ロシアをはじめとする異国船が出没し、北方への関心は高まっていた。クナシリ・メナシの戦いに至った蝦夷地の統治も、幕府としてはこのまま松前藩に任せてよいものか、見過ごせなくなっていた。
このアイヌの雄姿を描いた肖像画には、松前藩の「蝦夷地の統治は我々に任せておけばいいですよ」という政治的なアピールが大いに働いているのである。それほど、藩は必死だったのであろう。
こののち、松前藩は本当に蝦夷地を取り上げられて、陸奥・梁川(福島県伊達市)に転封となった。肖像画の作者である波響もこれに従って現地に赴いている。困苦の中でも彼は復領運動を展開する。
多忙の中でも絵を書いてこれを売り、復領のための資金を捻出したという。波響の努力もあって、15年後に松前藩はついに、本領に復帰することがかなったのであった。(了)