マルセイバターサンドに十勝開拓を想う(帯広紀行)
北海道土産の定番として、マルセイバターサンドは欠かせないものだ。
帯広に昭和8年(1933年)創業した老舗菓子店が、昭和52年(1977年)に六花亭と社名変更した際に、記念商品として発売したもので、以来同社の看板商品として地位を占めている。
レーズンとホワイトチョコレートをしっとりしたビスケットでサンドした逸品は、口どけも抜群。今回はこの商品の由来である先人たちによる十勝の開拓に思いをはせながら、この地域の今後も展望していきたいと思う。
【目次】
1.苦労の連続だった十勝の開拓
2.住みよき街 帯広
1.苦労の連続だった十勝の開拓
マルセイとは○の中に成の字を入れたもので、明治38年(1905年)十勝開拓の先駆者 依田勉三(よだべんぞう)が興した晩成社(依田牧場)のバターのことである。当時はバターではなくバタと呼ばれていたようだ。
勉三は嘉永6年5月15日(1853年)伊豆の那賀郡大沢村(現:松崎町)の豪農の3男として生まれた。19歳の時に上京し英学塾(ワデル塾)に学び、その後慶応義塾に進んだ。ここで北海道開拓の志を立てたのであった。
明治15年(1882年)郷里で開拓会社「晩成社」を設立した。この社名は開拓が困難極める大事業であり、数十年後の成就を期するという決意の表れであった。
政府から十勝国河西郡下帯広村(現:帯広市)を払い下げられて、開墾を始めた。明治16年(1883年)、13戸27人が横浜を出港し、現地へ向かった。当時の帯広はアイヌ10戸と和人1戸の寒村だったという。
耕地ができると、大豆、小豆、キビ、トウモロコシ、ジャガイモなどを植えた。しかし、すぐさまシカ猟をする猟師による野火や、ウサギ、ネズミの食害に見舞われる。さらにイナゴの大群に襲われたと記録にある。
明治の末期になると漸く一部の作物の生産は安定することになるが、貯蔵や輸送に課題があり、晩成社の経営に資するところには至らなかったのである。
大正14年(1916年)、勉三は中風に倒れ、9月には先に看病していた妻が亡くなり、12月12日帯広の自宅で彼も息を引き取った。享年73。
最期を迎えて「晩成社には何も残らなかった。しかし、十勝野には・・・。」と言ったと伝わる。
開拓の初期、訪ねてきた客人が豚の餌と見まごうほどの食卓だったという。それでも、勉三は毅然として次の詩を詠んだ。
「開拓の はじめは豚と ひとつ鍋」
この話をモチーフにして考案された菓子が、六花亭のもなか「ひとつ鍋」である。晩成社は成功しなかったが、彼の後に続いた人たちは見事に十勝の開拓を進めていった。
彼自身は苦労の連続だったが、十勝開拓に燃えたわくわくした感動にも満ちた充実した生涯だったと思う。死後、彼の帯広開拓の先駆者として顕彰されて銅像が建立されたのであった。
2.住みよき街 帯広
東洋経済新報社では毎年恒例の「住みよさランキング」を発表している。2024年版において、帯広市が北海道で4年連続1位に輝いたという。全国ランキングでも前年比10位以上上昇して、123位にランクされたとのことだ。
これは帯広が住みやすさにおいても一定の評価を得ていることにほかならない。ちなみに2位以下には函館、苫小牧、稚内、室蘭、富良野などの各都市が続く。
選定の基準は安心度、利便性、快適度、富裕度という4つのカテゴリーからなる20の公的指標である。子ども医療費の助成が中学生に対象が拡大され、所得制限も撤廃されたことが寄与した。
一方、利便性はやや低下を余儀なくされた。唯一の地元百貨店藤丸が閉店したことによる。快適度と富裕度は若干低下したものの、総合順位は4年連続で道内首位を維持したのである。
帯広を含む十勝地方は雄大な大地が広がり、大自然に囲まれている。年間を通じて「十勝晴れ」というほど好天に恵まれることも多い。市内にはショッピングモールや医療施設などが充実しており、生活の利便性も高い。
とかち帯広空港は羽田と直結しており、鉄道も根室本線には特急列車が多数設定されていて、札幌方面への利便性も高い。
主産業である農業基盤も確立しており、これらを材料にしたグルメも豊富である。「豚丼」は全国にその名が知れ渡っている。スイーツでも六花亭や柳月などの老舗が本店を構えている。
勉三の死から百年、漸く彼の苦労が報われて帯広は道内一の住みやすい憧れの都市にまで成長した。マルセイバターサンドをほおばるとき、鍬を振り上げる彼の姿を思い起こしてもらいたい。ますます味わい深いものになるだろう。(了)
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