5/9フィールドワーク@立川市
毎年恒例のフィールドワークを5月9日に行いました。
今年も「戦争の足跡をたどって」というテーマのもと、立川市・昭和記念公園周辺のアジア・太平洋戦争関連史跡をめぐってきました。
立川市の歴史
1922年、帝都防衛構想の陸軍飛行隊中核拠点として、立川には立川飛行場が建設されます。この立川飛行場は、1933年の羽田飛行場建設まで、東京の航空拠点の中心を担い、「軍都」や「空都」と呼ばれるほどにまで発展します。
立川飛行場の周辺には、日立航空機など主要な航空機メーカーの製作所、陸軍航空工廠などの軍事施設が多く建設されました。そのため、アジア・太平洋戦争の際には、1945年に13回の空襲を受け、合計340人の死者を出しています(立川大空襲)。
戦後は米軍に接収され、1955年には立川基地拡張計画に反対した住民が警察予備隊と衝突を繰り返す事件も起きました(砂川闘争)。1977年には全面返還された後、一部は国営昭和記念公園(1983年10月開園)および立川モノレール基地、となり、残りは陸上自衛隊立川駐屯地となって現在に至ります。
旧日立航空機立川変電所
東大和市郷土博物館にお願いし、内部を見学させていただいています(通常、一般公開日は毎週日曜日・水曜日10:30~16:00)。
1938年に設立されたエンジン製造のための軍需工場、東京瓦斯(ガス)電気工業株式会社(1939年~:立川航空機株式会社)の変電所です。建物内外には機銃掃射痕やB29の落とした爆弾が炸裂した傷跡が残っています。東大和南公園設立にあたって取り壊し予定だったところですが、戦災建造物保存のための市民運動によって残され、1995年10月1日、東大和市文化財(史跡)として指定、保存公開のための修復工事が進みました。2020~21年にかけての保存・改修工事を終え、現在は内部公開が再開しています。
陸軍航空工廠の廃線跡をたどる
今年は陸軍航空工廠への引き込み線跡をたどって歩きました。陸軍航空工廠は、1938年9月に陸軍造兵工廠名古屋工廠飛行機工場から移転という形で、1940年4月1日に陸軍唯一の飛行機製造部門として設立されています。この工場では、終戦に伴う解体まで1万人ほどが航空機生産に従事しました。1938年以降、飛行機制作は競争試作から一社指名に1938年以降切り替えられています。陸軍航空工廠の設立は、その技術指導の一本化のためという背景もあります。設立当初、3150人の従業員の住居・生活環境確保も重要となり、公衆浴場、映画館、マーケットなども併設された八清住宅も近郊に建設されています。
廃線跡モニュメントは、むさしの公園の奥の方にひっそりと設置されていました。
陸軍航空工廠の碑はほぼ住宅の中にありました。この記念碑は1992年に建てられていますが、1990年代の保存調査、そして1995年の文化財保護法・保護条例制定という流れのなかで建てられたものと見られます。
引き込み線跡あたりは線路地形が明確に残っていました。通りの名前も中神引き込み線通りとなっていました。
歴史の地層を感じることができたでしょうか?ゼミ3回生のみなさんの今後の成長に期待しています。