金沢の女川にかかる華奢な橋、浅野川大橋
金沢を流れる2つの川、犀川と浅野川。
この間に金沢城があり、その周りに金沢の街は発展してきました。
江戸時代には、お城を守るため、橋は2つの川に3つだけでした。
犀川に1つ。犀川大橋。
浅野川には、2つ。浅野川大橋と小橋。
今回は、浅野川大橋を見てみましょう。
浅野川大橋の木橋時代
犀川大橋と同じ年、文禄3年(1594年)に加賀藩祖の前田利家によってかけられました。
当時は、木橋でした。お城へ入るための要所です。
でも、江戸時代中期の絵図を見ると、とても賑わっていて、物々しい雰囲気はありません。
文政3年(1820年)には、ひがし茶屋街が右奥にできて、なお賑わっていくこととなります。
この絵の右に見える白い蔵と思われる蔵は、今も残っています。
この蔵は、2022年5月に新しい施設としてオープンしました。浅野川園遊会館です。
ひがし茶屋街や、浅野川園遊会についての展示がされています。
先の浅野川四季風景図も見られます。
でも、蔵じゃないじゃないと思いましたか?
この町家の中に入り、坪庭を抜けるとれっきとした蔵があります。
話が飛びましたが、戻ると、江戸の頃から昭和の半ばまで、浅野川大橋あたりは、夏の夕涼みスポットとしてとても人気でした。
こちらは、明治時代の浅野川夜興というお祭りの様子です。夏には普段でも、多くの人で賑わっていて、氷や果物の露店が並んでいました。
その中には、現在のかほく市で名産品だった「木津桃」もあり、人気でした。
明治時代には、まだ木橋で、明治36年(1903年)に木造では最後となる橋の架け替えがされています。
鉄筋コンクリート橋となった浅野川大橋
今の浅野川大橋は、大正11年(1922年)につくられたものです。
西洋風の橋です。アール・ヌーヴォーぽい曲線部分もありつつ、とアール・デコ風直線のきいた華奢なデザイン。
女川の異称をもつ浅野川にぴったりです。でも、大正ロマンのためにつくったのかというとそうではありません。
大正8年(1919年)、金沢の中心部に市電が通りました。
この第1期戦を見ると、浅野川大橋まで。第2期線を見ると、橋から北へと伸びています。
ピンときましたか?
そうです。この市電に耐えられる橋にと鉄筋コンクリートで浅野川大橋がつくられることになりました。
不思議なのは、浅野川大橋が完成したのが大正11年12月14日。でも浅野川大橋からの市電の延伸は、その年の7月13日。約半年、どうやって市電が走っていたのか?
本を見てみると、
大正11年(1922年)7月3日、浅野川大橋〜小坂神社前間開通
同年12月14日、橋場町〜浅野川大橋間開通
となっています。
※小坂神社前が地図で「山の上町」とある北側です。
これから考えると、橋の完成まで、市電は浅野川の上は走っていなかったというのが真相のようです。
犀川大橋は、一足早く、大正8年に木製から鉄筋コンクリート製に切り替わっていましたが、浅野川大橋のできた年、氾濫のため落橋してしまいました。
それから、大正13年(1924年)に新たに今の鉄橋としてつくられたので後少し、2024年に百歳になります。
浅野川大橋は、大正11年(1922年)12月に完成し、そのまま残っています。
ということは、去年、2022年の12月でちょうど百歳。
記念プレートで、ひそかにお祝いされていました。
浅野川大橋も四季により、時間により、いろいろな姿を見せてくれます。
金沢に来て、近くにある茶屋街を訪れるときには、浅野川大橋にも注目してみましょう。
参考
「浅野川年代記」
「北陸鉄道のあゆみ」
市史年表 金沢の百年
https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/shishinenpyou_t.htm#meiji
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