忘れえぬ別れといえば、大学のゼミの恩師。これでさよなら、ごきげんようそう言いながら、背中越しにひらひらと手を振って歩いていかれました。
私の祖母は、長く入院生活を送り病院を転々として、最期は、父と母と私と妹の家族4人がたまたまお見舞いにいたタイミングで息を引き取った。
義父は、心臓手術をして経過は良好であったのに、朝に僕がお見舞いに行ったらICUにうつされており、そこから何日かで急変して亡くなった。
家内から危篤だと報せがあったとき、僕は、日本橋の製菓企業でプレゼンテーションを終えたところで、すぐに病院に向かったが間に合わなかった。
叔父は、三十数年営んできた焼鳥屋を流石にもう定年だよと閉業することにして、あと2日の営業を残すのみでコロナに感染、3日で重篤となり、持ち直したが急変して、病室で叔母と僕に看取られて他界した。
母は、父とともに近所の公園に毎週のグランドゴルフに行き、プレイ中に倒れ、仲間に囲まれ、父に脈をとられ救急で父の勤めあげた大学の附属病院に運ばれたときには、心肺停止。
僕は、妹から報せがあり車で向かったが、着いたときには間に合わず、お兄ちゃんが着く前にもういいですと医師に伝えてごめんねと妹が泣きじゃくっていた。
人はいつか必ず終わりがくる。
その時期や場所や終わり方は自分では選べない。
忘れえぬ別れといえば、大学のゼミの恩師、僕たちの結婚式にも主賓でスピーチしていただいた片山先生。
癌に侵され、手術までしても、好きなタバコと酒はやめなかった。
痩せて、歩くのもようやくになってしまい、みんなに会えるのはもう最期になるからと、ゼミの生徒たち(何年も続いた日本大学藝術学部の創作コースの片山ゼミの卒業生たち)による、片山先生を囲む最後の会が催された。
実に楽しい飲み会だった。在学時の先生やゼミの思い出を語り、おおいに呑んだ。
片山先生は、日芸のある江古田で、ゼミのある日は、3年と4年のゼミを終えると生徒を連れて飲みに行くか、ひとりでも飲みに行かれ、いつも必ず「鳥平 片山」と江古田駅の伝言板に書いていた。
伝言板を見て、先生飲んでるじゃん!と「鳥平」に行ったこと数知れず。
実は、片山先生のおかげで僕は大学を無事に卒業できた。
4年生の冬休みに、卒業のための単位の確認に、犬の散歩をしながら計算したら、なんと4単位足りないことに気づいた。真っ青になった。
卒業に必要な単位ちょうどになるように、必要なレポートは提出したつもりだったのに、計算間違いをしていた。どうしてもあと4単位、一教科を取らねば留年になる。
いくつか余分に単位登録をしていたなかで、なんとかなるものはないのか。全てどれも試験は終わっており、レポートの締め切りも終わっていた。
僕は迷わず、片山先生に電話して、、、
という恥ずかしいくだりを、片山先生の古希のお祝いの際のゼミ生徒たちによる冊子に文章にして寄せた。
卒業年次順に掲載されたため、目次の僕の前には吉本先輩。
そうそう、
卒業単位の足りなかった、レポートも出していない僕に片山先生はAをつけた。
牧野くん、大丈夫です、私の間違いで不可にしてしまったけれど牧野くんはAです、そのように教務課に説明して訂正しておきました、と。
(この話しは、僕たちの結婚式の主賓のスピーチで暴露され、爆笑された)
そうそう、片山先生との最期。
楽しい飲み会を終えて、歩くのさえようやくな身体ながら、
では、僕は帰ります、これでさよなら、ごきげんよう
そう言いながら、背中越しにひらひらと手を振って歩いていかれました。
こんなお別れもあるんだな、今でも瞼に浮かびます。
あまりにダンディでカッコ良すぎました。
真似したいものです。
しかし、あの文集にこんな値段がついてると知ったら片山先生はどんな顔をされるだろうか。
作家吉本ばななを産んだのはご本人も書いたりしてますが片山先生です。
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