五比丘

【閑話】修行で着るものについて

今までの記事がすべて前置きのようになっているので、あらためて「修行」にフォーカスしてみます。まずはとっつきやすい話題から。

そもそも、修行というのは自分の「今のありのまま」を天に、地に、人にさらけ出すところから始まりますので、奇抜なファッションを好む私も、この時ばかりはしきたりに倣います。

修行の場によっては、それこそ褌一丁などということも往々にしてあります。あくまで「丸腰」が基本ですから。

人というものは、とかく防備します。武装します。服装や装具のみならず、心の内も。「丸腰」というのはそれが一切ない状態です。

そういう意味では、不浄の部位のみに最小限の面積で布をあてがう褌は、何も自分に言い訳ができない素の姿しかあらわさないという意味でも、理にかなっています。

ただ、私が単独で、独自の作法に則って、公衆の場で行う修行はそういう訳にもいきません。周囲の誰も、私が修行をしていることを知りませんので。

ということで、白い行衣を着ることになります。これは数年前に知り合った、私の修行のきっかけを与えてくれた人の作法に倣っています。

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いたってシンプルです。公序良俗に反することもありません。

こういう格好をしている人は他にいないので、多少目立ちはするかも知れませんが、誰にも悪印象を与えることのない、まさに「行衣」です。

「白」には大いなる意味があります。

修行を営む自分の心に、少しの卑しい心があれば、たちまちその色に染まってしまう、それを自覚するための白です。ありのままの身も心もさらけ出した上で、浄める志と覚悟を意味しています。

前述の、私に修行のきっかけを与えた人の作法は、もっと厳しいものです。上の写真の服装は、あくまで「修行中の身であることを表す」もので、実際の修行中は行衣の裾を腰で結び、あわよくば疑われかねない状況の下、天地人に恥じぬ、堂々とした振る舞いをするものです。

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この時は、3人で修行していましたので勇気は出ました。うしろめたさも感じず、修行に専念することができました。

一人のときも、こうありたいものです。

常に丸腰で、徳も穢れも清算して、新たな心に浄められるためにも。

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