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生涯、無垢(むく)であり続けた からくり儀右衛門(ぎえもん)!

 6月末に、神奈川県川崎市にある東芝未来科学館を訪ねました。学校の同窓会の行事としての見学会です。申し込んだ後で、同館が6月末で一般公開を終了することが発表されました。

 今回は、ギリギリのタイミングで見学ができましたので、これを題材にエッセイにいたしました。そこに展示してあった「からくり儀右衛門(ぎえもん)」のお話です。最後までどうぞ、お付き合い下さい。

【目次】
1.儀右衛門の生涯
2.儀右衛門に学ぶこと

1.儀右衛門の生涯
 「からくり儀右衛門」とは東芝の創業者、田中久重(ひさしげ)のことである。この名前を聞いても、東芝を思い浮かべることができる人は稀であろう。まずは、彼の生涯を辿ってみることにしよう。

 今から200年以上前、寛政11年(1799年)9月18日、九州は久留米のべっ甲細工師・田中弥右衛門の長男として生まれた。儀右衛門(ぎえもん)とは幼名である。

 幼い頃よりユーモアと遊び心に満ち溢れ、ぜんまい仕掛けのからくり人形を次々と考案していった。家業のべっ甲細工は精緻な加工技術が求められる。これを見ることで、ものづくりというものの本質を理解していったのであろう。

 数え年9歳の時、「開かずの硯箱(すずりばこ)」という装置を作り上げた。20代になると、その才能は開花して、代表作となる「弓曳童子」「文字書き人形」などを製作する。

弓曳童子(連続して4本の矢を放つからくり人形:ウイキペディアから)


 「からくり人形」は幕末期の庶民の娯楽だった。例大祭などで、からくり興行師による人形が現れると、人々は拍手喝采してこれを楽しんだ。これで身を立てようと決意した久重は、家業を弟に譲り、からくり興行師として大坂・京都・江戸を行脚したのである。行く先々で大いに人々を喜ばせたのだった。

 天保8年(1837年)には圧縮空気により灯油を補給する「無尽灯」を発明した。長時間安定した灯かりを提供したことで、生活向上に大いに貢献したのである。

 ペリー来航が迫るころ、彼は齢50にして一心発起、天文学を学ぶことを決意。嘉永3年(1850年)には「和時計・須弥山儀(しゅみせんぎ)」を完成させたのだった。翌嘉永4年(1851年)には、様々な仕掛けを施した最高傑作「万年時計」を世に送り出したのである。

万年時計(干支や月の満ち欠けも表示され、動力はゼンマイのみだ:ウイキペディアから)


 嘉永6年(1853年)佐賀藩に招かれると、蒸気機関車や蒸気船の開発に着手した。元治元年(1864年)故郷の久留米藩にうつり、先端兵器であるアーム砲の開発に携わってほか、火薬技術を利用して筑後川の治水事業にも貢献した。

田中久重(ウイキペディアから)


 明治6年(1873年)、齢73にて新しい首都・東京に向かう。その2年後、明治8年(1875年)7月、銀座8丁目に、新たに工場店舗を構えたのである。看板には「万般の機械考案の依頼に応ず」と書かれていた。久重の飽くなきチャレンジ魂・探求心の現れだった。これをもって東芝は創業の年とした。
 

銀座の店舗兼工場(東芝未来科学館より)

 ユーモアとアイデアに満ちた稀代の発明家、「からくり儀右衛門」こと田中久重が亡くなったのは、明治14年(1881年)のことだった。享年82。幕末明治の激動の時代、人々を楽しませた充実した生涯であったろう。

2.儀右衛門に学ぶこと
 東芝未来科学館は、東芝の創業85周年を記念して1961年(昭和36年)、中央研究所内にオープン。2014年(平成26年)、現在の場所(川崎市幸区)に移転した。

 63年間で1,120万人が訪れたが、同社の事業内容が個人向けから企業向けに移行しつつあることを踏まえて、一般公開の終了を発表したのだった。一部の展示は今後も残るようだが、基本的には顧客や社内向けの施設に衣替えするとのことだ。

東芝未来科学館(ウイキペディアから)


 私が訪ねたのは今年の6月26日(水)の午前、研修室で液体窒素の実験をまじかで見ることが出来た。その3日後に、一般公開を終了したのである。最終日には親子連れなど約1,100人が訪れ、公開終了を惜しんだ。

 読売新聞の記事によると、5月に公開終了が発表されると、継続を望む声が数多く寄せられ、見学の予約枠がいっぱいになる日も増えたという。福家館長は「63年間の歴史の重みと、寂しさを感じた」と話す。

 同社の創業者は、からくり興行師から身を起こし、生涯ユーモアとチャレンジ魂を持ち続けた久重だった。時は幕末から維新、50歳にしてもなお天文学を学ぶなどその探求心は衰えることはなかった。東芝のルーツとなる会社を設立したのはなんと75歳の時である。彼は次のような言葉を残している。

知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、失敗が 
 あり、その後に、成就があるのである

田中久重夫妻(ウイキペディアから)

 失敗を恐れず、いくつになっても挑戦し続けた久重、閉塞感に満ちた高齢化社会を迎える我々に必要なものは、彼のエネルギーではなかろうか。久重は生涯「無垢(むく)」であり続けた。無垢とは幼児のように純粋で穢れのないことを指す。彼のような高齢者が無垢であることに意味があるのだ。

 人生経験が長いと、これまでの蓄積で生きていこうとして、新しいことには敢えて関心を示さない。「もう、歳だから」と老け込むことは、新しいものを拒絶して、成長が止まったことを意味する。新しいことを取り入れる余地が減ってゆく一方で、つい、若者に説教を垂れたくなってしまいがちだ。

 久重を見習って、いくつになっても無垢であり、何でも知りたいという好奇心と遊び心を持ち続けよう。これが自身の活性化にも繋がるし、ひいては社会の発展にも貢献することになるだろう。そして、生ある限り、いつまでもチャレンジし続けていこう。(了)
 
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