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9月最初の日曜の手紙(2018年、O君へ)

おはよう。9月最初の日曜の朝だね。どんな時間を過ごしてる?

この前ちょっと話した「インタビューして記事にするようなこと、また始めたい」って言っていたこと。ひとつ方法を見出しました。

それは「最期の手紙」というコンセプトで言葉を綴ることです。

具体的な人物に向けて、まるでその人のためだけに書くような気持ちで言葉を綴る。それも、もしかしたらそれが最後にあるかもしれないっていう気持ちを込めて。それって、取材するのとはまったく別のベクトルから、人を描き出す行為になるのではないかと考えました。

「この人とだったら、何を話したいだろう?」と想像することが、その人とのつながりを思い出す時間になるし、選ぶ言葉は、これまでの私とその人との関係性の中で培われた空気感や信頼、あるいは願いのようなものを反映しているような気がします。

信頼という言葉を用いたのは、例えば何年も音信不通になっているような相手に手紙を書くような時にも、私はそこに信頼を持って臨みたいなと思っているからです。この人私のことを怒っているだろうな、嫌いだろうなという相手。そういう人にも、(最期の手紙)を届けるように真摯に言葉を選んでゆくという「選択」があることを、私は一生忘れずに生きようと思っている。だから信頼というのは、回復力に関する意味合いも含んでいます。

O君にもし「最期の手紙」を書くとしたら、どんな言葉を選ぶだろうと私は考えました。そして、面白いなと思うのは「最期の手紙」といいながら、そこにあるのは「時の終わり」という感覚ではなく「続いていく時間」への想いなのだと気づかされることです。

こと、悪友である君に対して、私はあんまり感謝の言葉とかを伝えたくないなと感じています。なぜならきっと君はまたこれまでの分を簡単に超えるくらいの偉業をしでかしてくれるだろうと思っているし、君のちょっと抜けているところを指摘することの方が、愛情表現として私にはしっくりくる気がするのです。

あなたのしていることの素晴らしさは、多くの人が受け止めていると思うし、反対に酷い言葉を投げかけてくるような人もいるかもしれないけれど、そんな奴がいたらその百倍くらい私がいることを思い出してほしい。社会的な力はほとんどない私ですが、すごくいい音のするこころの鈴を鳴らすことはできるよ。

あなたの活動のことを思いながら、こころに浮かんだ、尋ねてみたいことがあります。それは、(いじめ)というテーマのことです。

いじめって、本当にびっくりするほど幼い世界にも存在するし、大人になっても消えるものではない。とっても正義でまっとうなベールをまとっていた(大人じみたいじめ)はいろいろなところ潜んでいると感じます。

(いじめ)って、なんなのだろう。

例えば私は、幼い頃に、ただ笑っているだけで気持ちが悪いとか、目が腐るだとか言われたことがあります。あれはいじめだなあって思うのだけれど、当時の私は、同じく幼いはずのあの子がどうしてそういう言葉を身につけていったのか、そのことがとてもショックで不思議でなりませんでした。私の世界にはないどんな経験が、彼女の世界に存在していたのだろう。

と同時に、自分が受けた傷の大きさにもびっくりします。もしかしたら本当に私は笑っているだけで気持ちが悪い存在なのかもしれない、という気持ちがだんだん大きくなってきて、鏡をみるのが嫌になりました。笑うとブスが酷くなるんだ、という気持ちが芽生えると同時に、自分を醜いと思うのは家族にも悪い気がして、居場所がなくなってゆく感じがしました。それと反比例して、恥ずかしいとか惨めという気持ちがだんだん大きくなっていきます。

それでも「そんなこといわないで!」とその人に言い返すことができなかったのは、そんなこといったらまた笑われるんじゃないかという恐怖ももちろんありましたが、少しだけ、こんな考えがこころに宿っていたからです。「本当にかわいそうでつらいのは、もしかしたらこの人なんじゃないかな」。かわいそうになれないくらい、つらいことがあるのかもしれないと。

「そんなことをいわないで!」ということができたのは、私の尊厳、そしてその人の尊厳のことも守りたいっていう気持ちとつながることができたとき。(はじめて言葉にできたのは、小学校に通うようになってからのことでした)

書いているうちに、いろいろな記憶に押しつぶされそうになって。それに、悔しかったこと、本当は相手のことなんて考えられず、とにかく世界が終わってほしいと思っていたことが、いま、少しずつこころに浮かび始めてます。忘れていた記憶なのに、掘ってみるとまた新鮮な土の香りがする。

どうしてこんなことを、私はあなたに書いているのだろう。それは、あなたの取り組むお仕事が、この(いじめ)という問題に深く関係しているように思うからです。

いじめというのは、居場所を失ったこころが、自分の場所を守ろうと必死になって起こす行為ではないでしょうか。(私には確かに居場所がある。安心していられる、立派な居場所があるのだ)ということを確認したくて、起こる行為ではないでしょうか。

あ。それだけではない。単なる好奇心でっていうのもあったなと、私は振り返ります。好奇心を満たすために、酷いことをいって、相手がどう反応するのか、どれくらい耐えられるのかを目撃していたいという衝動だとか。こころの闇の深さは当事者である私にもわからない。これは闇なのだろうか。あのとき、鋭くえぐるような言葉をなげていた私は、楽しんですらいたように思います。

こころは、何を求めているのだろう。どうかその問いとずっと静かにふたりきりでいさせてくれないでしょうか。そして、必要なときに声をあげたら、誰かそばにいてくれますか。

そんな言葉を、私の中の誰かが発しているのが聞こえてきます。

もしかしたら、運命のいたずらが、その、私のことを(いじめていた)女の子と私を親友にするようなこともあるのではないでしょうか。そんなのは夢物語みたいなことかもしれないけれど、私たちは知っているようでいて、お互い、相手のことをほとんど知らない。

それぞれの人の中には、自分ですら知りようのない自分自身が、(知る)という行為が到底追いつけないくらい途方もなく膨大に、宇宙のように静かに横たわっている。私はそんなことを思っています。

O君にこの言葉をあてたけれど、本当はどんな風に受けとめられるのか、ちょっと不安です。うまく伝わっていない可能性が8割くらいありそう。だから(ごめんごめん、あの時書いたことの真意はね...)って、きっと説明することになると思う。

だから思うよ。大切なことは、手紙じゃだめだ。忙しいかもしれないけれど、会って話す時間をつくろう。聞いてほしいことがたくさんある。そしてその倍くらい、聞きたいことがたくさんあるのです。

あなたが未来に描いている風景のことだとか。