まわたのきもち 第18号
「守るべきものと手放すもの」
学校は、守るべきものと手放すべきものを、今一度整理すべきである。そう思ったのは、小学生の夏休みが明けてすぐのことだった。
かつて、教育行政の要職を歴任し、教育学の研究者に転じた伊藤俊夫という先生がいる。筑波大学の母体である東京教育大学を卒業後、前橋市教育委員会、群馬県教育委員会、文部省(現文部科学省)で要職を務められ、平成3年に東京家政大学文学部の教授になられた先生で、地域と学校の関わりについてご造詣が深かった。残念ながら2020年にお亡くなりになってしまったが、過去に2回ほどご講演を聞く機会に恵まれた。先生は、「社会の過度な学校依存体質と過度な学校万能思想が相乗して、教育の名のつくものの殆どを持ち込んだ学校は爆発寸前である」[i]として警鐘を鳴らされた。1996年に先生が主張された通りに、その後も社会の学校依存体質は変わらず、学校がすべきこととすべきでないことの議論は置き去りのまま、「開かれた教育課程の推進」、「教員の働き方改革」、そして「部活動の地域移行」という、言葉だけの議論が進んでいる。
少し話は変わるが、先日、西武百貨店の池袋本店で、ストライキが決行された。
ストライキは労働者が自分の仕事や職場を守るために、当然に認められた権利であり、今回、その重い決断をした西武百貨店の労働者、労働組合のことを、僕個人としては応援の気持ちをもって見ていた。このストライキをするという権利は、公立の学校の教職員には認められていない。教職員に限らず、公務員は労働基本権のうち、ストライキを含む「争議権」は認められていないのだが、よく考えれば、法律により争議権という民主的な手法を奪われた人々が、行政職員のように民主主義の番人となったり、あるいは教員のように民主主義の大切さを教えたりするのは、矛盾してはいるのではないか、と思うのだ。
さて、夏休みの家庭学習。イデアでは宿題が出た学校に通う子に関しては、7月中にやり終えるように学習を進めた。一方で、とある学校のように、宿題を廃止して家庭学習とした学校に通う子に関しては、夏休み用のドリル(主に1学期の復習)に取り組んだ。家庭学習だから、やる内容も手法も自由だろう、と進めた学習だったが、始業式の日、学校指定のノート以外は提出を受け付けてもらえなかったと聞かされて、僕は愕然とした。自主性・主体性の育成のために家庭学習としているのに、その内容や手法について、学校が指定したもの以外は認めないのである。これは枠にはめた「丸投げ」以外の何者でもない。争議権という民主的手法を取り上げられた人々が、日々子どもに民主主義を教えている公立学校の現状と、自主的・主体的な手法を認めず、それでいて自主性・主体性を育てるとしている家庭学習の現状が、僕は似ているように思えるのだ。
宿題を廃止して家庭学習に移行する、という流れは、全国的に広がっているようだ。それ自体は大いに歓迎する変化である。問題は、宿題をやめるということにより、学力が下がる子は一定程度いるという事実を認めるということを、学校側がしていないことにある。それを受け入れ、家庭学習を提出させることをやめ、「学力を上げたい」と思っている子の主体性に任せるべきなのだ。それが本当の自主性・主体性の育成であろう。教育が目指すところの、「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」(教育基本法第1条)とは、つまり「民主主義を尊重する民主的な人間の育成」だ。民主主義社会とは、自由を認める代わりに自己責任を課す社会である。
宿題を手放す。つまり、学校外での学習を手放すということは、学校が手放すべきものを手放し、地域や家庭に任せるべきものを任せる、ということだ。中途半端に学校が関わるのではなく、徹底して自主性と主体性に任せる、というところから、スタートすべきではないか。
[i] 伊藤俊夫「新学力観と学社融合」(『週間教育資料』1996.7.15)日本教育新聞社 p37