山藤孝一の『笑っちゃ駄目ヨ!!』
この小説は井上雅彦さんによるアンソロジーシリーズ「異形コレクション (光文社文庫)」の一冊『喜劇綺劇(2009年刊)に掲載された短編です。今のところどこの短編集にも収録されてはいません。おそらく私が書いた短編の中でも厭さが1,2を競う『厭な小説』です。かさぶたはがすような気持ちでお楽しみください。
「平和は条約によって補償されたりするもんじゃあないわけですよ。国力を持ち、軍備を整えることで国防を充実させる。それが平和へと通じるわけです。つまりね、矛盾するように聞こえるかもしれませんが、戦争を回避したいのなら軍備を整えろということなんですね」
客席からの大きな拍手。
「なるほど。非常にわかりやすい話ですね。我々も国の行く末に関して真剣に考えるべき時が来ているようです。今日は国際政治学者、国防王子こと基山タスク教授をお招きして皆さんと一緒に国防について考えてみました。今日は教授、どうもありがとうございました。それではCMを挟んで、爆笑ワラ-イチへの道です」
テレビでお笑いのコーナーが始まりそうだったので、山藤孝一は支払いを済ませてそそくさと喫茶店を出た。
山藤はくだらないことが嫌いだった。ふざけられると腹が立った。しゃれの通じない人間だと言われるのが密かに嬉しかった。学生時代からそうだったし、結婚して子供のいる今になってもそうだ。真面目であることを馬鹿にするような風潮にはずっと逆らってきた。真面目で何が悪いと公言する彼を嫌うものも多かったが、逆に好む者も少なからずいた。だからこそ彼は老舗の食品会社でそれなりに成果を収めて営業部の部長にまで出世できたのだ。だがそんな彼にとって今は特に生きにくい時代だったろう。
何回目かのお笑いブームだった。不況は続き、震災を含め何度かの大きな天災に見舞われ、しかも隣国からのミサイル攻撃が頻度を増し、開戦間際だと言われるこの時代。募る不安を笑うことで解消しようと、このお笑いブームが起こったのは間違いないだろう。
不安になる心情をわからないわけではない。だが国のことを真剣に考えているのなら、笑いに逃げるなどという卑劣な行為は許されるべきではない。どうしてお笑いが嫌いなのだと聞かれると、彼は憮然としてそう答えるのだった。
かつてあったその手のブームで、何度か山藤もお笑い番組を見たことがあった。そして激怒した。お笑いお笑いと言いながら、禿げているだの太っているだのといった身体的特徴を笑い、老人のような社会的弱者を笑い、熱い湯に飛び込ませ、叩き殴り、困惑し苦痛を訴える人間を笑う。笑う者の心の卑しさだけが目立つ。それが彼の知っている「お笑い」だった。
今またお笑いブームだということは知っていたが、それがどのような内容なのか知る気もなかった。マスコミが「お笑い」だの「爆笑」だのと記した時点で、テレビは消して雑誌は捨てた。心の底からその手のものを嫌っていたのだ。
だからその日の公園で見たそれが、初めてのオワライだった。
日曜日の朝だ。山藤はいつものように近所をランニングした。体力の衰えを感じた頃から、ずっと続けてきたランニングだった。いつものコースをゆっくりと回る。それから馴染みの喫茶店に入ってモーニングセットを頼み、新聞を読みながらゆったりと朝食をとって、昼前に家に帰る。雨の日であろうと、少々風邪をひいていようと、欠かさず行ういつもの日課だった。だが最近では、その喫茶店でつけっぱなしのテレビでお笑い番組が始まることで、ゆっくりと休憩する間もなく店を出ることが多くなってきた。今日のように。テレビなんかのない喫茶店を探さなきゃならないなあと思いつつ、公園の中を通る。それがいつもの朝のコースだったのだ。
するとそこに人だかりが出来ていた。そう言えば数日前から公園の真ん中に櫓が組まれていた。町内の祭りにしては季節はずれだと思っていた。今その櫓の上に、一人の男が立っている。
大きな目をぎょろりと見開いていた。黙って睨まれれば恐ろしいであろう悪相だが、へばりついたような笑みをずっと浮かべている。
彼は黄色いオーバーオールを着ていた。胸に赤く「ワラ-イチ」の文字がプリントされている。何より山藤の興味を引いたのは、彼の横に置かれている麻の袋だった。大きなその袋はもぞもぞと動いていたのだ。
「ええ、みなさんようこそお集まりくださいました」
スタンドマイクを調節しながら男は言った。
「私こうやってオワライをやらせてもらってます。漆原セミです」
拍手が沸き起こる。
オワライの一言があった時点で興味を失い、山藤は公園を通り過ぎようとした。
「長引く不況に不穏な世情と、この先何かと不安に感じておられる方も、とにかくこの一時は浮き世を忘れて大笑いしましょうよ。おっと、お客さん。お客さん!」
漆原は山藤を指差した。
「そこのエンジのジャージ上下着たおじさま。通り過ぎちゃあ駄目ですよ」
みんなが山藤の方を見た。それでも立ち止まらなかった。
「何無視しようとしてるの。ほんと、お仕置きしちゃうから。押して起きて、オシ、オキィ~って、おいおい」
どっと笑いが起こった。
「ちょっとだけ、見てってくださいよぉ」
集まった人がみんな山藤の方を期待するような目で見ている。仕方なく山藤は立ち止まって振り返った。漆原のへらへらと媚びたその笑い顔は気に入らなかったが、その横の麻袋が少々気にはなっていた。
「どうぞどうぞ、前まで来てくださいよ」
漆原が招く。人垣が左右に分かれた。成り行きで、山藤は最前列まで進んだ。
「ありがとうございます。漆原セミでございます、ってさっき言いましたけどね」
くすくすと笑いが起こった。
「今からオワライによる大爆笑啓蒙コントのはじまりっす。あちゃあ、自分で大爆笑って言っちゃったよ」
拍手が巻き起こる。
櫓の周囲にはスタッフらしい人間が何人も立っている。率先して拍手し笑っているのも彼らだ。カメラも二台あり、照明や音響の人間もいた。カメラには地元の放送局の名前が書かれてあった。
「なんとか小爆笑ぐらいには持ち込みますんで、よろしくね。今日のお相手はこれ」
漆原は麻袋に両手を伸ばして指をわらわらさせた。
「さあ、何が出るかな」
袋の口を締めたロープをほどく。
「じゃじゃーん」
袋から出てきたのは白いブリーフ一枚穿いた半裸の男だった。
悲鳴混じりの歓声が上がる。
男は頬はピンク、唇は真っ赤、目の回りを真っ青に塗って、長い金髪のカツラをかぶっている。そして足には真っ赤なハイヒールだ。
男は恥ずかしそうに目を伏せ、身を縮めていた。
「でたっ、おかま!」
みんなが笑う。
「……何が悪いの」
「何も悪くないわよん」
漆原は身をくねらせながらそう言った。
「ただちょっと気持ち悪いだけですけどね」
ねっと観客を見ると、拍手が起こった。
「本名なんだったっけ」
「……木下雄三」
「雄三、お母さんは泣いてるぞ」
「泣いてません」
声が途中で裏返る。どっと笑いが起こった。
「こいつこんなごつい顔してますけどね、小さいときから人形遊びばっかりしてたんですよ。で、ついた仇名が?」
「……リカゾー」
「なんじゃそれ」
また笑いが起こる。
山藤は怒りのあまり顔が青ざめていた。握った拳がぶるぶると震える。そのまま帰れば良かったのだが、それも出来ないほどに激怒していた。
思わず叫んだ。
「それは差別だ!」
「おやあ、さっきのおじさま」
漆原は嬉しそうに言った。
「さあ、本日のゲストです。素敵な人権おじさま。どうぞこちらへ」
漆原が舞台から山藤の手を引くと、左右からスタッフが出てきて彼を舞台へと押し上げた。身動きとれないままに壇上に上げられる。
「ようこそいらっしゃいました。ええと、お名前は?」
「……」
「あらあ、恥ずかしがり屋さん。もしかしておじさまもリカゾーさんのお仲間?」
「馬鹿か!」
藤原は怒鳴ったが、漆原はいっこうに応えた様子がない。
「えっ、馬鹿。変わったお名前ですね」
大爆笑。
「山藤だよ」
「なるほど、馬鹿藤さん」
また爆笑。
「じゃあ、馬鹿藤さん。素晴らしいご意見をお持ちなんですよね。ええとフルネームは馬鹿藤人権馬鹿さんですか」
「いい加減にしろ」
「やだなあ、不機嫌になっちゃ駄目ですよ。シャレですよ、シャレ。笑いが一番。笑う門には服着たら暖かい」
言って観客を見回す。
「でも脱いだら寒い」
小さくくすくす笑うのが聞こえた。
「ほら、微妙にすべっちゃったよ。んで、馬鹿藤さんとしては、おかま大好きなわけですね」
「そんな問題じゃない。おまえのやってることはただの差別だ。暴力だ。イジメだ」
「いやあ、見てのとおり、お互いに理解し合って楽しんでるんですよ。なっ」
男の胸を平手でパンと叩いた。白い肌に掌の形がくっきりと赤く浮かび上がる。
「おまえはホワイトボードか、っていうか、不細工なおかまの価値はホワイトボード以下っしょ」
笑い声。スタッフが腹を抱えている。
「ふざけるな!」
「それは無理。ふざけて飯食ってますから。なっ、おかま」
「……おかま言うな」
「えっ、なんて言ったのかな」
耳に手を当てて男の方に顔を近づけた。男は漆原を睨みつけて口を開いた。
「おかまって――」
「はい、というわけでね、応援が来たと勘違いしちゃいましたよ、汚い顔して」
笑い声があがる。
男は羞恥と怒りで顔を真っ赤にしていた。
「なんでおまえは人のことをそう馬鹿にするんだ」
「あれえ、馬鹿藤さんがまた」
最後まで言わせずに、山藤は拳を漆原の顔面に叩きつけた。すぐにスタッフたちが壇上に上がってきて山藤を押さえる。数人にのし掛かられ、腕を捻り上げられ、頭を床に押さえつけられ、山藤はぴくりとも身動きがとれない。
「困った人だなあ」
鼻血を拭いながら漆原は言った。
「我々は笑いのある楽しい暮らしを保証するために政府から派遣されているんですよ。駄目なものが駄目だってことを笑いに包んで市民のみなさんに提供しているのに。ほんと、困った人だ。すみませんねえ」
漆原は客席に頭を下げた。
「ちょっとしたハプニングということで、それでは馬鹿藤人権馬鹿さんですたー。みなさん拍手」
拍手に送られ、山藤は壇上から引きずり下ろされた。
*
「馬鹿にもわかるように、簡単にかみ砕いて説明してやるからな」
西日の射す埃くさい部屋の中で、山藤はスチールのテーブルを挟んで漆原と対峙していた。山藤は後ろ手に手錠を掛けられ、パイプ椅子に座らされている。公園からすぐ近くにある公民館の二階だ。
山藤はふてくされてそっぽを向いていた。
「家族法っての、知ってるかなぁ?」
子供に教えるような口調だ。
「知らないんだね。いいですよ。じゃあ、おにいちゃんが説明するとね」
「知らないことはない。要するに家族を大事にしましょうって、当たり前のことを条例で言ってるわけだろう」
漆原はニヤニヤ笑いながら立ち上がり、山藤の隣に来た。
「ブッブー。まず条例じゃない。刑事法だよ。なあ、おっさん。知らないことは知らないと認めようや。知ったかぶりは一番恥ずかしいことだからね。わかりまちゅかー」
漆原はぐいと山藤に顔を近づけてそう言った。
「馬鹿には理解できないかもしれないけど、出来るだけ簡単に説明するから。わからなかったときとか痛かったときには左手上げてください。わかりましたか」
山藤は憮然として漆原を睨む。
「はいはい、とにかく聞いとけ。家庭法は、家庭を国体の最小の単位と考えることから始まる。で、そこが健全に保たれるのなら、国体もまた健全である、というのが根本理念だ。だから家庭内においても風紀を紊乱したり、治安を乱すものがあれば、それは取り締まりの対象となるわけだ。この非常時だからね。やがて国を乱すようになる人間は、家庭の中にいる間になんとかしておこうというわけだよ」
「それとお前の悪質なイジメと何の関係がある」
「おまえは本当に世間知らずなんだなあ。箱入りオヤジかよ。いいかい、俺は国家公務員なんだよ」
「国家公務員が何だ。国家公務員なら人をからかったり虐めたりしてもいいのか」
「内務省保安課喜劇部特別喜劇官というのが我々の正式名称だ。一般にはオワライって呼ばれているけどな。笑いは人の心を豊かにする。笑いにくるめば、難しいことでも楽しく理解できる。たとえ誰かが罪を犯したとしても、笑いでそれを解決していきましょう」
山藤は鼻で笑った。
「何をわけのわからんご託を述べてる」
「馬鹿は理解できないことを言われると、言った方を馬鹿にするんだよな。まあ、最後までしっかり聞けって。俺たち喜劇官は家庭法の取り締まりに関して全権が与えられているんだよ。袋の中にいたあの男は同性愛者だ。それはわかるな」
山藤が頷く。
「家庭法では同性愛が禁じられている。子孫繁栄に反する行為、たとえば堕胎なんかも同じだ。違反すれば刑事罰だよ。いや、同性愛そのものはただの変態だ。変態趣味そのものは不道徳だがどうしようもない。人に迷惑を掛けない程度ならな。しかし恥ずべき変態行為なのにカミングアウトと称して人にそれを堂々と公表することは禁じられているわけだ。誰がどう変態であろうと、一人でこそこそしている間はいいけどね。堕胎はもともと人殺しなんだから認められない。まあ、どっちもあたりまえのことなんだけどね」
「あたりまえとも思わんがね。しかしどっちにしたって、あの男を侮辱していいというもんじゃないだろう」
「だから、あれは社会奉仕命令って奴だよ。あの男は家族法違反で有罪判決を受けて、社会奉仕を命じられて喜劇官である俺の補佐をしていたわけ。あんな罪人をどんどん刑務所に入れていったらたちまち一杯になっちまうだろ。だから本人が罪を認めた上での簡易裁判で一部執行猶予の判決が下されたら、刑罰としての奉仕活動をするわけだ。あれはあいつの労役なんだよ。どう、事情、わかったかな」
返事の代わりに、山藤は漆原の腕時計をちらりと覗き見て言った。
「家に電話させてもらえるか」
「はあ?」
「もうずいぶん遅い。家族が心配しているかもしれんからな」
「ああ……」
わざとらしく溜息をついて、漆原は頭を抱えた。
「やっぱ、おっさん、なんにもわかってなかったんだ。こうやって一生懸命説明してるんだけどね。あんたなんでこんなに世間知らずなんだ」
「世間知らずの何が悪い」
山藤は漆原を睨むと「私はお笑いが大嫌いでね」と誇らしげに言った。
「最近じゃあ、右も左もお笑い番組ばっかりで、いい加減うんざりしてテレビも新聞も見ていない。新聞はこの間オワライ特集とかやっていたんで、解約した」
「あんた、なんでこんなところに手錠掛けて連れられてきたと思ってるんだ」
「あんたを殴ったからだ」
「それなら交番とか警察署とかに連れて行くと思わないか」
「……まあ、そうだが」
「喜劇官がこうしている時点であんたは起訴されたわけだよ。しかも家庭法で裁かれているわけだから、今ここで喜劇官である俺があんたを裁いている最中なんだよ」
山藤がそんな馬鹿なことがと鼻で笑ったと同時に、漆原は彼の胸を正面から蹴った。
パイプ椅子ごとまっすぐ後ろに倒れる。後頭部をイヤというほど床にぶつけた。後ろに回した両手がパイプ椅子に挟まれて千切れそうだ。
何をするんだと言いかけた、その口を踏まれる。漆原は革靴で容赦なく顔を踏みつけてきた。どこかが切れたのだろう。口の中が錆臭い。
「こんな事が法治国家で許されるはずがない。いずれ裁判でこの暴力沙汰を告訴してやる。そんな事を考えているんだろうなあ。なあ、人権馬鹿くん」
横に来てしゃがみ込みそう言うと、椅子の背を持って一気に起こした。
「このまま済むと思うなよ」
「このまま済みはしないさ。まだあんたに判決を下してないわけだし」
「これは私刑{ルビ・リンチ}だ」
「だから俺は公務員だって言ってるでしょう。公務員がやってるんだから、これは公の刑罰だよ。馬鹿には何回も同じ事を繰り返して説明しないと駄目だから疲れるんだよなあ」
言いながら近づくと、山藤の右耳を掴んだ。
「家庭法の適用に関して」
掴んだ耳を引っ張り上げる。
「やめろ、止めろ、やめんか、頼む、止めてくれ」
身体が椅子ごと持ち上がりかける。
耳朶の下が裂けて、じわりと血が流れた。
「ほとんどすべての権利が喜劇官に与えられているんだよ」
いきなり手を離した。
椅子の脚が床に当たって大きな音を立てる。
「そんな、むちゃくちゃだ」
「もっとむちゃくちゃにできるよ」
そう言って漆原はニヤニヤと笑う。
ノックの音がした。
「はいどうぞ」
漆原が言うと、失礼しますと背広姿の男が畏まって入ってきた。
「これを」
一枚の紙片を捧げ持って漆原に渡す。
「ああ、ありがとう」
失礼しましたと言い残し、男はそそくさと出ていった。漆原は渡されたレポート用紙を見ながら言った。
「えっ、あんたまだ五十五歳か。それにしちゃ老けてるなあ。分別つけすぎ。お母様はご健在ですか。それはよろしい。大事にしてますか。親孝行しろよ。してないのなら、それも罪状に加えるぞ。ほお、奥さんが七つ年下か。そんな顔したなかなかやるなあ。息子は大学生。結構いいとこいってるねぇ。私立じゃあ金がたいへん――」
「ちょっと待ってくれ」
山藤が途中で話を遮った。
「なんでそんな事を知ってるんだ。いつ調べた」
「今だよ。おまえのフルネームはわかっているわけだ。その名前でこの近所に住んでいて年格好が同じ人間を検索したら一発で引っ掛かってきたってわけだ。それにしても幸せな家庭をもっているのはうらやましいよ。その幸せは大事にしたいよな」
「何が言いたいんだ」
「通り魔殺人とかあったときに、思ったことないか。『親は一体どんな育て方をしたんだ』って。罪人の家族ってのは悲惨なものだよな。毎日のイタズラ電話に近所からは村八分。窓は割られるし、ポストの中身は水びしょだし。悪い奴ってのに容赦ないよ、世間ってやつはな」
「だから私は何もしていないじゃないか」
「罪状を読み上げようか。喜劇官の公務を故意に邪魔をして殴り倒したことだけでも、七年以上の刑期を科せられるんだよ。長々と裁判をしたいか? 判決が出るまでは容疑者で犯人じゃないとか、罪を憎んで人を憎まずとか、世間の人は思ってくれないよ。裁判中も君は罪人扱いだ。しかも家族法でそこまで粘った人間はいないから、マスコミがそれを報道するだろうな。今の時代、何よりも家庭法に反した国賊に対しての風当たりは強いぞ。かくして家族は国を裏切った大罪人の家族になるわけだ。当然のことながら、マスコミと世間様によってそれなりの扱いを受けることになる。君は仕方ないにしても、家族がそれに耐えられるかなあ」
「しかし……私は何にもしていないじゃないか」
それに応えず、漆原はポケットから爪楊枝を出してきた。
「定食屋とか入るとさあ、ついついこれ、持って来ちゃうんだよね。せこい癖だとは思うんだけどさあ」
山藤の髪を掴み、無理矢理上を向かせた。
「じっとしててくれよ」
掌全体で顔を押さえながら、人差し指と親指で、片目の瞼を開く。そしてそこに爪楊枝を近づけた。
「心配するな。涙腺にちょっと突っ込んでみるだけだから。いやあ、いっぺんやってみたかったんだよ」
楊枝の先が眼球にゆっくりと迫った。
「穴があったら入りた~いなっと」
おかしな節をつけながら漆原は歌った。
山藤の息が荒い。ぷるぷると腕が震えていた。
「知ってる? この目頭のとこの穴は涙点って言うんだよね。じっとしてろよ」
小さな小さな穴の中に、楊枝の先が差し込まれた。
山藤は小声でやめろやめろと呟いている。
「動くなよ。動くと穴が裂けちゃうぞ」
言いながらつまんだ楊枝を左右にぐりぐりと回した。
動くに動けない山藤の口から、ひぃー、ひぃーと悲鳴混じりの吐息が漏れる。
「ありゃ、血が出てきちゃった。悪いことしたね。で、何の話をしてたっけ」
楊枝をそのままにして山藤から離れた。木製の涙のように、楊枝が目頭からぶら下がっていた。
「……私は、何もしていない」
涙声で山藤は言った。
「みんな笑いで和んでるときにだよ、どうしてあんなシャレのわかんないことをするのかなあ。正義感? それって空気が読めないだけで、正しくもなんともないんだけど。あっ、反対側の目をやってもいいかなあ。今度は血が出ないようにするからさあ」
返事を待たず瞼を開く。
山藤が何かを呟いた。
楊枝を目に近づけながら漆原が訊ねる。
「なんて言った」
「……悪かった」
「聞こえないなあ。何だって」
「悪かった」
「何が悪かったの。頭が?」
「せっかくの舞台をむちゃくちゃにして、悪かった」
「謝罪ってそんな簡単なものだったっけ。勤め先で大口の受注を失敗して、悪かったで済むかねぇ。いい年してるんだから、そこら辺のところはもうちょっと理解してるかと思ったんだけどね」
「……申し訳ありません。私がつまらないことをしたばっかりに」
「独りよがりのどうでもいい正義感を子供のように振りかざして自分だけ気持ちよくなりたかったばっかりに、だな」
「私が独りよがりのどうでも良い正義感を振りかざし」
「子供のように振りかざし」
「子供のように振りかざし、自分だけ気持ちよくなりたかったために舞台をむちゃくちゃにして、乱暴なことをしてしまいました。心から申し訳ないと思っています」
「罪を認めたわけね。じゃあ、今の言ったことここに書いて」
右手の手錠を外し、左手を椅子に繋いだ。テーブルの上に書類が置かれてある。山藤は言われるままに書類に書き込み、最後に拇印を押した。
「はい、OK。これで一部執行猶予の判決が出ました。よかったね。さて、それじゃあ社会奉仕命令を下しますか。あのおかまは違う喜劇官に預けられることになったんでね、あんたには俺の相方を頼むわ」
「私の仕事は、どうなる」
漆原は冷たい目で山藤を睨んだ。山藤はその意味を察し、言い直した。
「……私の仕事は、どうなりますか」
「三年間休職。手続きはこっちでやってやるよ。いっとくけどその間は無給だ。ああ、でも弁当とかでるから、食うのに不自由はしないよ。ただ家族を食わせるのはちょっと難しいけどな。でもまあ、そこそこ貯金もあるみたいだから、節約したら三年ぐらいなんとかなるさ。家族がどう思うかは知らないけどな。でと、そうだなあ。さっき大受けだったからあんたには一応芸名つけとこうか。あんたなかなか芸がありそうだから。あのおかまはほんとにただおかまなだけで、満足に話すことも出来なかったからなあ。だからおかまってそのままの名前だったけどさあ。それで馬鹿藤人権馬鹿ってのがあんたの芸名な。キャラ設定としては人権とか騒ぎ立てるおまぬけ左翼キャラな。そうそう、一応顔を隠すのが規則なんだよ。あんたの好きな人権保護のためにな。おかまみたいに化粧する? 俺としては仮面がお勧めだなあ。人権仮面。そんな心配そうな顔をすんなって。あんたはそのままでいいんだよ。俺が笑わせる。で、あんたが笑われる。やってみればわかる。必ず受けるさ。
*
「漆原セミと馬鹿藤人権馬鹿がお送りする人権コント。はい、陰険、じゃんけん、人権ほいっ!」
二人揃って奇妙な踊りを踊る。ここでもう既に笑いが起こっている。
漆原が一歩前に出て、言った。
「この人が私のお尻を撫でました」
山藤が深刻な顔で答える。
「仕方ないよ、人にはお尻を撫でる権利があるからね。ホラ、君もおじさんのお尻を撫でて良いよ」
「んなもん、いるかあ!」
爆笑だ。
だがちょっと注意深く聞けば、その笑いがどこかヒステリックであることに気がつくだろう。
「はい、陰険、じゃんけん、人権ほいっ!」
「この人に殴られました」と漆原。
「仕方ないよ、人には殴る権利があるんだから」と山藤。
「よし、それじゃあ、俺もこいつを」
拳を振り上げると、
「それは駄目だよ。復讐は民主的じゃないよ」
「殴られ放題かい!」
ここで大爆笑だ。
二人は笑いと拍手に送られ、舞台から戻ってきた。今日は公民館の大ホールで「爆笑! オワライの品格」というイベントに参加していた。メインになっているのは、テレビなどでもよく知られている大学教授の講演だ。危機的状況での国民の品格ある対応を論じることになっている。
客席は満員で立ち見まで出ていた。
お疲れ様です、と口々に言うスタッフに迎えられ、二人は控え室へと戻ってきた。
「今日は打ち上げの用意も出来ておりますので、おつきあいいただけますか」
「いかせてもらいますよ」
漆原はにこやかにそう言った。
スタッフがみんな出て行くのを待って、その笑みのままに山藤を見て言った。
「いやあ、あんたにこんなに才能があるとは思わなかったなあ」
「ありがとう」
化粧を落としながら山藤は言う。
「全部漆原さんのおかげですよ」
「いつの間にか人気コンビになったよなあ。たいしたもんだよ。コンビ結成してもう三年近いんだけど、どうだい、半年の契約期間を過ぎてもお笑い続けてみないか。どうせ会社もクビになっちまったんだろう。奥さんだって子供連れて出て行ったんだし、今更もとの生活には絶対にもどれないわけだしさあ、どうよ。なかなかいい話だと思うけど」
「やる気はあります」
「そうだろう、そうだろう。それじゃあ、俺の方からワラ-イチに応募しておいてやるよ。まだ執行猶予中なわけで、ボランティアだからノーギャラだけど、ちょうど優勝決定のときには刑期も終えて、しっかり優勝賞金は俺たちのものになるわけだ。いい話じゃないか」
「はい、がんばります」
山藤は二十歳以上年下の男に深々と頭を下げ、薄くなった頭頂部を見せた。
「それで、あの、これはいつ外してもらえるんですか」
足首につけた金属の輪を指差した。保釈中に居場所を知らせるためのGPS機能がついた監視用のアンクレットだ。
「これだけ忙しいんだから、単独で行動することもないだろう。それでもそれを外したいか」
「なんか隙間がかゆくて。このまま風呂に入るのが悪いんでしょうね」
「当然執行猶予期間が過ぎたら外せるさ。と言うことは、もう一月もないな。正確に言うと二十七日後に、それはあんたの足から離れる。おっと、もうこんな時間だ。次は青森なんで、新幹線何時だった」
最後の台詞は扉の外に大声で怒鳴った。
外から八時です、の声が帰ってくる。
「よっしゃ、そろそろ打ち上げに行くか」
漆原が起ち上がり、山藤がそれに続く。舞台衣装も含めて荷物を持つのは山藤だ。
役所で用意した打ち上げに参加し、飲み、食べ、喋り、スポンサーや上司に媚び、笑わせ、解散してから新幹線で移動し、テレビの収録を終わらせてからホテルにチェックイン。お休みなさいと頭を下げて自分の部屋に入る。それぞれ別の部屋に泊まれるようになったのも人気が出たおかげだった。
山藤は風呂に入り、ベッドに潜り込んだ。
初めて彼はほっ、と息をつく。自然とニヤニヤ笑いが浮かんだ。
ようやくワラ-イチ、オワライ日本一を決めるイベントに参加することが出来るようになった。
その事実をじっくりと噛みしめると、どうしても頬がゆるむのだ。
この仕事を始めてから、彼は笑いに関して徹底して研究した。もともとが真面目で研究熱心な努力家だ。やがて解答を手に入れる事が出来た。
今ある笑いは、どれもこれも攻撃的な笑いだ。攻撃することで攻撃されるかもしれないことを忘れる。そのための笑いだ。
反政府的なあり方。秩序を保つことに対立するもの。そんなものを否定し攻撃的に笑うことで今を肯定する。つまり笑い飛ばすことで不安を糊塗する行為。それが今あるお笑いだった。
笑いはスタッフが扇動して起こる。そして観客は、空気を読んで笑う。決して強制はされていないが、それぞれが笑うべきだと判断して笑い、笑うべきでないと思い黙り込む。その不自然さがヒステリックな笑いと感じさせるのだ。観客は笑われないために笑い続けなければならない。
現代の笑いがそうであることを理解していれば、観客を笑わせるのはそれほど難しくなかった。元来しかめ面の分別くさい山藤の風貌で、馬鹿げたことを言ったりやったりしたらそれだけである程度の笑いは演出できる。「笑える」のではなく「笑っていいよ」というサインがそこにあるわけだ。それを前提として違法な組合運動や政治活動を批判し、軍備の拡大を指示し、女子供の主体性を否定する、というような、現政府に迎合する内容をちょっと盛り込んで笑いにすれば、それで確実に受ける。演者がすべきことは「ここで笑ってもいいですよ」というタイミングの計算だけだ。今の観客は、まさに「箸が転んでもおかしい」状態なのだ。
山藤はこれを知り、利用して、今最も面白いお笑い芸人として知られるようになった。彼の狙いはワラ-イチ最終選考会出演だった。お笑い日本一を決定するこのコンテストは、全国に生放送され、毎回高視聴率を記録していた。
山藤はこれに出演し、彼からすべてを奪ったあらゆるものに復讐を果たすつもりだった。
あの忌々しい漆原はもちろん、現状を維持することに汲々としている喜劇官の関係者すべてと体制に追従するマスコミ。そして笑うことの意味を薄々感づいていながら馬鹿のように笑うだけだった観客たちも、それらすべての奴らを皆殺しにしてやる。そして国民を思うように操るための仕組みがこの喜劇官を中心としたシステムなのだと全国民に告発してやる。
その思いがあるからこそ、今までやってこられたのだ。そうでなければ職を失い妻子に去られた時点で、とっくに自殺していただろう。
山藤の執念が通じたのか、彼らは順調に予選を勝ち抜いていった。
単純に面白い話をすれば笑うのだと考えている者たちは失敗した。面白い面白くないではなく、笑って良いのか悪いのかが問題だったからだ。ただ現政府におもねろうとした者たちも失敗した。おもねるべきは観客だ。あからさまな現政府への阿諛追従は逆に観客を引かせた。状況を正確に分析した山藤の勝利の日はどんどん近づいてきた。
そしてとうとう、何万という人間の中から、最後の八人に残ることが出来た。これで最終選考会に参加出来る。つまり放映されることは間違いないのだ。この時点で彼の目的は半分以上達成できたと言えた。
連日、ワラ-イチのためのネタ合わせが続いていた。そしてその日、公民館でのイベントを終えて控え室にいるとき、ニヤニヤ笑いながら漆原が近づいてきて、人差し指と親指で挟んだ物を山藤の目の前でひらひらさせた。
「これなんだ」
「……もしかしてそれって鍵ですか」
「正解!」
漆原は山藤に鍵を投げた。山藤はそれを受け取ると、監視用アンクレットを外した。その時山藤の執行猶予期間が終わったのだった。
「明日の舞台からはギャラが支払われることになる。良かったなあ。これでまともな生活が出来る。もし万が一ワラ-イチで優勝したら、それで俺のような喜劇官に就職出来る可能性もあるんだぞ。頑張ろうな」
漆原は山藤の背をパンと叩いた。優勝すれば漆原は昇級するだろう。だからこそこれほどまでに熱心なのだろうか。
最初のギャラが支払われた夜、山藤はホテルを抜け出し、いそいそと出掛けた。何度も何度も後ろを振り返り、尾行が一切ないことを確認してタクシーに乗る。一時間近く走って、小さな神社の前に停めた。
そこで待ち構えていた人相の悪い男に、その月の出演料をすべて渡した。
「これだ」
言いながら男は山藤にギターケースを渡した。中身をちらりと確認してから待たせてあったタクシーに乗り、ホテルへと戻る。部屋に入ると、どきどきしながらケースを開いた。中に入っているのは、オーストリア製の拳銃が一丁とロシア製のアサルトライフルが一丁。そして予備の弾倉と大量の弾丸。いずれもインターネットや電話を使って銃器バイヤーと話をつけて購入したものだ。素人が扱いやすく、確実に多くの人を殺せる銃器。つまり無差別テロに相応しい銃を選んだつもりだった。
試射はしなかった。仕事が忙しく、なかなか一人になれる機会がなかったのもあるし、電話で話した武器バイヤーが、いざ事を起こす前に逮捕されることだけは避けた方がいいぞとアドバイスをしたからだ。そして待ちに待ったワラ-イチ決勝の日がやってきたのだった。
ギターケースを抱えて山藤は開場入りを果たした。控え室で漆原と会う。いつになく漆原は緊張しているようだった。
「よっ、ネタ合わせするか」
珍しく顔をあわすなり漆原は言った。今日に至るまで何度も何度もネタを合わせている。ここまで猛稽古したのはデビュー以来初めてのことかもしれない。
「今日は止めませんか」
山藤は言った。
「出来れば新鮮な気持ちで挑みたいんですよ。あまり稽古をしすぎるよりも、即興性というか、その場の空気を大事にしてやりたいなと思うんです」
真剣な顔で訴える山藤に、漆原は、まあそれもそうだなあ、と鷹揚に頷いた。
密かに山藤は胸を撫で下ろした。今日やるのはもちろんギターを使うネタだ。しかしギターケースの中に詰まっているのは、大量殺人の道具だけなのだ。
二人して無言で出番を待った。何度か目のトイレから漆原が戻ってきたとき、とうとうアシスタントが呼びにやってきた。
深呼吸しながら舞台袖に行き、出番を待つ。
司会者が彼らの名を呼んだ。
大きな拍手が聞こえる。
「行くぞ」
小声で言って漆原が舞台へと出ていった。ギターケースを持った山藤は、いつものようにしかつめらしい顔をしてそれに続く。
「はいどうも、漆原セミです」
山藤はことさらにゆっくりとギターケースを床に置くと、しゃがみ込んでそれを開いた。
「おいおい、何をしてるんだ」
予定にない行動に、漆原は戸惑いがちに突っ込んだ。
「馬鹿藤、それも何かの権利かよ」
漆原がそう言った時だ。山藤は立ち上がりざまに、ジャンプでもしそうな勢いで彼の顎を殴りあげた。
一瞬漆原の身体がふらりと浮かび、真後ろに倒れた。
観客は大笑いだ。
山藤はアサルトライフルを片手に仁王立ちになった。
「自分では何もしようとしない豚ども」笑いが起こる。「まずはこの、国家を笠に着て威張り腐ったウスラ馬鹿から処刑する」大拍手だ。
山藤はライフルの銃口を漆原の胸に向けた。
「豚野郎!」
叫び、引き金を引いた。
自分でも驚くほどの大きな銃声が響いた。
胸から肉片と血潮が飛び散る。
「これは革命だ!」
唾を飛ばしてそう怒鳴ると、今度はフルオートでアサルトライフルを客席に向けて発砲した。
初めて悲鳴が上がった。
山藤が引き金を引く。引き絞る。
マズルフラッシュが派手に噴き出す。
射撃音に耳が潰れそうだ。
一斉に逃げ出す観客。
悲鳴と怒声、そして銃声。
山藤は雄叫びを上げた。
はじき飛ばされるように座席から転げ落ちる者。通路を這っている間に踏みつけられる者。
吹き上がる血が何もかも赤く染めていく。
たちまち弾丸を撃ちつくし、弾倉ごと入れ替えようとした。
意を決したスタッフが駆け寄ってきた。
ズボンにねじ込んでいた拳銃を取り出し、近づくスタッフを狙い撃ちにした。
一人、二人、三人目が撃たれたときには、他のスタッフはみんな逃げ出していた。
倒れたカメラマンの持っていたハンドカメラを持ち上げ、山藤は周囲を映した。
「散々俺を笑ってきた糞ども。お前たちのその無様な姿を映してもらえ!」
そう言うと山藤は笑った。心から大声を上げて笑った。
ふと見ると、漆原が這いながらそっと外に出ようとしていた。瀕死の亀のようなその背中に、何度も続けて撃った。
血飛沫が上がるたびに、漆原の身体がびくんびくうんとはね上がる。
楽しくて仕方なかった。
拳銃の弾丸を撃ち終わると、山藤は一息ついた。
もう充分満足していた。
拳銃の弾倉を入れ替える。
そしてその銃口を喉につけた。
ごくりと生唾を飲み、そして引き金を引いた。
銃口から炎が噴き出す。
「あつっ」
そう言って山藤は拳銃を投げ捨てた。
反射的に喉を触る。痛いが穴は開いていない。手を見たら血がついているわけでもない。
落とした拳銃を拾った。床に撃ち込んでみる。一発、二発。音はするが、床には傷一つつかない。
「はーい、みんな帰ってきて下さい」
いつの間にか山藤の背後にいた、撃ち殺したはずのメイン司会者がマイクを持ってそう言った。
大ホールにその声が響く。すると逃げ帰ったはずの観客がぞろぞろと戻ってきた。血を流して倒れていた者たちが椅子に座り直す。
倒れていたカメラマンやADもむくりと起き上がり、それぞれの仕事につき始めた。
「いや、ほんと、馬鹿藤君、サイコー」
そう言って血だらけの漆原は山藤の横に立った。
「おまえ……」
「一人だけさっぱりしてんじゃねぇよ」
そう言って漆原は山藤の後頭部を叩いた。大きな乾いた音がした。
客席から笑いが漏れる。
「さあ、後ろを御覧ください」
司会者に言われて振り返る。
背後には巨大なスクリーンが用意されていた。そこに映し出されているのは、夜道を歩く山藤だ。それはあの神社の境内だった。山藤が真剣な顔でギターケースを受け取り、帰って行った後、銃のバイヤーに扮していた男は、テレビカメラに向かってにやにや笑い、Vサインを出した。
「はーい、どっきり大成功!」
司会者が言うと、客席から大きな笑いが起こった。
「そんな、馬鹿な……」
巨大モニターには、必死の形相の山藤が映っていた。
「豚野郎!」
山藤が怒鳴る。客席がどっと沸いた
「これは革命だ!」
みんなが腹を抱えて笑っている。観客もスタッフたちも、本気で腹を押さえて笑っていた。
山藤は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「止めてくれ。止めてくれ」と小さく呟いているが、そんなものはこの笑い声にかき消されて誰にも聞こえない。
スクリーンでは瞳孔が開ききり恍惚とした表情で山藤が怒鳴っている。
「散々俺を笑ってきた糞ども。お前たちのその無様な姿を映してもらえ!」
「ええと、私、その豚野郎ですけども」
漆原はしゃがみ込んだ山藤にマイクを突きつけた。
「またこうしてあなたが笑われているわけですが、どのようなお気持ちでしょうか」
またもや大爆笑だ。
山藤は涙を浮かべながら、マイクに向かって怒鳴った。
「笑うなああああ!」
血を吐くような絶叫で、死者が出るのではないかと思えるほどの大爆笑が起こった。
この時の映像は、毎年毎年繰り返し衝撃映像だの爆笑映像だの銘打った特番で映し出された。そのたびに山藤は番組に借り出された。そしてその芸名に相応しいへらへらした馬鹿笑いを浮かべて言うのだった。
「おまえら、笑うなよぉ」
了
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?