言葉を知るということ
以前、理系の男性からある相談されたことがある。これは私よりも頭の良い人で、頭の良い大学で学んでいる人の話である。
言葉を聞いていると、あることがわかった。おそらく彼は違和感と言っているものに対して明確に「嫌だ」と思っている。ただ、その状態を知覚できていない。もしくは知覚はしているが、おそらく「言葉に咀嚼できていない」ことが容易にわかる言葉だった。
そこで私は「教養を知ると良い」と伝えた。直接的に彼の問題を解決するのは、彼自身が言葉を知ることだったからだ。言葉を知ることができれば、思考をすることができる。思考ができれば、彼は良くも悪くも違和感の答えを言語化できるようになるはずだ。ただ、彼は教養を否定した。私の知人の頭の良い大学の理系の人たちは教養科目を否定したがる。何故だかはわからないが、こういったケースが後を経たない。
私は彼らと同じ状況だったことがある。言葉がわからないから、わからないことがわからなくて、言葉で伝えられないことがあった。そういう時、人はどこか心に違和感を覚えるか、感情を暴発させるしかない。私は頭が悪いものだから、わからない!と騒ぎ続けて、とりあえず人文科学の先生に相談した。どうすれば良いかと。
私はその言葉を間に受けて学んで今がある。Fラン私大の学生であるが故に、その点の学ぶプライドがなかったのがあるのだと思う。頭の良い大学の知人たち(8割くらいかな)は、文系的な学問に対して懐疑的であるため、文系の範囲である教養を得ようとはしていなかった。もしかしたら理系的な部分で偏見が多いのかも知れない。
教養とは世界を広げることができる豊かな土壌である。そして、教養とはその土壌によって言語化を促すことのできる武器なのだ。教養を知ることは、目的に対して遠回りに見えるかも知れない。ただ、人は似たようなことで悩み続ける。仮に私が先ほどの人物に「君は○○が嫌なのだと理解しているが、それを言葉にできていないだけだ」なんて決めつける言葉を伝えても無意味なのだ。それが喜ばれるor更に遠ざかる遠因になったとしたところで、次の同じ悩みでは対処することができない。知人の理系の人たちは型に当てはめるモノづくりやその型にそった説明が得意だけれど、言語化と咀嚼が苦手な印象がある。そこが教養で埋まれば最強なんだけどな、とは思うが、多分この感覚を彼らには"今現在"は理解されないだろう。そこにあるのは学問的な分断かもしれない。
相手をことを思った言葉を伝えることは、どこか祈りに似ている。その思いは伝わらない可能性は高いし、逆効果である場合も往々にしてある。だけど人が優しい言葉を使って、影響が与えられるわけでもないのに祈りを込めるのは、対象がよりよく暮らして欲しいと願うからだと思う。強い影響のある言葉でどこか支配しようとするような伝え方は、他人に影響を与えやすいことはわかる。ただ、それは受け手を思う言葉ではない。真に思いを込めて、願いを込めている言葉は、普遍性の伴う言葉選びが多い印象だ。故に私は言葉を強くせず、祈りを込めたいと個人的に思っている。