シュリー ギーター マーハーットミャム (ギーターの栄光) 解説
シュリー ガネーシャーヤ ナマッハ
シュリー ゴーパーラクリシュナーヤ ナマッハ
コメンタリー:
「この人は素晴らしい人だ」「この薬は良く効くらしい」そんなことを耳にすると、誰もがその人やその薬について詳しく知りたいと思うでしょう。同じように、ギーターを学ぶ前に、ギーターの素晴らしさや、ギーターから得られる御利益などについて詳しく知ることができれば、今まで以上に詳しく知りたいと思うようになるはずです。ギーターをしっかりと学ぼうとする心構えになる為にも、ギーターの素晴らしさを前もって理解しておくことが必要です。
人生の中で沸き起こる疑問や質問の答えは、全てギーターの中にあると言われているます。何度も何度も読み返すことで、その度に新たな発見があり更なる理解が深まります。
母なる大地が問う
コメンタリー:
何故、母なる大地は質問を問うのでしょうか?
カリユガの時代、盗みを働く人や道徳を重んじない人、神様の御名の力を信じない人が地球上に蔓延し、母なる大地は苦しみを背負っていました。清らかな地球を保ちたくとも、悪徳に満ちた人々が増加してきたことで、あまりにも堪え難い痛みに耐えられなくなり、母なる地球は神様に救いを求めることから第1節が始まります。
1.
偉大なる至高の神様! 俗界でプラーラブダカルマに埋もれて生きている人類に、どのように『確固たる信仰心』を起こさせることができるのでしょうか? 神様、どうかお教えください。
コメンタリー:
プラーラブダカルマとは、既に経験することが確定している行為(カルマ)です。私達は、過去世からの膨大なサンチッタカルマ(今後経験するであろうカルマの種)を持ち越してきており、母親の子宮に宿った時点でその生で経験するカルマが選択されます。それらを経験する為に、この世に誕生する以前に以下の5つのことが決定されていて、変更はできないと言われています。
私達が生まれ出ずる前から決まっている5つのこと
1. アユ:寿命、何年生きるか
2. カルマ:行動、義務、どんな仕事に就くか
3. ヴィッタ:財産、どのくらいの収入を得るか
4. ヴィッディヤ:知識、どのような学歴となるか
5. リダム:死、いつどこで死を迎えるか
『確固たる信仰心』とは、一点に集中した崇拝の心です。プラーラブダカルマに埋もれて生きていく中で、あれやこれやと心移りするのではなく、一人の神様、一人のグル、一人の先生を信じて付いて行く信仰心が大切です。現代の俗世で悪徳に塗れて過ごす人の中に、そのような『確固たる信仰心』を芽生えさせる為にはどうすればいいのかと、苦しみに耐えきれなくなった母なる大地が神様に問うことから、このギーターの栄光は始まります。
ヴィシュヌ神が応じる
コメンタリー:
ヴィシュヌ神は、全知全能で全宇宙を司っている全ての物事を維持されている神様です。至高の教えやそれらを文字で表した聖典の教えは、ナーラヤナ神が源であるとマントラに記されているので、ナーラヤナ神であるヴィシュヌ神は、母なる大地が抱く質問に、いとも簡単に分かりやすく段階を追って答えてくださいます。
2.
社会的な義務に従事しながらも、ギーターやその他の聖典を定期的に勉強する者は、全ての束縛から解放されるだろう。現世に生きながらも至福を味わうことができる。なぜなら、そのような者は行為(カルマ)によって縛られることはないからだ。
コメンタリー:
聖典を勉強することによって、魂が神様と繋がり一瞬にして心に安らぎが訪れます。経典を読むだけでなく、ジャパをする、神様の御名を唱える、聖者のお話を聞くことなどによっても、魂は神様に向けられます。神様とは、至る所に実存し、宇宙的な意識の原理である至福な存在であることから、私達が神様を思うだけで神様の源である至福が押し寄せてくるのです。そんな幸せが得られることが分かれば、定期的に勉強しようという気になってくるでしょう。
そのような理解がなく無知なうちは、罪を犯したり悪い行いをしてしまいます。ギーターを勉強することで、何が良くて何が悪いか、何をすべきで何をすべきでないかを学ぶことができます。そして、ギーターから得た知識に基づいて行動すれば、カルマによって生じる生まれ変わりのサイクルに縛られることはなくなるでしょう。
ギーターの基盤にある目的は、個人の悲しみを取り除くことです。私達は、知識がないことから、社会的な生活の中で要らぬものに縛られてしまっていることが多々あります。しかし全ては、自分自身がこの肉体だと思い込んでいる無知から生じているのです。それ自体が惑わしであり、そこから悲しみや苦しみ、恐怖が生まれています。真理であるギーターの知識を得ると、全ての恐怖は消滅し、無知という闇も取り除かれます。しかし、ギーターを正しく理解して知識を得る為には、師(グル)や先生など導いてくれる人が必要です。
自身の行為の全てを神様の教えに基づいて行っていくと、人生の目的に向かい浄化が始まります。浄化が進めば進む程、不浄なものがどんどん取り除かれていき、新たに神様の偉大さに気付くことできるでしょう。するとさらに信仰心が深まり、もっと勉強したいという心が芽生えてきます。
ギーターは、読むだけでもたくさんの知識を得ることができます。魂とは、個人とは、カルマとは、神様とは、プラーラブダとは、義務とは、識別力(ヴィヴェイカ)とは、無執着(ヴァイラーギャ)とは何か、どのようにサダナを進めていけばいいかなど、たくさんの知識を習得することができます。そして、それらの知識を得る喜びから、信じる力(バクティ)がさらに深まっていきます。
3.
蓮の葉がきれいに水を弾き決して濡れることがないように、ギーターを定期的に朗誦する者は、いかなる罪によっても汚されることなく、それらを跳ね飛ばす力を得る。
コメンタリー:
ギーターを勉強している人は、どんな行為をしたとしても罪を引き起こすネガティブな行為になることはありません。毎日ギーターを詠唱すれば、例え自分が知らないうちに悪い行為をしてしまったとしても、それらの影響を受けることはなく取り除かれます。悪いプラーラブダカルマを抱えていたとしても、それらからも影響を受けなくなります。
4.
ギーターや他の聖典を保管している場所、そしてそれらを読んだり勉強したりする場所は、巡礼で有名なアラハバードなどの聖地と同等に清らかな場所である。
コメンタリー:
プラヤーガー(アラハバード)とは、聖なる川であるガンジス川、ヤムナ川、サラスワティ川の3本の川が合流するとても尊い場所として知られています。聖地とは、神様や女神様が宿っている場所でもあります。どんな場所でどんな時にギーターを勉強したとしても、そこは聖地と同等に清らかな場所と考えられます。なぜなら、ギーターを勉強している間、心は常に良き事だけに満たされ、悪い思考は浮かんでこないからです。ギーターに集中すれば、他の全てのことは心から抜け落ち、ギーターの聖なる力で自身が清められ、その勉強をしている場までも清められることになります。
ギーターの1行1行を大切に間違えずに読む練習をすれば、聖なる言語であるサンスクリット語にも慣れることができるでしょう。
5.
全ての神様、聖者、ヨーギー、聖なる蛇、ゴーパーラ(聖なる動物である牛の世話人でありクリシュナ神の友)、ゴーピカー(クリシュナ神の信者であり牛の乳搾りをする女性)、聖者ナーラダ、クリシュナ神の信者でゴピ達に智慧を与えたウッダヴァ、それに救済者である聖なるパールシャダイもその場所に宿る。
コメンタリー:
聖地と同等であるということは、聖者達がそこに集うということです。神様は、私達の心の中に安住されています。ギーターを学ぶ場所、教えられる所、詠唱する場の全ては、ギーターの栄光で満たされあらゆる吉兆なことが起こるでしょう。なぜならそこには、ありとあらゆる神様や聖者が宿ることに繋がり、ギーターの栄光に満たされていくからです。
6.
ギーターが読まれる所には、救済がすぐに訪れる。母なる大地よ、よく聞け。ギーターが読まれる場所、聞かれる場所、教えられる場所、そしてギーターについて瞑想される場所には、常に私が存在するのだ。
コメンタリー:
ギーターを読んでいる間は、智慧や信仰心、そしてヨーガのテクニックと共に神様のことを一心に思うので、瞬時に救済が訪れます。ギーターの全ての知識はとても聖なるものなので、神様の栄光や神聖なる現象がすぐに訪れると信じられています。なせなら、そこには聖者だけでなく私も宿るからです。
例えば、ラーマ神のキールタンが歌われる所には、必ずハヌマン神が謙虚に献身的に従事していると言われます。ハヌマン神がラーマ神を心から信仰して帰依しているように、いかなる時のどんな場所であれ、ギーターがある所には必ず神様がそこに在られると信じられています。部屋で一人でギーターを勉強をしていたとしても、常に神様がすぐそばで私達を見守っていてくださっています。
7.
私はギーターに宿り、ギーターこそが私にとって最善の住処である。ギーターの知識によって、私は三界(人間界、天界、神界)を守っている。
コメンタリー:
神様は、ギーターに宿るとおっしゃってますが、紙で出来た本のことだけを指している訳ではありません。ギーターだけでなく、あらゆる聖なる聖典や教典の教えそのものに宿っていらっしゃいます。そして、それらの教えによって全世界を守ってくださっており、それこそが神様の義務だと明言されています。たまたまギーターの教えに触れる機会があったとしたら、それはその瞬間に、神様からのご加護に巡り合うことができたということです。
神様を至る所のあらゆる物の中に見られる人は、神様から引き離されることはありません。すると、神様と信者は切っても切り離すことができない関係性で結ばれていきます。いかなる名のあるものも形あるものも神様だと認識することができれば、私達は常に神様に囲まれていることを実感できるようになるでしょう。どの節であっても、ギーターを勉強したり詠唱すれば、そこには聖なる波動が生じ神様との繋がりが芽生えていきます。
サムスカーラによって、ある一人の神様に魅力を感じたりするでしょう。そのような時は、その神様への信仰心を高めればいいのです。最終的には、神様間には優劣などなく、全ての神様が同一でありであり、究極の目的地へと導いてくださいます。
8.
ギーターは、全く疑う余地もなく私が作り上げたものの中で最高の科学である。ブラフマン、永久不滅なるもの、聖音Omであるアルダマートラ、言葉で言い表すことのできないセルフの見事な輝きを形として表したものだ。
コメンタリー:
この世には多様多種のヨーガが溢れていますが、ギーターだけが至高の教えを与えてくれることは全く疑う余地もありません。たったの1節もしくは半節からであっても、全ての聖典や教典に書いてある教えの真髄、真理を学ぶことができます。ブラフマンのみが最高の神様、究極の目的、真実であることは疑う余地のなく、この俗世は実在しない偽りの世界であることを教えてくれます。
ブラフマンと共になるということは、神様と私達個人が同じであると認識することです。全てが神聖であり、切っても切り離せない関係であるというのが真実の基本です。その為には、ジャパ、瞑想、カルマヨーガといった無私の行為を通じて修練を積んでいくことが大切です。
私達は、自分が一個人であると思い込んでしまっているが為に苦しみ、この俗世に幸せがあると誤った認識からこの世に執着してしまっています。その思考から抜け出ない限り、果てしなく何度も生まれ変わることになるでしょう。何度も生まれ何度も死を体験し、何度も母の子宮に宿ることになります。
しかし、神様の御名を唱えることによって、その御名が私達を守ってくださいます。『お救いください、お守りください』という念を込めて神様の御名を唱えれば、全ての苦しみが取り除かれるでしょう。
死が訪れた時、誰が私達を助けてくれるでしょうか? その時に私達を救うことができるのは、神様だけです。私達は一人で死んでいきますが、この生で積み重ねてきたカルマに沿って、神様から救いの手が差し伸べられます。神様の御名を唱え続けることによって、心が管理され調和されていくので、無知の人でさえも真実に到達することができると信じられています。
この心を制御し管理する機会を逃さないようにしなさい。物事にただ単に反応しないように、忍耐強くなりなさい。自分が物事に対してどのように反応しているかを普段から観察し、その反対をすればいいだけです。そして、他者に対して無私の奉仕(セヴァ)や善行を行い、自分の心がどのように反応するかを考えてみなさい。
どんなに困難な事態に陥ったとしても、それでさえも神様が与えてくださった好機と捉えるべきです。窮地に陥ると人は神様を思うものです。神様をすっかり忘れていた心を神様に戻す為に起きた事態とも言えるでしょう。そして、神様はあらゆる形となって私達の前に姿を現すということを忘れずに、他者への気遣いや思いやりを忘れないようにしなさい。これはマザーテレサの生き方に学べます。彼女は、目の前にいる他者を助けていたのではありません。病人や弱者の姿をして現れた神様に対して、奉仕の行為を行っていたのです。そして、あらゆる状況が神様からの贈り物と受け止めていました。
病気、老化、難しい対人関係などは、私達がどのように解決していくかを学ぶ為に、神様が与えてくださった機会です。その学びの機会を与えてくださったことに祈りを捧げ、神様の御名を唱えながら神様の御姿を思い浮かべて対処していきなさい。このように過ごしていくことができれば、徐々に変化が起きてくるでしょう。何事が起ころうとも、全ては私達個人に良かれと思って起こされた神様の御意志です。そう思えるようになれば、いかなることが起きようとも心配することなく、心に平安がもたらされます。
アルダマートラとは、ブラフマンとオームが一体となったものの呼称です。この2つは切っても切れない繋がりで結ばれ、プラナヴァまたはブラフマルーパとも呼ばれます。カトウパニシャッドの中だけでなく全てのヴェーダの中に、オームとはありとあらゆるものの本質だと書かれています。
そして、死を迎え肉体を脱ぎ去る瞬間に、このブラフマンそのものであるオームというマントラを口にすると、究極の目的地に到達できると信じられています。聖者達もこの世を去る際にオームを唱えたことで、神様の元へ旅立たれています。
オームという一文字には、永遠不滅(アクシャラ)という意味も含まれています。オームは至高で最高の聖なる存在であり、ブラフマンの界に在ると言われています。オームは至高の存在を表す表現の一つであり、ただのシンボルではありません。オームと唱えた際の音に包まれることによって、誰しもが救われるでしょう。心を集中させて瞑想に入っていく前には、必ずオームを優しく長めに3度唱えるようにしましょう。神様は最高の科学であるギーターに宿ると言われていますが、同じようにプラナヴァであるオームにも宿っています。
9.
ギーターは、全能であるクリシュナ神自らの口から発せられたアルジュナに向けた言葉である。3つのヴェーダの要素、真理についての知識が詰まっていて、最高の至福に満たされている。
コメンタリー:
私達、人類を象徴するアルジュナに、至上の神様を象徴するクリシュナ神が、ご自身の口から直接アドバイスをしているのがギーターです。真実に関する知識が書かれている3つのヴェーダ(ヴェーダトライー:全てのヴェーダという意味。リグヴェーダ、ヤジュルヴェーダ、サーマヴェーダ、アタルヴヴェーダと4つのヴェーダが存在するが、分け方を変えると3つとなる。主題は全て同じだから、3つでも4つでも関係ない)の要素が全て含まれているので、至高の至福(パラーナンダー)に満ちています。
全ての神様の中の至高の存在であるクリシュナ神が、ギーターの中で、ヴェーダの本質、究極の至福、そして本来の自己(タットヴァ:本来という意味。セルフに関する知識の本当の意味、内在している理由、本質であることの真理、目的はなんであるか、叡智、真実を理解する知識、究極の至福を象徴している言葉ですい)についての知識をアルジュナに教えています。神様はご自身の口から直接、3つのヴェーダの本質、究極の至福に満ちている真理の知識を説かれたのです。ですから、ギーターを勉強することで、私達もこれらのことについて学ぶことができます。
この地球上で生活している間の目的は、本来の自分に関する知識(ギャーナサムユター: 本来の自己であるセルフについての知識)を得ることであり、それは常に至福に満ちているサマディの境地だと理解することです。クリシュナ神と同等で全く相違することはなく、無知(アヴィッディヤ)によって見失っているだけなのです。サットチットアーナンダであるクリシュナ神の教えに従い、何が真実であるかを見極めて行動することが大切です。ただ純粋に、神様の御意志に沿ってジャパをし、瞑想をし、そしてギーターを学び続けることがとても大切です。
人生の目的は、嘆きや悲しみや苦しみに満ちたものではなく、自己の義務を果たし究極のゴールに到達することです。私達自身もサットチットアーナンダであり、クリシュナ神と何一つ違うところはありません。しかし、自意識や無知によって妨害され、常に神様と共にあることを認知できずに、苦しみにまみれてしまっています。それらの無知によって、私達は自分自身と神様を違う存在だと誤認識しています。
ギーターの中では、この問題をどのように解決していくか、クリシュナ神がアルジュナ個人の問題を解決するという形で説かれています。
10.
日々、ギーターの全18章を清らかで揺るぎない心で朗誦する者は、完全なる知識を得て、最高の境地または至高の目的地に到達するであろう。
コメンタリー:
18章から構成されているギーターの全章を毎日安定した純粋な心で集中して読む人は、ギャーナシッディ(智慧を得られることがシッディです。なぜなら、特別な知識は万人に訪れる訳ではなく、純粋で安定した心を持った人でなければ、受け取ることができないので、超自然能力と言えるでしょう。)を得ることができます。ここで言う知識とは、至高のセルフはブラフマンそのものであると言うことです。これは、人生の目的であるセルフ、本来の自分についての知識であり、あらゆる目的の中の最高峰です。
自己を知識で満たす為には、まずは浄化が必須です。ギーターを読み進めていく中で、もし本来の意味を理解できなかったとしても、全く問題ありません。内容が理解できずとも、安定した心でギーターを繰り返し読むことによって、私達は自動的に浄化されていきます。これはマントラと同じで、マントラ本来の意味を理解していなくても、その言葉を読んだり音を聞いたりするだけで、浄化が始まり不動の心が生じてきます。すると、知識が完成型に近付いていき、ギャーナシッディという人生の目的の最高位を得ることができ、自己は至高のセルフと共にあることを理解します。
ギーターは、18章から構成された大叙事詩マハーバーラタの一部です。プラーナも18種類ありますが、その1つであるバラハプラーナの中で聖者ヴィヤーサがギーターを賛美しています。また、バガヴァタム(聖典の一つ)もギーターを讃え、ガンガーマー(聖なるガンジス川)もギーターを賞賛しています。偉大な聖者や重要な文献がギーターを讃えることによって、ギーターはとても重要な文献だと位置付けられます。
11.
もし全章を読むのが難しいようであれば、半分の9章を読むことで、神様の遣いである雌牛を贈り物した時に得られるような御利益を得ることができる。これは確かである。
コメンタリー:
ナーラヤナ神は、母なる大地の質問に続けてお答えくださいます。もし18章全部を読不可能な人は、半分である9章を読めばいいとおっしゃいます。半分の9章を読めば、ヒンドゥー教ではとても吉兆で非常に神聖な動物と考えられ全ての神様が宿っていると信じられている雌牛を捧げた時に得られる恩恵(プンニャ)を手にすることができると教えてくれます。贈り物やチャリティは、私達に満足感を与えてくれ、その幸福感こそがプンニャです。
お寺や神社などまで出向かなくとも、神様は至る所に在られます。吉兆な至福はありとあらゆるところに存在していて、ギーターを読むことで得られる幸せも同じようにありとあらゆる所に存在しています。ギーターを読んで勉強することは、私達に集中力もたらしプンニャに導いてくださいます。
12.
例えば3分の1である6章を読めば、それは聖なるガンジス川で沐浴をするのと同等の恩恵が得られる。そして6分の1である3章を詠唱する者は、お祈りの儀式を行うのと同じくらいの御利益を得ることができる。
コメンタリー:
神様は、もっとたくさんの選択肢を与えてくださいます。もし半分を読むのも不可能なら、1/3である6章を清らかな心で毎日読めばいいとおっしゃいます。そうすると、ガンジス川で沐浴した時に得られる真価(ガンガスマーナ)と同等のものを得られます。母なるガンジス川はとても神聖で、女神様の一人です。何者も何事もこの聖なる川に戻ることで、想像できない程の御利益をもたらしてくれます。
ヴィシュヌ神はさらに続け、もし三分の一でさえも読むのが難しいようであれば、六分の一である3章を読めばいいともおっしゃっています。3章を読めば、護摩焚き(ヤッギャ)や礼拝(プージャ)などのお祈りの儀式をしたのと同等の御利益を得ることができると教えてくれます。
ナーラヤナ神はとても慈悲深いので、たくさんの人がギーターに触れるきっかけとなるように、私達をどうにか救う為に、ギーターを継続して勉強できるようたくさんの選択肢を与えてくださいます。もしギーターを読むことなくその内容を知らなければ、ギーターを敬う気持ちや信じる心も生まれません。私達がスワミジの素晴らしさを知らなければ、スワミジのアドバイスを信じようとしないのと同じです。まずは毎日ギーターを読んでギーターを知ろうと努力することが必要です。努力し続けていれば、必然的にギーターの魅力に気付き、信じる心が生じて来るでしょう。読めば読むほど、良きことがもたらされます。
何かを信じて確固たる信念を得たり、さらなる魅力に惹きつけられる為には、その事自体をもっと良く知ることが必要です。深まる魅力、強固な信頼、さらなる御利益を得ることで、新たに素晴らしい印象が生み出されていくでしょう。同じように、ギーターの偉大さに気付くことができれば、自動的にこの聖典に対する興味が湧いてきます。そのような姿勢で規則正しくギーターを読み進めれば、悟りにつながる深い瞑想へと自然と入っていけるようになります。スローカを声に出して詠唱(チャンティング)することで、その節の深い意味などは後から自然にもたらされます。そして、神様の存在に対する気付きが芽生えるでしょう。定期的なギーターの勉強は、良きことしか引き起こさず、私達は良き行いへと導かれていきます。
ギーターは母親と同じです。母親は自分のお腹の中に胎児を宿している間、生まれてくる子供のことを思いながらたっぷりと愛情を注ぎ込みながら、その大変な月日を過ごします。母親が自分の子供に対して惜しみのない愛を表すのと同じように、ギーターは私達がどの方向に進むべきかを愛情と共に示してくれています。全ての聖典は、母親が子供を育てるように慈しみ深い心で私達を導いてくださっているのです。
ギーターが母であり、勉強が母であり、全ての聖なる経典が母なのです。母親は、子供がいかに幸せな人生を送れるか、魂の成長を望みながら育ててくれています。さらに、子供の本当の父親を知っているのは、母親のみです。母であるギーターは、私達の父親は神様であることをギーターの全章を通してじっくりと思いやり深く子供に教えていきます。
13.
深い信仰心と共に1章を読めば、シヴァ神の界(ルドラ)に到達しシヴァ神の従事者の一人(ガナ)となり、そして以後何年もそこに住むことになるだろう。
コメンタリー:
ロカ(界)は、シヴァ神の世界だけでなく、たくさん存在します。どんな修行をどのくらいどのように実践し、その成果としてどのロカに到達し属することができるか、神様によって決められます。タイトリヤウパニシャッドには、全てのロカについての解説があり、どのロカに到達できるかを計算する術が記されています。それぞれのロカには、それに見合った幸せが存在すると言われています。
ロカ(界)とは、アシュラムの中にいろいろな部門があるのと同じようなものです。私達は自身のサダナに適したロカに属し、サダナが変わればロカも変更します。ロカが高次になるにつれ、個我の認識が薄れていき、徐々に全てが神様と一つとなっていくでしょう。いかなる名前も形も存在する事なく、そこにあるのは純粋な『在る』という意識のみとなっていきます。最初は、個我をなくすことに恐怖を覚えるでしょう。しかし、名や形が消滅することによって、純粋なる意識のみが現れてきます。大いなるセルフだけが存在する状態となると、それはアーナンダである至福です。大いなるセルフとは、対象となる物は存在せず、サットチットアーナンダのアーナンダのみが存在する状態です。
アーナンダについて考えてみましょう。それは、一つの欲望を満たして満足を得た後、次の欲求が生じるまでの無欲の時間がアーナンダの状態です。修行者は、この無欲の時間が少しずつ延長していくよう努力しなければなりません。その努力によって、アーナンダの状態でいられる時が長くなり、それは、行為をしている間にも瞑想の状態でいられることです。
14.
大地よ、単に1章、もしくはある部分だけを毎日読むことによっても、その者はマンヴァンタラ(ヒンドゥー教の宇宙論であり、人類の始祖であるマヌの期間を特定する周期的な期間:308,448,000年)が終わるまで人間での生を約束される。
コメンタリー:
ヴィシュヌ神は、『大地よ』と呼びかけて母なる大地の注意を再度引きつけます。
毎日、1章もしくは部分的に数節を読めば、識別力を伴った人間の肉体に何度も生まれ変わることができると教えてくれます。
カルマによっては、人間として誕生できず、他の生物として生まれ変わることもあります。しかし、ギーターを1章もしくは何節かを毎日読んでいれば、他の物に生まれ変わることはなく、必ず人間の体を持って生まれ変わってくると明言されます。
人生の目的や目標はなんでしょう? それは、この人間の体を持ってでしか実現できないことであり、良き行いによって達成できます。なぜなら、人間ではない動物達は、本能に基づいて生きているだけで、良き行いも悪い行いも判断する識別力がありません。人間は、たくさんの苦しみを体験することもありますが、それらは人生の目的を達成する為に、自身を高めていくよう与えられた好機でもあるのです。
若い頃は、感覚的な喜びが高次な心を覆い隠してしまうこともあるでしょう。それは、何が本当に大切なことなのかを知らないからです。感覚的な喜びやそれから得られる幸せ感は、永遠に続くものではなく一時的なものです。若い頃に味わった感覚的な快楽や幸せは、年齢を重ねた後、同じような幸福感を与えてくれはしません。ですから、感覚器官に基づいた喜びや幸せを超越しなければ、永久的な幸せを掴み取ることはできないのです。この肉体はいつしか滅びるものであり、純粋意識は一瞬の間、この形と名前として顕現しているだけということに気付かなければなりません。
一次的な喜びしか与えてくれない感覚的対象物に対して、セルフは永遠の幸福を与えてくれます。これは、求めているものがどれだけ粗雑か、もしくは精妙かという違いだけです。対象物より繊細で神聖なものは感覚。感覚より繊細で神聖なものは心。心より繊細で神聖なものは知性。知性より繊細で神聖なものは広大無限の叡智。広大無限の叡智より繊細で神聖なものは神様。神様より繊細で神聖なものはプルシャである絶対神。最大限に繊細で神聖なものはこれ以上ありません。少しでも粗大なものには限界があり、それらから得られる幸せは永遠に続くものではないのです。
何を見つければいいのかは、神様が何を与えてくださっているかを理解すればいいだけです。粗大なものを消去していきながら、最終的ゴールであるセルフに近付いていこうと努力が必要です。
さらに、この人間としての生がとても稀なものであることも理解するべきです。人間生を得るのはとても難しく、その為にも毎日ギーターの1章、またはその一部分を読むようにしなければなりません。神様は、常に正しいものだけを与えてくださろうとしています。私達に人間生を与え、常に善きことに繋がっていられるよう、まるで母親が子供の面倒を見るように導いてくださっています。人間として生を受けた私達は、ただ神様のお導きに従い、神様のことだけを信じて突き進んでいけばいいだけです。
15.
毎日、10節、7節、5節、4節、3節、2節、もしくは1節やその半分でも復唱する者は、月の世界に到達し、そこに10,000年生きるであろう。ギーターの勉強を日常に取り入れられた者は、死んだ後も人として生まれ変われることを約束される。人でなければ、悟りは開けない。(16含む)
コメンタリー:
ギーターを読み続けることがどれだけ大切かを説かれています。その重要性を理解すれば、ギーターを勉強する為の集中力をもっと高めることに繋がるでしょう。この節に書かれている月の世界とは、悲しみも苦しみも存在しない、幸せに包まれた世界のことです。厳しいサダナや素晴らしい奉仕活動をせずとも、毎日、半節詠唱するだけでもそんな世界に辿り着けるとは、ギーターとはいかに偉大なる聖典なのかを教えてくださいます。
人間でなければ識別知を伴った行為はできず、カルマを消化することはできません。ですから、人間として生まれ変わることはとても大切です。ギーターを読む時には、知識を得たいという強い願いと共に誠実で集中した心が大切です。全てのプラーラブダカルマは経験し尽くされなければなりませんが、悟りを開けば全て消滅します。
神様は、他者に奉仕する機会を常に与えてくださっていますが、それに気付けるのはその人のトリグナのバランスとカルマによります。自分自身の義務と感じることに対しては、それを純粋な心で他者に愛と思いやりを分け与えるように行うのが大切です。他の人が私達の行動に続かなかったとしても、それはその人達のグナやカルマが同じレベルにないからなので、決して他人を無理強いしてはいけません。
良きことと良きことの間で選択を迫られた場合、識別力を働かせることがとても大切です。カトウパニシャッドの中には、自身に最も高い幸福を与えてくれるものを選ぶようにと記されています。それは、美味しい料理を選ぶのではなく、自身の肉体に最大限に栄養を与えてくれる食べ物を選ぶということです。このような機会は、神様が選ぶという選択肢を与えてくださることから、識別力を高める練習の一つになります。もし自分自身で簡単に判断できなければ、より良きものを選べますようにと、神様に祈りを捧げれば良いだけです。
知識をもっと得る為に時間が欲しいと思うことはとても良いですが、その知識は行動に移し経験しなければ身につきません。ギーターから知識を得るには、信仰心と知識を得たいという強い願望が必要です。誠実さと熱心さが求められます。
心を安定させる為には、心を揺さぶる原因を無視することも時に大切です。そのような時は、聖なる本を読みもっとジャパをして、心をさらに純粋な聖なる状態へと上昇させていきなさい。精神世界を歩み始めた自分だからこそ、このような厳しい状態を与えられているのだと考え、これらを経験することで魂の成長を促進していると捉えればいいだけです。その困難な状況や相手を変えようと努力するのではなく、その状況や相手でさえも、神様が自分に与えてくださったものであり、その陰に自身の成長が潜んでいることを忘れてはいけません。物事の理由を探すことや状況や他者の変化を期待をすることは時間の無駄であり、自分の中のエゴ意識を高めることに繋がってしまいます。全ての状況は、自分の成長を促し心を訓練する為に神様が与えてくださったものです。無知を取り除くことで、全ての苦しみから逃れられます。
16.
ギーターを繰り返し勉強し理解を深めることで、究極の解放を得ることができる。死の瞬間に「ギーター」という言葉を口にすれば、その者は人生のゴールである悟りを開くことができるであろう。
コメンタリー:
ギーターの意味を知らずとも、読んで行くうちに理解は進みますが、意味をしっかり理解しながら読み進めれば、さらに早く智慧を得ることができます。ギーターの勉強から知識を得れば得るほど、俗世や個我に対する執着心というものが薄れていき、無執着(ヴァイラーギャ)の心が生じていきます。
死ぬ間際に「ギーター」という一言を発するだけで、ギーターの要素そのものがやってきて魂が悟りを開きます。
17.
たくさんの罪を抱えていたとしても、ギーターの意味を知ろうとする意思がある者は、神様の王宮に到達しヴィシュヌ神と共に喜ぶであろう。
コメンタリー:
いかなる罪を犯した人でも、ギーターを集中して聞いているだけで、神様の世界へと到達すると教えてくれます。ただ聞いているだけでもセルフの知識がもたらされ、それが人生の目的であることに気付くと、無知が消滅していきます。ギーターを耳にしているだけで、サトヴィックな性質が強まって浄化が始まり、間違った考えや行為をしなくなっていくでしょう。しかし、そこに必要なのはギーターを学びたいという切望さです。
私達自身が過去に起こした罪によって、大きな苦しみが降りかかってくることもあるでしょう。しかし、ギーターの知識を得られれば、それらに対してどんな痛みも感じることはないと理解が生じます。プラーラブダカルマによって痛みや苦しみは経験しなければなりませんが、それらが影響しているのは肉体だけでプルシャではないのです。プラーラブダカルマは、この肉体が経験を積むべく外的な面に対して起きているだけで、セルフには全く影響を与えていないことを理解しなければなりません。そして神様は、良いことと悪いことの選択肢を私達に与えてくださっています。新しく起こす行為が、神様の方向を向いている良きことなのか、神様から離れていく悪いことなのかを良く考えて行動をするべきです。
知識を得ると、さらなる信仰心が湧いてきます。そうして私達の中には、肉体意識から離れて完全に神様に平伏す覚悟ができてくるでしょう。小さな苦しみの一つ一つは、プラーラブダカルマを消化する為にだけ生じているだけと捉えればいいだけです。
18.
ギーターの意味について瞑想をし、たくさんの善き行いをした者は、死後、究極の目的地に到達する。そのような、現世に生きながら悟りを開いた者のことをジーヴァンムクタと呼ぶ。
コメンタリー:
ジーヴァンムクタとは、生き聖人のことであり、死を迎え肉体を離れると完全に解放される人の呼び名です。このような人は、悟りの境地に辿り着いた後も、プラーラブダカルマによって肉体に止まらなければなりません。しかし、すでに悟りを開いて常に神様と共にある状態なので、どのような行為をしようとも新たなカルマを生産することはありません。常に神様と共にいる状態では、肉体意識が消え失せ、全てが神様の御意志によって営まれていると体現しているということです。個我は存在せず、神様を実感しています。何故なら、全てがセルフであり神様だと認識しているからです。ジーヴァンムクタは、他者を悟りに導く為だけに、肉体に止まっています。
19.
毎日の入浴で体の汚れを洗い流すのと同じように、ギーターというお風呂に一度浸かれば、輪廻転生(サムサーラ)という不浄な汚れをきれいに洗い流すことができる。
コメンタリー:
お風呂に入ると、さっぱりと綺麗に清潔になります。ギーターをお風呂に例えて考えてみると、この肉体にまとわり付く俗世の汚れであるサムサーラを洗い流すことができると教えてくれます。ギーターをお風呂に見立てるとは、ギーターを読んだり、聞いたり、勉強をする全てのことです。
感情を起伏させる、欲望(カーマ)、怒り(クローダ)、貪欲(ロバ)、妄想(モハ)、自惚れ(マダ)、妬み(マッツァリア)が、俗世の汚れを蓄積させ、私達をこの世に縛り付けています。これらを洗い流す為には、ギーターのお風呂が必要です。
サムサーラが洗い流されるとあらゆるものが神様と同一となり、全ては神様の存在だけなのだと理解できるようになります。身の回りの物事や他人は、サムサーラの一部としてそこに存在し続けますが、それらでさえも神様の存在と見られるようになるのです。それは、ギーターの知識によって自分の視野が変わり、物の見方が変わるからです。
ギーターの勉強は、ラジャシックやタマシックな性質で満たされた俗世の物事から生じたサムサーラを取り除いてくれます。ラジャスやタマスの詰まった6つの敵(利己主義、強欲、貪欲さ、憎悪、怒り、嫉妬)を感じている時は、サトッヴァ性がとても微弱になっています。これらは単に俗世への執着から生じているだけで、幻であることを学ぶ必要があります。執着を断ち切り、心を清めていくことがとても大切です。
20.
この俗世に生きていたとしても、ジャナカ王や他の多数の王様のように、ギーターに救いを求めれば、全ての罪が清められ至高の段階にある目的地に辿り着くことができる。必ずそのようになると、ギーターは歌われている。
コメンタリー:
ジャナカ王は、シータの父親でカルマヨーギであり、ギーターの教えを忠実に実践しながら生き抜いた人です。神様と常に共にあり、肉体の無い状態(ヴィーデーハ)であり肉体に止まったまま悟りを開いた状態(ジーヴァンムクタ)でもありました。
ギーターの教えは、聞いたり読んだりしているだけでも御利益はありますが、その内容を理解して日常で実践することができると、いち早く人生の目的地に到達することができます。本当の意味を知らなくともギーターは導いてくださいますが、ゴールへの道のりは長くなってしまいます。一度意味を理解した途端、全ての罪が焼き尽くされます。
ギーターは、誰にも死は訪れないと言っていますが、それはアートマンには死はないということです。ダルマを実践し、常に神様が偏在しているのを見られるようになるのがギーターの教えです。
ギーターの真の意味であるセルフを理解すると、全てのカルマの種が焼かれ新たなカルマを生み出すことはなくなるので、サムサーラも消失していきます。プラーラブダカルマは結果を経験しなければなりませんが、サンチッタカルマやアーガーミカルマは消失し、新たなカルマの発生には繋がりません。
自分に対する如何なる不平であっても感謝であっても、相手の為に対面的には受け取るべきですが、心の中では受け入れてはいけません。心のレベルでも、自分が批判されたとか評価されたと捉えてしまうと、それは自身のエゴを強めることにつながってしまうからです。そうではなく、全ては神様によって与えられた不平や感謝を受け取る機会であると捉えなさい。神様は私達のこの肉体を道具として使い、いろいろな評価を受け取る経験をされているだけなのです。
悟りの境地に達すると、私達は他者を教える為だけに行動をするようになっていきます。
21.
毎日、昼夜問わずに聖典ギーターを聞いたり読んだりしている者は、人間の域を超越し本当の神域に到達したと言える。
コメンタリー:
ギーターは神様の口から発せられた神様の歌なので、これを毎日聞いたり読んだりすると普通の人間から高次な道を辿り神様となっていくと教えてくれます。
22.
意識的もしくは無意識のうちに犯してしまった、感覚器官や運動器官を通じた全ての罪さえも、継続的にギーターを勉強することで即座に消滅する。
コメンタリー:
ギーターを読むことで、信じる力が芽生えて知識を得ることができ、その知識に基づいた行動と思考ができるようになっていきます。ギーターの教えに対しては、信じる力とそれを信じ抜く信仰心が必要です。私達は心を神様に向けて大きく開き、私達自身が神様なのだと気付かなければいけません。私達が神様になるということは、全ての罪もが破壊されるということです。
23.
学識があり、善行を行い、物事を洞察する力があり、活動をして、苦行(タパ)をし高名(ヤシャ)であっても、ギーターを勉強したことのない者は、実際は低い身分と言える。
コメンタリー:
もしたくさんの知識を持っていたとしても、ギーターを読んだり聞いたりしないのであれば、それはまだまだ低い位置にいるということです。
ギーターを読み最高の知識を得ることができると、さらに信仰心が深まります。ありとあらゆる聖典や経典の本質がギーターに詰まっており、ギーターの教えは全ての聖典の本質の中の真の本質です。ヴェーダの本質であるウパニシャッドの本質でもあります。この節は、ギーターがどれだけ素晴らしい尊い教えなのかを語っています。
24.
恐ろしい大海であるサムサーラを渡り切りたいと思ったら、ギーターという船に乗船すれば、いとも簡単に反対側の海岸にたどり着くことができる。
コメンタリー:
サムサーラは、悲しみや苦しみの詰まった大海とも言えるでしょう。サムサーラがあるから、私達は幸せを求めるのです。ガンジス川が常にそこにあるように、サムサーラの大海をなくすことはできません。しかしギーターの教えは、この大海に浮かぶ船のようなもので、教えに沿った修練を続けることで、その船に乗船しサムサーラの大海を安全に渡ることができます。船に乗船するということは、サムサーラから分離され、影響を受けなくなるということでもあります。けれども、船はひっくり返ったり沈没する恐れもあることを忘れないでおきましょう。船の本来の役目は、私達を永遠に幸せで過ごせる安全な地へと連れていくことです。その安全な地とは、人生の目的地であり神様を実現するということです。神様と共になれれば、あらゆる所が永久不滅で絶対的な幸福に包まれている場所になります。この神様を実現することも、一瞬で達することができます。
至高の神様だけがアーナンダを与えることができます。外界にある対象物は一時的な幸せしかもたらせませんが、本当の幸せは内から湧き出てきます。これは、同じ対象物であっても、時と場合によっては幸せをもたらす時もあれば不幸せをもたらすこともあることから、一時的と考えられます。それでは本当の幸せとは言えません。
一つの欲求が実現すると、私達は満たされてその物に対しての欲求がなくなります。一つの欲求が満たされ次の欲求が生じるまでの瞬間、それがアーナンダです。古い欲望が満たされ、新しい欲望がまだ出てきていない、その合間のギャップ、欲望が何一つ存在しない間には純粋なる意識のみしか存在しなません。これは世俗的な対象物に対する欲求のことを言っています。ですから、欲望が少なければそれだけ幸福度は増し、欲望が多い程幸せは少ないとも言い換えられるでしょう。これはヨーガ的な方程式です。日常的な消耗品は必要ですが、それらからでも満足感を得ることを学ぶことができれば、欲望が消滅していくでしょう。世俗的な欲望は減少させていくべきであり、反対に精神的な聖なる欲望はそのままの心を持ち続ければ良いだけです。
聖なる欲求(サイッチャ: 本当の欲求、これは悟りに到達するまで持ち続けるサトヴィックな欲望)は、解放されたいと願うサトヴィックな欲求のみです。聖なる欲求は、悟りに向かう私達を強く守ってくださり、神様に対する集中を高めてくれます。人生の目的は神様を悟ることであるとしっかり心に刻み、俗世にあるものは永遠であるものは何一つなく、私達に至福を与えてくれるものは何もないと心に留めておきなさい。
感情は表現してもいいですが、ギーターの教えに則った義務である行為だけをしていれば、信仰心は徐々に増してくるでしょう。
25.
ギーターを読み終えた後にこのギーターの栄光(ギーターマーハーットミャム)を読まない者は、ギーターを読んだことによる御利益を得ることはなく、無駄な努力となる。
コメンタリー:
これはギーターの読者をテストする、その人の中のギーターへの信念や神様への信仰心を確認する節でもあります。ギーターはただの本ではなく、神様御自身の口から発せられた御言葉です。このギーターの栄光は、真摯な信念と献身と共に勉強されるべきであり、栄光(マーハーットミャム)が心の中に生み出されます。
ギーターを学ぶ時にギーターの栄光を読まなければ、ギーターの本来の恩寵を得ることはできません。ギーターそのものの素晴らしさや偉大さを知らなければ、信じる力が生じて来ないからです。信じる心が芽生えれば、もっとギーターについて知りたいという願いが生じ、深い信仰心が育っていきます。ギーターを尊びその前に平伏せば、もっとたくさんの知識が与えられます。ギーターの栄光を読むことで、ギーターに対する信頼が深まると同時に、もっと学びたいという欲求が生まれ、それに見合うたくさんの知識がもたらされます。
26.
ギーターを学ぶ者は、このギーターの栄光も一緒に学ぶべきであり、そうすることでここまで述べてきた御利益などの結果や状態を得つつ、至福の境地に達することができる。ギーターの栄光の学びがなければ、それらの結果を得るのはとても難しい。
コメンタリー:
ギーターを学ぶ時にギーターの栄光を一緒に読めば、ギーターからの御利益が一瞬にしてやってきます。しかし、ギーターの栄光を読まずにギーターを勉強したとすると、もちろん御利益はありますが、それは大幅に減少してしまいます。
最後にスータが言う
コメンタリー:
スータは聖者の一人であり、全てのプラーナ、シャーストラ、聖典の解説をした人です。グルの一人アーチャリアであり、このギーターの栄光を物語った当の本人です。
27.
この偉大なるギーターの栄光は永遠のものであり、私、スータの口から発せられました。これはギーターの勉強を終えた後に必ず詠唱されるべきであり、そうすることでこの中で説明された結果を確実に獲得することができるでしょう。
コメンタリー:
ギーターの勉強をした後は、ギーターから得られる御利益を再確認する為に、このギーターの栄光を読むべきです。再確認することで、自身が歩んでいる道に確固たる信念を抱くことができるからです。このように、このギーターの栄光を書いたご本人である聖者スータが明言されました。これは母なる大地に切々とお応えされたヴィシュヌ神のお言葉を再確認する為の節です。
これにて、ヴァラハプラーナ(18種のプラーナの中の一つ)の中に書かれているギーターの栄光を終える。
Om Shanti Shanti Shantih
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