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まわたのきもち 特別号

2023年号外的夏休み特別号

このエッセイは、2週間に1回というペースで、細々と続けていくことにも1つの意味があると思っているから、いわゆる“ネタ”は取っておいた方がいいに決まっているのだが、夏休みも終盤、その貴重な“ネタ”を使ってしまうことになっても、特別号を書いてみようという気になった。

平成17年に亡くなった母方の祖父は、このエッセイの13号の話題でも触れたのだが、僕が高校2年生だった年の8月15日、お盆のお墓参りに母の実家に行った際、「終戦記念日だね」と言った僕の言葉を否定し、「敗戦記念日だよ」と言った。職業軍人だった祖父は、「敗戦」という言葉にこだわり続けていたのだろう。今になり、祖父が生きていれば、「一体何に敗けたのか?」と問うてみたいが、それはもう叶わなくなってしまった。「いつまでもあると思うな親と金」とは、自立心と倹約の重要性を表した格言だが、当然のこと、祖父母との時間は親とのそれよりも短い訳で、イデアの子どもたちには、祖父母との時間を可能な限り大切にしてほしい、と思う。

この祖父と時間を過ごした高校時代のお盆は、夏休み中、野球部の2日間だけあった貴重な休みの日でもあった。その夏休みの野球部名物は、朝9時から始まったグラウンドでの練習が、昼食をはさみ午後4時に終わってから出発する、12kmのロードワークだった。最後の最後に全ての体力が奪われていく中、いつも口ずさみながら走っていたのが、尾崎豊の「僕が僕であるために」だった。僕の高校時代には、浜崎あゆみや安室奈美恵、GLAYなどが全盛期で、同級生たちがその歌に熱狂する中、僕はひとり、尾崎豊を聞いていた。「僕が僕であるために、勝ち続けなきゃならない」という歌詞を口ずさみながら走り、自らを奮い立たせ、なんとか走り切る毎日を過ごしていた。その時の僕は、間違いなく「歩きたい」「野球部なんてやめたい」という自らの気持ちと闘っていたのだが、一体尾崎は何に勝ち続けたかったのか、なんてことを考えていた。

戦争と歌詞、次元は大きく違うのだが、祖父の言った「敗ける」と、尾崎の歌う「勝つ」。この2つ言葉は2つの対立項を表す代表格である。自分と対立するものを探し、それに勝つために行動することは簡単だ。「あの人に負けたくない」という気持ちは、自分を奮い立たせる原動力になる。しかし僕は、イデアの子どもたちには、対立項の中に身を置き生きていくことはしてほしくない、と思っている。

そもそも対立項は、平等で無い状況から生まれてくる。民主主義、資本主義、共産主義、社会主義。いずれにしても“真の平等”なんてあり得ないし、子どもたちにはそのことを折を見て話してもいる。しかし、だからこそ対立をするのではなく、「あなたはあなた、私は私」を認めて生きてほしいと思うのだ。特に勉強は、個人差が顕著に現れる一方で、スポーツや芸術に比べたら、よほど平等であるとも思う。先天的なセンスや身体能力に頼ることが少ないからだ。この夏休み中も、初めて出会ったであろう勉強量に驚きつつも、ひたむきに取り組む1年生がいた。最初は2行しか書けなかった作文を、100文字書き切れるようになった1年生がいた。苦手な教科に途方に暮れつつ苦労して向き合った子がいた。遊んでいるみんなの横で、英検の勉強に打ち込んだ子がいた。再テストに、何回も何時間もチャレンジした子がいた。コミュニケーションが苦手でも、必死に他者と関わった子がいた。自分の思いが通じずに悩みながらも、それを伝えようと頑張った子がいた。自分に無いことを探したらキリがない。しかしそれを克服しようと向き合ったのなら、きっと、何かを得たはずで、イデアの子たちにとってそんな夏休みになってくれていたら、と思わずにいられない。

今年のお盆は、帰省しないことにした。「敗戦記念日」と祖父が言った8月15日、墓前で、「その時の日本は、その時の日本に敗けたんだね」と、僕の結論を報告するのは、来年まで持ち越しになりそうだ。

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