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加賀藩邸の跡をめぐる 〜上屋敷・東大編〜
久しぶりに、金沢城の二ノ丸御殿跡へ行ってきました。
工事の仕切りに、アートパネルがあり、屋外ミュージアムです。
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二ノ丸御殿跡の発掘調査で掘られていた穴は、埋められています。
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さらに、二ノ丸御殿復元へ向けての情報提供ということで、五十間長屋のチケット売場だったところに、二ノ丸情報館が出現していました。
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二ノ丸御殿とは?
金沢城は、もともと本丸を中心に作られてしました。でも、寛永8年(1631年)の大火のあとから二ノ丸御殿がお城の中心となっていきます。
大坂の陣で豊臣氏が滅んで約15年。第3代将軍家光の時代となり、戦乱から平和な世の中へ移った時期です。
お城も、戦争に備えた拠点・要塞の意味が薄れ、役所としての機能が主となっていました。
二ノ丸御殿の図を見てみましょう。
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御殿は、3つの機能に分けられて、玄関から順に、表向、御居間廻り、奥向となっています。
表向
役所としての機能
儀礼や政務の場
御居間廻り
藩主の生活空間
奥向
城に居住する女性たちの空間
表向が、1番堅い公の場で、御居間廻り、奥向とカジュアルになっていきます。
江戸の大名屋敷
江戸での藩邸は、基本的に最低3箇所の拝領屋敷がありました。
これも、上屋敷、中屋敷、下屋敷と江戸城から離れるほどカジュアルになっていきます。
上屋敷から回ってみましょう。
上屋敷は東京大学
大名の上屋敷は、江戸城のまわりに集まっています。
参勤交代で隔年で江戸にいる間に、大名が定期的に登城しなければならないためです。
大名は、ここに住み、政務を行います。
加賀藩の上屋敷のあった場所は、東京大学です。
大坂の陣が終わったころに、加賀藩の前田家がこの場所を拝領しました。
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天保改正御江戸大絵図(古典籍資料)
地図を見ると、右から1/4あたりの真ん中あたりにある白い場所に加州とあります。加賀藩のことです。
最初は、下屋敷として使われていました。上屋敷となったのは、1683年です。
なぜ?
と気になって、見てみましたが確証は得られずでした。
でも、明暦3年(1657年)の明暦の大火のときに、江戸の町を防火の面からも改造し、お城まわりの大名屋敷を再配置したとありました。
天和2年(1683年)1月には、八百屋お七で有名な天和の大火が。
八百屋お七が原因で、加賀藩の上屋敷が東大の場所になったのかもと妄想するとなんとなく楽しくなってきます。
東大のキャンパスに戻りましょう。
東大は、文化財になっている建物もあり、建築好きにはたまりません。
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でも、今回は建築を見に来たわけでもありません。
いざ、加賀藩邸の形跡を求めて。
三四郎池
東大のキャンパスの真ん中あたりにあります。三四郎が、美禰子と出会ったところです。
夏目漱石の『三四郎』以来、この名で呼ばれています。
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正式名称は、育徳園心字池。
第3代加賀藩主前田利常が、1638年に築造した上屋敷の庭園です。江戸時代にも、上屋敷の真ん中あたりにありました。
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御江戸上屋敷絵図
池の回りを散策できる回遊式庭園です。滝や階段の脇の岩が、豪快な武家の風情を感じさせます。
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赤門
それから、東大の代名詞とも言える赤門。
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この門は、文政10年(1827年)に将軍の娘、溶姫(やすひめ)の輿入れのために作られました。
町家を移転させてまでの建造だったといいます。
大名屋敷、外から見られる立派な門は江戸の「名所」でした。
前田家の鮮やかな赤門も、名所です。
鳥取藩池田家の上屋敷の門、通称黒門も有名でした。今は、東京国立博物館の敷地内に移築されています。
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名所なのになぜ名所絵であまり見ないのか?
それは定かではありません。でも、主要機関がセキュリティーのため撮影禁止という国も多いことを考えると、さもありなんと思えます。
さて、大名屋敷の門は、石高により規定がありました。
加賀百万石と謳われる加賀藩の門は、最上級です。
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両側に、唐破風造りの番所があります。中央の門も、長屋門ではなく独立した門です。
黒門も、池田家約32万石と大藩なので、同じ形式の門です。
十万石までだと、長屋門で、番所は屋根庇。
五万石以下だと、長屋門に片庇の出格子の番所と、武家屋敷の長屋門に近くなっていきます。
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赤門、ナマコ壁も使われていて、瓦には前田家の家紋の梅があり、金沢城を彷彿とさせます。
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三十間長屋は、金沢城に残る数少ない江戸時代建築の一つです。
こちらは、斜めでないナマコ壁に、梅紋の瓦です。
加賀藩から分かれた大聖寺藩、富山藩の上屋敷は、東大病院のあたりにありました。
拝領ではなく、加賀藩邸の一部を分割してつくられています。
東大病院もすてきな建築なので、通りすがってみましょう。
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そろそろ上屋敷をお暇して、中屋敷へ向かいます。
参考
「江戸三百藩大名列伝」株式会社知楽
株式会社ディラナダチ 編集
「加賀殿再訪」西秋良宏 編
日本橋ホームページ
https://nihombashi-tokyo.com/jp/history/310.html